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テーマ:心のままに独り言(8835)
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昨日の日記で実家のことを書いたので、もう少し色々書いてみることにした。
実家は看板屋である。 父と母とでやっている小さい商いだ。 昔はどんなものでも筆でやっていたけれど、さすがに今はPCでほとんど片が付く。 楽になったとはいえ、作業は細かいし、PCやソフトは日々進化するわけで、 それについていくだけでも大変なのは想像に難くない。 父が筆一本でやっていた頃、私も少々手伝いめいたことをやらされた。 とはいえ、字なんて絶対書かせてもらえないし、ベタ塗りだって許してもらえない。 いつもいつも、手伝いと言えば、木枠に紙を糊付けする「紙張り」ばかりだ。 まあ、これだって何も知らないとうまく張れない。 180mm×240mmという大きな看板に紙を張って、そこに文字を書いていくわけで、 シワが寄っても、空気が入っても、ましてや紙を破いてもダメだ。 両端で紙を持つ人と、ブラシで紙を貼り付けていく人の3人組でやるから、 チームワークも大事。 張ってすぐは湿っていて書けないから、立てかけて乾かす。 ドライヤーは紙の伸縮にムラができるからご法度。 一度に何十枚も作成するので、置いておくスペースと作業スペースの確保も常に 考えておかないといけない。 昔やらされたこんな作業は、今、何かの役に立っているだろうか。 正直、ピンとこない。 これまで生きてきた中でも、やっててよかったよ~って感じたことは、 はっきり言ってまったくない。 どちらかというと、狭いスペースで作業をやることができない性分になってしまって、 困ることの方が多いように思う。 それでもふと思うのは、自分の顕在的な意識の中で「役に立っている」ことだけが、 大事なんではないってことだ。 自分では全然感知していなくっても、どこか奥深くで、 何かに繋がっているように感じるのだ。 読書なんかにも言えることだと思うんだが、 得た知識がダイレクトに役立つって感じることもあるけれど、 全然実感がわかないこともある。 ダイレクトなのは、それはそれでいいのだが、実感のない「蓄積」ってやつが、 やっぱり存在するように思う。 で、自分の中のどこかに、勝手にたまっていって、勝手にデータベースを作って、 勝手に吐き出されている。 感情のラインでは「実感」のない世界。 無理やり顕在化させる必要性のないもの。 よくわからないのだが、このあたりの自分ってヤツをもっと信じたいなと思っている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2004年10月26日 01時32分30秒
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