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おばさんは今日もいつものように誠に簡単な弁当を持って幼児達と一緒に公園へ出掛ける。
お昼。いつものように公園の管理事務所内のベンチで弁当をほおばる。 なんとなしにすぐ目の前にある事務所の受付を眺めていた。 二人の子供を連れた夫婦。持っている紙を事務所の人に見せ、指差している。事務所の人達は一瞬表情が強張る。夫婦は無言である。手にした紙を指差して、視線は事務所の人達をじっとみている。 事務所から飛び出て来た顔馴染みの事務員さんが、おばさんに向っておいで、おいで、来て来て、と手招きする。 うむ、たぶんそうなんだろう。聾唖者の夫婦だ。 「手話できるんだったよね~」事務員さんがすがるように見つめる。・・・だけど健聴者の事務所の人たちは、筆談とか身振り手振りでなんとか会話しようとなんで思わないんだろう。手話だけが会話の手段じゃないんだよ・・・。 事務員さんのお願いに、うん、と頷いておばさんはその夫婦に話しかけてみる。夫婦の表情が一瞬に和らぐ。良かった、話が出来そうだ。 用件は難しい事でなかった。道を教えて欲しかったのだ。 ・・・じゃぁ、気を付けて!おばさんは夫婦を見送る。子供の手をつなぎ、歩いていく。子供が振り返り、このおばさんに手を振ってくれた。両手を振ってまた見送る。 聾唖者と会話する時、何に気を付けたら良いか、こういう場面に偶然遭遇した時、いつも考える。 私的な考えだが、あまりざわざわと大騒ぎにしたくない。この人たちはろう者なんですと誇張しんばかりの手話、「私は手話が出来るのよ」という健聴者の驕りの上に乗っかった手話ではいけないと思うのだ。相手の困っている事を的確に掴み、簡潔に対応したい。といっても人との会話なのだから事務的でも愛想がないし、礼儀も必要だ。 そしてもうひとつ。 それらが一件落着したあと、何気なくささっと立ち去りたい。必ず周りの健聴者は「わぁ~すごい、手話が出来るんだぁ。」「いつから習ってるの?」「今なんて話してたの?」「手話って難しいの?」と、賛美賞賛の嵐をあびせてくれる。しかしながら本来は、今回のように「にわか」通訳したとしても、通訳者たるもの、褒めていただく必要はない。ささっとその場から消え失せるのが真の姿だと思う。近年、「手話」がもてはやされ、「英会話」の如くに「これが出来たら人間の価値が上がる」ように扱われている。悲しいことに「手話」が流行りもの、健聴者の趣味の域に入ってしまってからは、通訳終了後健聴者からの賞賛の嵐のド真ん中で、鼻高々に微笑む通訳者が少なくない現状らしい。通訳者は聾唖者から「ありがとう」と一言言われればそれでその役目は十分に果たしている。それでいい。それだけでいいのだ。 「手話通訳」に携わる人々は多い。しかし、聾唖者から信頼される「通訳者」は少ないのである。 「にわか」通訳を果たしたおばさんは、表情は冷静にその場から立ち去る。しかしホントは胸中穏やかではない。大丈夫かな・・・わかってもらえたかな・・・あん時、単語が出てこんかったし・・あぁ、まだまだ未熟もんだなぁ・・・、もっと勉強せんとあかんなぁ・・・もう一回今の場面やり直せたらこう表現するのになぁ・・・などと後悔している。ほんとにまだまだ勉強が足りない。・・・幼児達が弁当を食べずにリュックの中のお菓子を散らかし食べているのを珍しく叱りもせず、幼児達の横に座り、食べかけのおにぎりをまたほおばる。 今の一連の場面を再度思い返しながら、手話表現をやってみる。あまりの一生懸命さに幼児達が不機嫌になる。あんまり煩いので「はよ、おにぎり食べんか、こら。」と叱り返す。近くに居た親子が白い目でおばさんを見つめる。人前で叱られた幼児達は萎縮してますます不機嫌になる。簡単にいうと、すねている。 う~む、おばさんは手話の上達も大切だが、子育てももっと上手になるべきかもしれない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
January 25, 2003 03:10:27 PM
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