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ニッポンとアメリカの「隙間」で、もがく。

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2012.03.10
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バイリンガル環境で子育てをしていて、英語から日本語に訳すのに困った言葉が2つある。share とpleaseである。Please という言葉は誠に便利で、日本語だと「~してください」に当たるが、日本語の場合、この「~」の部分を「開けてください」とか「とってください」などと状況に応じていちいち当てはめないといけないところを、Please の場合は、極端な話、これを一言言うだけで丁寧な言葉として通用する。もちろん、Open it please など動詞を加えた方が文としては完成度が高いのだが、まだそこまで言語能力が達していない年齢の子供でも比較的早い段階で通用度の高い表現を身につけることができる。日本語でも「お願い(します)」とか「やって(ください)」と言わせることもできるだろうが、Pleaseほどの汎用性はないように思う。

Shareは、主におもちゃの貸し借りの場面でアメリカ人(英語話者)の親が良く使う。日本語話者の親が「おもちゃを貸してあげなさい」の代わりに英語話者の親は「おもちゃをシェアしなさい」と言うわけである。

私はこのシェアという表現は非常にアメリカ人な発想だと常々思って来た。
Shareに「共有」と「分配」という意味があるのは辞書で調べて(笑)知っていたが、私の頭の中での英語の「シェア」は複数の人間が輪になって、その間にシェアされるものが存在しているというイメージである。要するに、「円」である。 日本人は、他人の世話になることを「迷惑をかける」と考えがちで、だから、他人の世話になった時は非常にありがたいと思い、後日、菓子折りの一つでも持ってお礼の挨拶に出向くわけである(笑)。一方、アメリカ人は、もちろん他人の世話になったことに関して感謝はするが、迷惑をかけたとは思っていないと思う。むしろ、ギブアンドテイクというか、長い人生、その時々で世話になったり世話をしたりお互い様、という感覚が、相手との親しさの度合いとはあまり関係なく存在しているように思う。だから、非常に気軽に他人にものを頼むし、頼まれた方も対応できれば対応するし、対応できなければ非常に気軽に断る。それはキリスト教的な考えから来るものなのか、それとも、血縁や地縁のつながりが希薄な移民国家という成り立ちから来る互助的精神なのか、それは良く分からないのだが。いずれにしても、そういう精神がシェアという言葉によく表れていると思う。

もう少し具体的な話をすると、私が最初に「うひゃー、こんな時にシェアを使うのか」とビックリしたのは、恐らくテレビのドキュメンタリー番組かドラマのワンシーンだったと思うのだが、アルコール中毒者の支援団体主催のミーティングで、アルコール中毒者が輪になって座り(まさに輪である)、一人一人が自分の体験を語るという場面で、その体験を語り終わるとリーダーが”Thanks for sharing your story.”というものだった。そうか。これはシェア(共有)なのか。 私にとって、この場合は、「(本当は言いにくいことをわざわざ)話してくれてありがとう」という感覚なのだがな。(だから、以前、こちらでの暮らしの長い日本人のお友達に、自分の病気をきっかけに考えたことを意を決して話した時に、日本語で「シェアしてくれてありがとう」と言われた時は非常に肩すかしを食らった気持ちになった。たとえ「してくれて」と言われても、「シェア」には違和感を持ったのである 笑)


この「~してもらう」「~してくれる」という表現はとても日本的で、これは日本人が築く人間関係を非常によく表していると思う。すなわち、「 上から下へ」か「下から上へ」「左から右へ」「右から左へ」という矢印方向である。もちろん、日本にも輪になって鍋を囲んで一緒につっつくという習慣があり、これは英語に非常に近いシェアであろう。しかし、 日本語には、鍋を囲んで皆で分け合って食べるのと(分配)、おもちゃや情報を共有するのとを、それぞれ個別に表現するわけで、それを総括的に表現する「シェア」といった言葉がない訳である。そして、それらを区別しているということは、きっとそれなりの、社会的、言語的理由があるはずだと私はにらんでいて、そして、それは先に触れたように、「~してもらう」「~してあげる」という表現の底にある日本人が築く人間関係に起因しているのではないかと思うのである。

ところがこの「シェア」という言葉、日本語のネット上でたびたび見かけるようになり、もしかしたら日本語として定着しつつあるのかな?と思うようになった。そこで、フェイスブックでこれを問いかけてみたところ、主に日本在住の知人達から良く聞く言葉だという回答が複数寄せられた。たとえば皆で食べるものを「シェア」したり、カーシェア、ハウスシェアという言葉も聞かれるようになったとのこと。

そんな折、ちょうど良いタイミングで「シェア」ネタが届いたので、ここで皆さんと「シェア」(笑)してみたい。

アレックスの幼稚園では現在、アルファベットをお勉強中で、手洗いの待ち時間などにセサミストリートのアルファベットの動画をiPadで流して子供達に見せているので、私が先生に「クイーンラティーファ(アメリカのラップ歌手)の『オー』の動画があるからリンクを送りますよ」と言って、パティラベル(歌手)のABCソングと共に後でリンクをメールで送ったところ、

Thanks so much for sharing! I look forward to sharing them with the kids!

という返事が先生から来た。

さて、皆さんは、これをどう日本語に訳すだろうか?

「シェアをありがとうございます!子供達とシェアするのが楽しみです!」

この訳を読んで違和感がなければ、シェアは日本語の中に浸透しつつある新しい考えであると言えるだろう。しかし、ニホンジン感覚的には次の訳の方がしっくり来るのではないかと思うのである。

「ご紹介いただきありがとうございます!子供達に見せるのが楽しみです!」

要するに、先生は、私が(あえて言うなら、知っている者という少し上の立場から知らざる者という下の立場の)先生に対して情報を流したことに対する感謝の意を「紹介」「いただき」という表現に反映し、そして、その情報を今度は(教えるという上の立場から教わるという下の立場である)子供達に流すわけである。日本人の人間関係はこのように、その状況によって微妙に上下関係が成り立ち、それが言葉の表現として出て来る。

日本で「シェア」という言葉が浸透しつつあるという傾向が、「ひとさまに迷惑をかけない」と思うあまり、誰にも助けを請うことができずに孤立してしまう傾向から、「お互いさまだから助け合おうよ」という考え方に移行しつつあることの表れであれば、それは好ましいことである。また、本当に気心知れた仲間同士だとか集いだとか、あるいはフェイスブックの拡散希望的性格を持った記事や写真の共有など、いわゆる閉じた円の集団の中で便宜的にシェアという表現を使うのは良いと思う。また、今後のグローバル化に伴い、既成の日本の概念では表現しきれないものに対してシェアを使うのも良いだろう。ただ、先ほど例に挙げた、アルコール中毒の体験を思い切ってした相手や、あくまで好意による情報提供といった相手の「労」をねぎらう形で「話してくれてありがとう」「教えてくれてありがとう」という、「具体的な動詞」と「してくれる」「してもらう」の表現で表すこと、そこに微妙な上下関係が発生するとしても、それは必ずしも上がエラくて下がへーこらするわけではなく、あくまで「してもらった」側がへりくだって感謝するという気持ち、これは複数の言語環境の中で暮らしている私にとっては、日本語独特の美しい表現に映るのであって、これも全て「シェア」に置き換えてしまうとしたら、それは非常にもったいないなと思うし、極端な話、日本人であることを放棄してしまうような気さえするのである。


考えすぎ?





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最終更新日  2014.10.15 11:56:15
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