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ニッポンとアメリカの「隙間」で、もがく。

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2012.02.08
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小学校2年生のルナが宿題を持ち帰ってきた。

チャールズ・ドリューという、輸血技術の向上に貢献したアフリカ系アメリカ人の医者の話だ。1902年生まれで、45歳で自動車事故で亡くなっている。その事故に遭った際、白人向けの病院では手当てを断られ、黒人向けの病院に到着した時には亡くなっていたとのこと。

これを読んで、ルナがかなり憤慨した様子で、「何でセグレゲーションなんてものがあったのかしら」と言ったのだが、弱冠8歳の口から突然その言葉が出てきたのには心底ビックリした。

私が初めて英語の”segregation”という言葉を知ったのは大学の講義でのことである。これは、ある個人や集団が社会的目的のために隔離させられるといった意味で、ここではアメリカの人種隔離政策を意味していた。
普段は私に対してああしなさい、こうしなさいとはほとんど言わなかった母が、当時「教職だけは取っておきなさい」と言ったので、よっぽど取っておいた方が良いのかなと思い、言われるがままに教職課程も取ったのであるが、その一環の教育学概論のような授業だったと思う。アメリカ人の教育学専門の教授による日米教育比較といったアプローチで、なかなか興味深かったのを覚えている。

さて、ルナの宿題に戻るが、私がこの記事を書くにあたってネットで調べたところ、このドリュー医師が本当に肌の色を理由に治療を断られたかどうかは定かではないようだ。ただ、それが真実だったとしても不思議ではない時代だったというのは確かなのだろう。だから、この部分の真偽そのものより、この時代のアメリカには、黒人に対する差別がまだ公然と行なわれていたことに注目すべきなのかと思う。

「もし私が昔に生まれていたら、私とイザベラはお友達になれないってことよね」
と、ルナは続けて言った。イザベラとは、ルナの白人のクラスメートである。私が感心したのは、ルナがルナの年齢なりに、この問題について理解していることだった。そして、自分がマイノリティーであるという事実を認識しているということにも。

ルナが自分の肌の色を自覚し始めたのは、恐らく6歳を過ぎてからだったと思う。当時の担任の先生が、毎月子供に自画像を書かせるというプロジェクトをしてくれていたのだが、新学期当初は、幼い子特有の、丸い大きな顔のあごの部分から直接足が2本生えている絵だったのが、ようやく胴体がつき、次はお花や木など女の子らしい背景が加わり、名前も書くようになり、そして、肌の色を茶色に塗るようになったのである。それとほぼ同時に、「何でクラスの子達は皆、色が白いのに私は黒いのか。不公平だ」などと言い始めた。ただ、そこには「白が良いイメージで黒は悪いイメージ」というニュアンスは感じられず、ただ単に、皆と一緒ではないのが不満、といった程度のように感じられたので、私は「だってパパとママの肌の色が半分ずつじゃないの」と言って軽く受け流すことにした。

その後もとりたてて自分は日本人だとかアメリカ人だとか、特に自分のアイデンティティーについて考えている風でもなかったのだが、いきなり2段階ぐらいスキップしてマイノリティーと来たか。

ああ、ついにルナもアメリカ社会の現実の扉の前に立ってしまったのだなあ。

ドリュー医師の死から半世紀強で黒人の大統領は誕生したし、この面で世の中はずい分変わり、良い方向に向かっているとは思う。しかし、これからルナは、「イザベラとお友達になれる時代に生まれてよかったね。めでたしめでたし」と手放しでは喜べない思いをたくさん味わされることだろう。

でも、イザベラとお友達になれなかったら、それは、絶対におかしいことなんだ。そのことだけは忘れちゃいけないよ、ルナ。





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最終更新日  2014.10.15 11:57:41
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