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ニッポンとアメリカの「隙間」で、もがく。

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2011.05.04
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アメリカ人の友人が「911がアメリカ人の心にどんな影響を与えたのかを説明するのは難しい。個人的な体験の方がより理解しやすい。この文章は胸にじんと来るものがあり、見事に書かれている」といったコメント付きでFacebookでリンクを貼っていたこの記事
CNNのEatocracyというセクションの編集長Kat Kinsmanが書いた。
更新日付は2011年5月2日午後4時(米国東部時間)とある。

私は911の時はボストンにすでに住んでいた。直接の被害はなかったが、ビルに突っ込んだ飛行機がボストン発だったことからその後ボストンでテロの噂も流れ、かなり心細く怖い思いをした。正直、日本にいる知人や家族親戚との温度差も感じて醒めた気持ちにもなった。
そして今回の震災でも直接の被害はなかったが、ツイッターや個人的なメールのやりとりを通じて得た日本の今の状況とこの911の時のこととを重ねあわせることが多い。

この筆者がオサマ・ビン・ラディンの死を知って取った行為の意図はよく分からない。私はこの行為をあくまで「けじめ」とか「区切り」の表れであってそれ以上のものではないと受け取ったが、これを読んだ皆さんはどう思われるだろう。

でも、あの日にニューヨークで起こったこと、そしてその後にニューヨークの人々がどのような行動を取ったかということを読んでいると、私が今回の震災とそれを重ね合わせる意味が少しは分かっていただけるのではないかと思う。



なんちゃって即席翻訳は以下のとおり(大きな誤訳があればご指摘ください)。




傷口にウィスキーを注ぐ:9・11後の飲むこと、食べることの意味

昨晩、私は自分のためにバーボンウイスキーを注いだ。15年物の Pappy Van Winkleのファミリー・リザーブ。ここ数年、ちびちびとやり続けていたものだ。テレビやツイッターそして通りの叫び声から流れてくるオサマ・ビン・ラディンのニュースの洪水を重い気持ちで何とかくぐり抜けた後に、ここで一度立ち止まりこの瞬間を記念するのはふさわしいことのように思えた。

重要な節目を確認するには多くの方法がある。その中には儀式的意味合いをもたらすものもある。 結婚式ではシャンパンによる乾杯、誕生日にはケーキ。葬儀では親切なご近所さんによるオーブン料理。彼らは言葉少なであっても、そのターキー(七面鳥)肉のテトラツィーニは安らぎを与えてくれる。

今からおよそ10年前の晴れた火曜日のその日、驚くほど多くのニューヨーカーたちが錨を外された船のようにたださすらい、行き場を失っていた。いつものごとくコーヒーを買うという作業に取り組もうとしたり、地下鉄の車両に無理矢理自分を押し込み仕事に向かおうとしていたところに、気の狂った男が自分の町に飛行機を送り込み墜落させた。そんな日にどう振る舞えばいいかについての手引きなど全くない。その後の数時間、家族の無事を確かめるという驚くほど残酷なタスクに加え、家(それがまだ安全に住める状態だと仮定して)に帰るということさえも非常に困難になり始めていた。

私はその日、ニューヨーク市のすぐ北の郊外にあるオフィスパークでの新しい仕事の研修3日目で、トイレやコーヒーポットの場所を周りの助けなしに見つけられるかどうかという状態だった。私は友人らの居場所を確かめたり、当時付き合っていた男性とのメールのやりとりをしていたが、彼はその時、通りの向かいにあるワールドトレードセンターの窓から飛び降りる人たちを見た。 電車が止まってしまったため、どうやってブルックリンに戻ろうかと考えを巡らせることはまるで傷口に塩を塗りこむようなことだったが、何とかしようとする他なかった。友達がもたらしてくれる安らぎと正常を絶対的に必要としていたが、その時、ご近所のジョンとアンナ・ライザが手を差し伸べてくれた。「帰ってらっしゃいよ。何か食べさせてあげるから」

