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カテゴリ:映画日和
浦澤直樹原作だけど、監督は堤幸彦。 映画だけど、なんかしょっぱい終わり方。 丸で水戸黄門か必殺仕事人の悪役かと思った。
ともだちはみんなが作った幻想だとか言いだしやがった。 だけど、そのみんなは他者のみんなではなく(自分を内包したみんなでもなく)、みんなを内包させた自分でもあると言う事。
大きな事をしても結局、個人的な恨み事で幕を閉じるのね。 独裁者が、一体どの様にして独裁者へと変貌していくのか、此処からでは解らず仕舞い。
所詮、他人事。 わかりゃせんのだろう。
だから、自分が作った事にしてしまうのかな? それじゃあ、独裁者に元からあった人格は?
独裁者が、なんで独裁者になったのかは、言えやしないよ。 墓場まで持ってくのだから。 小さい小さい、個人的な恨み事に還元してくのは、其の人が結局普通の人だからだろうね。
悪を矮小化してしか描けないと言う、限界を感じる。 正義は大きく、悪は小さいと言うそんな構図。
20世紀少年だけでなく、大体の作品はこうなる。 本当の悪人がシナリオ描ける訳じゃないから、万が一そうだとしても、作品の中でなく実際にやってしまうのだから成り立たないよね。 関係無いが、小澤一郎は自ら作ったシナリオの中で着々と悪徳を進めている様に感じられる。
此れ迄の歴史の中で、悪は栄えた験しが無い。 何故なら、権力者や大多数の民衆によって抑えられたからである。
現代は便利で、悪をある区画で仕切って共存させてるのだ。 ソープ、薬、賭博、ヤクザ、喧嘩…。 初めから、悪の存在をカテゴリさせて、独裁者を産ませない便利なシステムを構築させてるのだから、我が国は平和を享受する事が出来る。
「ともだち」って構って貰えなくて、認められなくて、苛められて、省られて、亡き者にされているのだから、其の現代に衍る価値観を引っ繰り返さずには居られないよなあ。
オウム真理教なんてのは正にそれで、もうちょっと文化的にも多元的であれば、大人しく出来たんじゃないかと思ったが、それじゃあこの映画の結末と一緒か。 2chが出来てれば、オウム真理教なんてテロでもやらなかったんじゃないか? スレの中で匿名の自分の存在をこれでもかと他人にアピール出来さえすれば、充足し得た筈だったろうね。 自分は東大で理系で頭良いんだぞって。 それで2chのスレの住人が、はいはいそうですかえらいですねおめでとうと碇シンジを誉め讃えるかのような相槌を打てば良いのだ。
佐賀バスジャックや秋葉殺傷なんてのもあるが、其処迄行くと個人的なエネルギーを抑える事が難しいもんな。 ネットだからこそ、独りでああ迄抑えられたのだから。
オウム真理教なんてのは、教祖からして現存の価値観にどっぷり漬かってるんだから。 まあ、麻原彰晃がどうしてそうなったのか、今となっては頭がおかしくなって会話不能になって、真相を知る由も無くなってしまったからなあ。 独裁者の心なんて誰も解らない。 理解出来ないからみんな、市民社会の人々は「キモい」と蔑む他無いのだけど。 今はネットが行き渡るから、こうしたプチ・オウムがお互いの心を通わせて、意見交換して何とか平静を保って居られるのだ。
プチ・オウムはオタクと置き換えても良い。 そんなオタクがほんだシステムの様な一切の隔離された社会に居る訳ではないので、市民主義的価値観をオタクのコミュニティに引っ張って持って来て、オタクの世界に常識をトレースさせてく。 コミケなんか、昔は東海林のり子に10万人の宮崎勤が居ると言われてたが、今でも怪しい雰囲気を醸し出しているが、一応常識の範囲内で活動(規制)してるから、何とか平穏無事に保って居られるのだ。
残念ながら、此れすらも解らない人達が居るらしい。 自分の信じる物だけが常識と疑わない人は、カルトと看做しても良い。 コミケを馬鹿にしてる人は(馬鹿にする位なら良いが、存在そのものすら疎ましく思う人達)、自分の好き嫌いで価値が動く人と考えるべき。 何の為にカテゴリ分けをするのか、其の為の法治国家ではないか。
これが解らない人が、自分は頭の良い市民だと勘違いしてると言う事で、少なからずいる様だ。 今の社会はそれこそ多様化の社会なのだから、我関せずが一番良いのだけど。 CDだってJ-POPのジャンルが売れないもんなあ。 安定的な演歌やアニソンが売れる始末。
我田引水牽強付会だが、価値を統一させようとする人達がいるのだから迷惑。 風俗を無くせとか、ヤクザを滅ぼせとか、ギャンブルを止めろとか、嗜好品を潰せとか、ゲームやアニメや漫画を作るなとか、自分の気に入らない物を無くしてどうなる。 これこそ、独裁者の考える事なんだが、「ともだち」の様な恨みで出来た復讐鬼では出来る筈もないんだが。
自分が満足さえすりゃ良いのだから。 「ともだち」の向こう側にもう一つ対立する価値観が有る様だな。 だが其の価値観は、一部の人間が作ろうとするもの。 こんな自分の気に入らない物だけが無くなれば良いなと言う人達が、果たして存続できたか、答えは否である。 決して組織では成り立たないからである。 全て個人の儘に帰結するのだから、正に独裁者の最後と言える。
岡田斗司夫の「世界征服は可能か」や「オタクは既に死んでいる」を感じられずにはいられないでいる。
なんでフランスではブルカとかイスラム社会に非寛容になったんだろうね。 猿固辞はハンガリーの貧乏貴族の末裔の癖して、受け入れてくれた社会にスポイルされたとしか言いようが無いね。 スターリンとか、ヒトラーとか、猿固辞もそうだが、自分がマイノリティだったと思い込んでるからこそ、暴走する嫌いがある。
だが独裁者の気持ちなんか解ったら、誰でも独裁者になれるだろ。 寛恕の心か。 広く衆生にそんな解脱の境地が有れば、世界は平和になれるのに。 だが、それをしてしまえば人の歴史は終わる。 そんなものだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2010.09.22 04:00:36
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