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徴兵と徴農発言を撤回したそうで、この発言の意図は道徳や規律や倫理を説く為だとか、らしい。
社民党らの抗議で撤回したのだが、何故に抗議をするのだろう? 尤も、一般の反応では、理解出来るものとして3割、出来ないのは6割で後は分からないそうだ。 反対する県連らは「憲法遵守の知事にあるまじき発言」だとして抗議している。 もっと昔なら、「戦争に送り出すな」とかだったのに、それはもう聞かれないのかな? 理解出来る人間が増えているのはそうしたモラルや規律の低下を嘆いたから、なんだろう。 そういう風潮と前提があるからこそ、反対派は最低限の事しか言えなくなっている。 反対派はこう言えばよかったんだ。 「散々好き勝ってやって来たお前が言えたきりか!」と。 「徴兵してもモラル向上には繋がらない。」 「予算を逼迫させる。」 何故か反対派はモラル向上には繋がらない例として韓国の状況を取り上げない。 徴兵制を敷く韓国はモラルの高い国なのか、矢張犯罪はあるし、日本よりも厄介だったりする。 もう言わずもがななのだが、韓国を贔屓する特定の連中はそうした事例を避けている。 はっきり言えば、徴兵制てのは予算もモラル向上などの後付け目的も関係ない。 税金と同じである。 国を守るただそれだけのことだ。 国、政府の都合でしかない。 下々の意識なんて汲み取る余裕なんざある筈なかろう。 人は自由なのに何故法令に従わねばならぬ? 変ではないのか? これは我が国の刑務所に入っている外人受刑者の食のタブーと同じだ。 法律を犯した犯罪者が何故宗教のルールに従うのだろうか? これも答えがある。 宗教てのは、言葉の規則と同じだからだ。 詰まり、言葉というのは一定の共通理解(ルール)があってこそ発揮するものなのである。 言葉が人間行動を決定付けるものだからだ。 はい、これで宗教というのが何であるか解ったろう。 徴兵制(徴農制)に理由付けの反対なんて全く無意味。 もし、反対するのならモハメド・アリみたく良心的拒否をすればいいのだ。 体制に頼むこと自体が怠惰だ。 いわゆる日本左翼は反体制を標謗する割りには、ちゃっかりと権力に擦り寄ったり、権威主義的である。 ここでは個人の都合は考えられない。 もっともらしく言えば辛いとか嫌だとか傷付けたくないだとか関係ない。 東国原知事もなんでか安易な言説に頼ったんだろうか。 これは勧心を買わすだけだろう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007.12.07 04:43:15
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