それは些細なことに思えるかもしれないが、これが家に戻るまでの私を支えてくれたすべてだった。私はとりあえず最初にやって来たメトロノースの南方面行き電車に飛び乗った。人影もなく音の反響する地下鉄の各駅を通り過ぎ、マンハッタン橋の上にさしかかると、そこで初めてがれきの山と化し、もくもくと煙を吐く地平線が視界に飛び込んできた。私のように家に戻るのに苦労していた通勤者たちが身を乗り出すようにして、見慣れたはずの光景がいまやどう見ても前歯をへし折られたかのように変貌してしまった様子に衝撃を受けていた。家の近くに着くと、私は電車を飛び降り、坂を上って階段を上がり彼らのアパートへと向かった。

私たちはハグをし合い、アンナ・ライザはソースと分厚くてスパイシーなイタリアン・ソーセージ入りのリガトニパスタを作る作業に戻った。外は暗く、灰と煙と恐怖の不快な臭いがした。そして、時折、あのタワーの片方の誰かの机からはるばる飛んで来た1枚の紙がひらりと路上に舞い降りた。ジョン、共通の友人チャック、そして私は、おそらくこの辺りで唯一開いていたであろう防弾完備の酒屋に赴き、我々が「悲劇的サイズ」と残酷にも名づけたジャックダニエルスのウイスキーボトルを買い求めた。私たちはアンナ・ライザの心のこもった料理を頬張りながら全てを吐露し、アンテナ被害のなかった放送局からの最新ニュースに熱心に耳を傾けた。

短い時間を過ごした後、ただただ衝突と墜落とモクモクと立ち上がる煙の延々の繰り返し以外最新ニュースもなく、チャックと私はアパートを後にし、路上で酔っ払ってハグし合い、別れた。家に着くと、私は6段の階段を上がって黒いタールの屋根によじ登り、川の向こうで起こった大量殺戮を見据え、その日初めて堰を切ったかのようにすすり泣きを始めた。そして、それはいつまでも、いつまでも続いた。

他の多くのニューヨーク市民と同様、私は翌日目を覚ますと頭がくらくらし、背後ではテレビがつけっぱなしになっていた。死者数は増え始め、もう一度屋根の上から昼間のロワー・マンハッタンを眺めても何の助けにもならなかった。チャックからの電話が鳴った。 「さあ、食べるぞ」

ボランティアの機会に関する情報もなかったため何もすることがなく、そこで私たちは開店していたわずかなレストランのうち、ローストチキンを出すメキシコ料理屋に向かった。そして、私はその後数カ月にわたって食べることになったナチョスの第一皿目を注文した。

ナチョスは、シンプルで楽しい気分にさせてくれる。また、塩が利いてパリパリしていて、チーズがたっぷりかかっていて、スパイスがぴりりと利いている。当時の私にとってナチョスは唯一理解可能なものであり、しかも家で料理を作ってくれる人もいなかったので、私と同じように打撃を受けていた友人たちとのナチョスデートは私の日常的な社交生活の一部となった。ボランティアをして、ナチョス。 映画を観て、ナチョス。飲み会でも、ナチョス。

友人の多くが我先にとそのナチョスブームに飛び乗ったが、別の食べ物への執着を独自に開発した友人もいた。その1人はグリルチーズサンドイッチ以外は受け付けなくなり、別のカップルは朝食用メニューだけで生活していた。それよりも厄介だったのは、飲むという行為以外の体へのショックだった。誰もがこれと眠ることを多く繰り返すことにより、私たちは自分の心を大切にくるみ、心臓を撃ち抜かれ穴の開いてしまったニューヨークに適応しようとした。

その中途半端な状態はかなり長い間続いた。 遠くに移り住んだ友人。そうでなければ、死者を悼み、電車の中では見知らぬ人と会話を交わし、衝撃音や雷鳴に慌てふためかない術を学んだ。 それはもう昔のニューヨークではなかったが、私たちは自分たちにとって機能するものを築き上げ、そして、かつてタワーがそびえていた場所を振り返ることは決して止めなかった。

昨晩、この大虐殺を演出した男の死が囁きからうなり声や遠吠えとなってネットやテレビを駆け巡り、そしてようやく大統領の口から伝えられた時、私は唯一自分ができると思ったことをした。私は酒の並ぶキャビネットに向かい、ウィスキーを自分のためにグラスに注ぎ、主人を起こし、グラスを掲げた。最初は、ジョンとアンナ・ライザ、その幼い娘シモーヌ、そしてチャックが現在暮らすロサンゼルスに向かって。次に、静寂のマンハッタンの地平線に向かって。





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最終更新日  2014.10.15 12:15:15
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