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キャプションがついていないと誰が喋っているのか判らない。
しかし宮迫のナレーションは上手い事は上手いのだが、多少ずった様な響きを感じがする。 関西の人なのに、訛りがない。 訛りに関しては後述するが、ずった感じとは、球場のダイヤモンドを回る時のスライディングのようなもの。 滑らかな滑り込みではなく、摩擦を伴う感覚。 とは言っても宮迫の喋りがカミカミではない。 明朗ではある。 それだからこそ抜擢されたのだろう。 宮迫も鍛練を積めば最高のナレーターとなれるだろう。 天野っちのを聞いた事あるが、これがあのウィンナーソーセージから出る声とは思えない明朗快活な美声である。 麒麟川島もいいが、天野っちには敵わない。 平野綾をして川島の声に惚れると評価せしめたのだ。 標準語を基調とした文章を朗読させても、癖や訛りのある地域でも是正されるみたいだ。 しかし以前テレビで観たが、無アクセント地帯である茨城の青年に文章読ませた所、訛りが是正されなかった事もあるので一概には言えないな。 よく、御飯事で日本各地の子供達にやらせた所皆標準語になっていたと言うサンプリングがあった。 アクセントなんて、日本語の文章には無いのだ。 頭の上(この様な横組みに於いて)に黒丸か、文章の直ぐ下の行に波を打たせている。 箸(はし)を ・ はし と読ませる事がある。 真名仮名混じり文章でイチイチ頭に黒丸を添えるような馬鹿な事はせんだろう。 これをやれば忽ち全体主義となる。 東と西ではアクセントが違うので、文章にしても一見同じ様に見えるが、これこそ親から子へと受け継がれる様な無形の伝統文化なのだろう。 詰まり、文章に出来ないのだ。 現在は標準語が主流である。 大阪以下関西では東京辯等と揶喩してる。 大阪が負けたから東京中心なのだろうが、東京中心の言葉だって人造言語である。 後から作られた伝統にコンプレックスを感じているのでは? 関西方言を文字化した所で関西以外の生まれの者が喋っても、ホンマモンの言葉ではないと釘刺される。 結局この言葉ってネイティブ、生来の物でないと体得出来ない。 だが、甘い。 外国人が始めて下りた地によって学べる言葉が出来上がってしまう。 実は日本人が自分達の喋る言葉が日本語であると思い込んでいるからだ。 それによって外国人がその地元の人が喋る言葉を日本語だとして認識してしまうのである。 後からこれが大阪の言葉だとか、山形の言葉だとかを知るが、飽くまでも日本語の一環と位置付ける。 誰も京言葉や泉州辯を日本語とは別の言葉だとは思っていない。 標準語が日本語であると言う事は有っても、標準語にそぐわない言葉は日本語に非ずと言う考えなんか誰も思わない。 尤も、標準語「が」と断定する意地悪な表現ではあるが。 方言って大体古語が残っているから、文字化させる事が容易じゃない。 ○○だべ。の「べ。」と言うのは「すべし。」の「べ」なのである。 漢字に直すと「○○だ可。」 その「だべ。」も解体出来る。 「で有る可し。」となる。 現代日本語は古い時代から連綿と続いていると言う証でもあるが、方言もろとも文章化させると本当に大変な事になるぞ。 台湾の言葉も文字に出来ない物がある。 例えば「チットウ」と言う言葉がある。 これは「遊ぶ」と言う言葉だが、これがなんと大陸にもある古い古い言葉の慣れの果てだったりするのだ。 歴とした熟語(両方共足偏が付いてチチュウと読む)だけど漢字が拾えない…。 スマン…。 文字に出来ないと言う事は、その言葉が出回っても文字に著せない儘、台湾に流れ着いた可能性がある。 日本語は文字の国でもあるが、元々文字が無かった国でもあったが為にこうした乖離が知らぬ間に進んでいるのだ。 纏めとして、文章を書くのは日本語で喋るのは聞き言葉である。 学校教育のお陰でもあるが、我々は日本語を書くのであり、それを声に出して話すのである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.02.04 03:11:34
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