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2日連続で不吉なタイトルになってしまうが、今日未明、愛犬が死んだ。15歳7ヶ月。とても長生きだった。
結婚後は実家においておいたので、いつも一緒にいたわけではないが、ほぼ毎日顔を合わせていた。さすがにこのところ、元気もなくなり「もう長くはないのかな?」と覚悟を決めていたが、やはり長い年月を思うと悲しい。 やんちゃだった子犬時代のことから、寝食を共にしたころ、一時はもうダメかな?と思ったのに、まだ小さかった長女が毎日のように遊んでたせいか元気をとりもどした頃、そして最近の老犬ぶり、いろんなことが頭をよぎる。 朝、訃報を聞いたのだが、長女には話さずに幼稚園に行かせ、お迎えに行った帰りに車の通りが少ない道に入ってから話した。去年亡くなった、ばーちゃんのお友達の話や、幼稚園で飼っていた動物が死んだときの話しなどをした後に「レオちゃん(ウチの犬の名前)死んじゃったんだ。」と話した。 「どうして?」と聞かれ「いっぱいいっぱい長生きして、いっぱいいっぱい疲れちゃって、もう立てなくなっちゃったんだよ。」と言いながら涙ぐんでしまった。 いつもは、繋いでいた手を離してひとりで歩く道なのだが、今日は家に着くまでギュッと手をつないでいた。 5歳になったばかりの娘には、どれだけ理解ができてるのかわからないが、彼女なりに一生懸命レオのことを考えたようだ。口数も少なく、レオはこれからどうなるのか、一緒に考えて少しずつ話した。お空まで飛んでいって、お星様になるんだね。 ペットのセレモニー会館のようなところに埋葬を頼んできた。 一緒に行く、と言うので子ども達も連れて行って最後のサヨナラをしてきた。終わってみればあっけないものだった。 彼の生涯で最後の数年は子育てと重なってしまい、あまり面倒もみてやれなかったし、時にはつらくあたってしまったこともある。イライラしてやつあたりしてしまったし、親切や優しさを忘れて接したこともあったと思う。 小さな体でせいいっぱい生きていたのに、ゴメンネ。 ありがとう。レオ。安らかに。。。 長女は動物好きである。特に犬はダイスキ。次女は動物があまり好きではない。生まれつき備わったものってあるのだろう。父親も母親も動物が好きでも、苦手な子は苦手なようだ。 長女は一緒に遊んだ思い出を、大きくなっても少しは思い出すかもしれないが、次女は無理だろう。 誰かが亡くなった時に、生前の関わりが密であっても自分なりに納得できるだけのことをしていれば悔いは残らないと思う。私は根が冷たい性分だから、自分にできる限りのことをしてやれる人間ではないような気がする。”もっと優しく接してやればよかった”と心残りなことが多い。自分の両親にも満足してもらえるだけのことをしてやれる自信が無い。 「臭い」「汚い」「キモチワルイ」そんな感情を顔に出しちゃいそうだもん。年を取って、あるいは病気になって、死ぬ間際にはキレイで元気でいられるわけはないのだから、仕方ないことなのに、自分のタイヘンさばかりを主張してしまいそう。まるで私が大嫌いな姑のように。。。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2002.01.29 22:46:55
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