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カテゴリ:映画日和
駿の引退が発表された。 詳報は今月六日らしいが、今更説明しなくてもいいんじゃないのか? プロレスラーの引退宣言のようなもんだ。 この人は死ぬ迄クリエイターなのだ。 弟子や息子が腑甲斐無い作品を作る度に口出して、それを乗り越えちゃったりするのだ。
風立ちぬ作って五年掛かったという。 次回作を仮に作るとしても、5年所ではないだろう。 上映する頃には傘寿だな。
年を取った人は、基本的に現代の感覚に付いて行けずに過去の時代の作品をテーマにし勝ちになる。 風立ちぬは大正昭和だから、この時点で駿が現代の目まぐるしい感覚と感性に付いて行けなかったのだろう。 過去に制定された憲法には敏感になっても、これから先には鈍感になるのが老人。
唯、駿は時代には拘らない人なのだ。 これはどの作品を通しても共通である。
ナウシカから風立ちぬまで、駿には「私」しか存在しない。 何故庵野が起用されたのか、未だ分からないでいるような人が居る。 戦争の悲惨さとか、命の尊さとか自然の素晴らしさとか、そんな薄っぺらなものではない。
駿は過去と未来に会いたいのだろう。 駿の作品には鷲鼻のお婆さんが登場する。 これは駿の母である。 それと同時に髭もじゃの爺さんが登場する。 こちらは駿自身であり駿の智慧そのものである。 そして主人公は眉毛が太い。 これもまた、駿自身である。 髭が生えない分だけ、幼き駿そのものであり、未来の駿が過去の駿を諭し導く役目を負う。 Fateに出て来る衛宮士郎と未来のエミヤが邂逅して、過去の衛宮士郎に教え導き諭すような役目を負っているのが判る。 まあ少女は言うまでもないね。 これは駿のリビドーであるから。 とは言っても少女も駿自身である。 詰まり、駿は全にして個であり個にして全の存在、神なのである。
大体創作者はこれに尽きるのだが、庵野秀明も指摘してるように、大人の物が描けるようになった。 永遠に繰り返されていた過去への拘泥から漸く解放されたと言って良い。 ポニョでは宗介が意地悪な婆さんを助けに向かうシーンがある。 これはネタバレしてしまったのだが、日テレでこの場面を解説してしまった。 母(婆さん)を救う駿(宗介)に照らし合わせているのだと。
駿(ジブリの主人公)は母(ヒロイン)を救うためにあらゆる時を超え、あらゆる所に現れ、押し寄せる波に抗い、願いを叶える為にそのセカイに降り立つ。 丸で彌勒菩薩だな。
まどか☆マギカもほむほむがまどかを救うべくあらゆる時を超えてあらゆる所に現れ普く願いを叶える為にそのセカイに降り立つ。 千と千尋でも千尋がハクを救うように見えるがあれは本当は、カオナシを救う話なのである。 どう観ても暴走する使徒である。この場合、暴走するのは使徒でもエヴァでも同じだろう。 水浸しの線路を往く列車に居るのは千尋とカオナシである。長く果て無き列車の旅は丸で同じくして碇シンジがこれから先の見えない世界へ往くかのような描写である。 ポニョもセカイが水没する。 これはどう観てもセカンドインパクトだ。 セカンドインパクト後のセカイも水没してるのである。
こう考えるとやっぱりジブリとエヴァは共鳴し合ってると言って良い。 庵野がずっと駿の背中を見詰めて追っ駆けているのだろうけど。
髭(鬚)もじゃの碇ゲンドウは駿自身なのだろう。 庵野にはそう見えたかも知れない。 罐詰になって、碌に髭も剃らないでいて分厚い眼鏡光らせている窶れた駿を畏怖していたのかも知れない。 そして飽くなき少女への趣味、ゲンドウそのものじゃないか。 自分が愛した女に先立たれたから、その代わりの生き写したる人形を作らせたんだからなあ。 正に少女に拘る宮崎駿そのものである。 思春期の少年とか関係ない。 ずっと、駿と秀明の関係しかない。 手塚治虫は漫画は本妻、アニメは愛人と言ってたが、駿にもそのような感覚があったのかも知れない。 アニメが本業だから漫画が愛人なのか。 碇ゲンドウも、碇ユイがいながら(死んじゃったけど)赤木リツコと言う愛人がいたのだから、この辺りは相似形なのだろうか。 でも男って色んな所に手を出したがるよねえ。
今回の風立ちぬもまた、親である駿と息子である秀明のダイアログなのである。 今回は駿の因果は感じられない。 庵野に声をやらせたのも、これが庵野を大人として認めたということだろう。 この主人公堀越二郎にとって戦争も震災も色恋沙汰も漂白されている。 ずっと飛行機にしか興味が無い。 関東大震災と言う未曾有の震災なのに、死者が漂う雰囲気が感じられない。 馴れ初めも逢引も初夜も先立たれる事も漂白されてる。 ラブストーリーと思ったら大間違いである。
堀越二郎、彼(庵野)にとって飛行機(アニメ特撮)が全てである。 エヴァが庵野から見た駿の、碇ゲンドウの物語なら 、風立ちぬは駿から見た庵野秀明を思い描く堀越二郎の物語である。 大人を描けていると言う事は、子供が成長してく様を見詰める父親の作品だと言う事他成らない。 庵野秀明が堀越二郎の声を務めた時点で出落ちだとさえ感じた。 一発で判ってしまった。 全てが。 これまで眼鏡青年(ムスカ)が出て来たが、これも駿のダークな部分引き写したのだろうけど、今回の眼鏡青年はそう言ったダークな部分がない。 ムスカも二郎も現世への俗物には一切興味を持ってない。 ムスカはセカイ系だな。寧ろキモイ系。 二郎も一種のセカイ系だが、珍しいくらいである。 何も関心を示さないのに、後の日本を照らすのだから。 瓢箪から駒じゃないか。 先にも言ったが、駿は過去と未来に会いたかったのだろう。
そして、庵野秀明という息子に出会えたのだ。 (吾郎だけじゃないんだよね。) 北斗の拳でもケンは最終的にバットに出会えたのだから。 北斗宗家の繋がりのあるケンとリュウの関係よりも、ケンとバットの関係の方が絆が強いなと感じる。こんな感じかな? 東浩紀はセカイ系を分析したと言われるゲンロンジン(笑)だが、今回の作品は全く分からないという。 実はこれって、エヴァ以降放り出された視聴者が自分で納得行く迄解釈して越えようと描こうとして悉く撃沈してったセカイ系の作品なのだが、気付かない程鈍感になってしまってるのだ。 もっとも判った振りして適当なことをほざいてたかも知れんが。 さて、庵野が今後ナウシカを描けるかどうかである。 これで親と子の物語は完結する。 宇多田ヒカルの桜流しもそんな意味が込められているのかも。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2013.09.03 03:37:43
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