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「長女のお迎えがあるので私は車で行きますから。」
会員の皆に伝えると、きっかけをつかんだようにおしゃべりをやめ女性たちは福祉センターを出てその店のほうへ歩き出した。ここから歩いても行けるからその店を選んだのだ。 春の近さを思わせる住宅街の道路を皆は闊歩していく。バックミラーでそれをちらりと見た間に既に前方にはその寿司店が見えてきた。立派なビルの店舗。住居も一緒になっていることだろう。屋上の目隠しの向こうで洗濯物が干してある。通りも多いこの交差点に構えている店構えは建ててからかなりの年数は経っているようだが、片田舎の街には十分な、堂々とした老舗の風格があった。 あの時の日本刀はまだこのビルの屋敷のどこかにしまってあるのだろうか。・・・ふと建物を見上げて思う。車から長男を降ろし、「いい?今日は他のオバチャンたちと一緒にごはん食べるんだから、お利口にしてるんだよ。」聞いたか聞かずかキョロキョロしている長男の手を握り、店の入り口に立つ。自動ドアが開く。 ・・・・さぁ、過去と現在の扉を今同時に開けましたわよ・・・・ なんて、時の神がささやくような気がする。悪戯っぽく。 店先に入ると大柄な男が振り返る。白い調理服を着ている。 その顔を見ておばさんは生唾を飲んだ。まさに20数年前、囲っていた芸子さんを寝取られて日本刀持って乗り込んだという、あの社長であった。おばさんの表情は硬くなっていたと思う。・・・あ、あのぉ、お昼に予約の10名ですが・・・・何でしどろもどろに緊張しなければならないのか、自分でも不甲斐なく思いながら、彼の営業的な微笑みに余計に緊張する。「そこの階段上がって下さい。一番奥の座敷です。」・・・はい。と短く答えて階段を上り始める。長男が愛嬌をふりまいたのか「あぁ、かわいいね、ボク。ゆっくり食べておいで・・・。」と彼の声が聞こえる。 やっぱりあの店のドアは時空の扉だ、いきなり鉢合わせするなんて・・・ 宴席といえど女性ばかり昼間の食事だからさして大騒ぎするわけではない。おしゃべりが嫌いなわけではないが、長男が座敷で走り回っているのが気になって仕方ない。他に二階の客は居ないが、障子のひとつ、花瓶のひとつ、どうにかしてからでは「子供のした事だから・・・」と言い返すわけにもいかない。頃合を見計らいお先に失礼する。 ふんばり、帰る事を拒む長男を抱え込んで階下へ降りる。当然ながら泣き叫んでいる。まるで誘拐犯のようである。おばさんは構わず、平然とした顔つきで「ごちそうさま~」と言って店を出る。厨房の奥から「ありがとうございました~」と男の声がする。が、社長の声ではないようだ。まぁ、いい。どうでもいいのだ。・・・そう言い聞かせて駐車場へ出ると、あの社長が何故か背筋を伸ばして手を伸ばして体操をしている。泣き喚く長男を車に押し込む。心配そうにこちらを見つめているのが背中でわかる。ほんの2、3m程の距離である。 「どうかなさったかね?」太い声が話し掛けて来る。 ・・・あぁ、社長、いや、あの頃は“大将”と呼んでいましたね。大将、お久しぶりで。相変わらず、お元気そうで何より。その声もあの頃のままですねぇ・・・ 「い、いえ、子供が帰りたくないと言って聞かないもんですから。」 ・・・この顔、覚えてるわけはありませんよね。よく大将からチップを頂きましたよ。だけど、あの頃は和歌奴ねぇさんにゾッコンの頃だったでしょう?私のようなネンネは視野に入っていませんでしたからね・・・ 「はっはっは・・・大変ですね。ボク、またおいでよ。」ふっくらとした大きな手が長男に向って振られる。長男は涙も鼻水も一緒になりながら社長の方を見つめている。 荷物を後部座席へ放り込み勢い良く、いや荒々しく後部ドアを閉める。エンジンをかける。その音で泣き喚く声も少し静かになった。 「ありがとうございました。」大将は車に乗り込む私に景気良く声を掛ける。 運転席に乗り込み、この時初めて彼の風貌をまじまじと眺める。腹は昔より出っ張った感じだ。しかしながらその顔つきは、今も現役、と言わんばかりのぎらぎらした精悍さがみなぎっている。こんな大男が日本刀持って押し入ってきたら、一般人なら今でも驚くに違いない。 ・・・あれから20数年も経つのだぞ。何故あなたは歳を取らないのだ・・・自分だけが歳を取ったような気分になり、動揺してくる。 まだ春遠い冷たい風が頬をなで、車内に入り込んでくる。長男に手を振り続ける社長に何か言わなくては・・・。 「・・・ごちそうさま。おいしかった。また来ます。」精一杯の社交辞令。 「はいよ~。またおいでね~。ありがと~。」社長は私を見てこれまた営業スマイル。 ・・・ホントに私のこの顔、覚えてないのね。そりゃそうね、あの頃ドギツイ化粧してたから・・・。 「うふふ、大将、アタシの事忘れたの?いやぁね。カウンターでころころ笑ってたでしょ、覚えてな~い?」この再会がもう10年も早かったらこんな風に馴れ馴れしく話し掛けていた事だろう。だけどそんな話など堅気の奥さんがするもんじゃない、と今の自分がブレーキを掛ける。少しは大人になったかな・・・。臆病とも言うけど。 フットブレーキをはずし、アクセルを踏めば、車も少ない平日昼間の本通り。信号も青。ルームミラーに目をやると、また体操を始めている。この交差点を曲がればもう店は見えない。また来る事もあるだろうか。あったとしてもこの心の動揺はもう起こる事はないだろう。 諦め切れずまだグチュグチュとぐずって泣いている長男をなだめながら家路を急ぐ。急ぐ理由もないのだが、アクセルを踏む足に力がこもっている。 坂下さんはあの後調理師会から名前をはずされた。つまり、和歌奴さんの店でそのままずっと働く、という状況を意味していた。もし和歌奴さんと別れても、もう二度とこの界隈の板場としては雇ってもらえない。離婚もせず、かつての売れっ子芸者「和歌奴」さんと一緒に、現在も同じ店で働いている。「働いている」という表現は今となっては相応しくないだろうか。二人で経営しているのだから。 「時間」というのは単純に回っているだけのようだけれどかなり複雑で、「記憶」を作り、「思い出」を織り重ねていく。破れた恋を忘れるためには新しい恋をするのが良いのと同じで、「記憶」の上に「記憶」を重ねればそれで「思い出」変わるような気がする。しかし、チーママ時代の「記憶」はそれ以上重ねる「記憶」はない。年老いた、現役を退いた、あるいはボケの始まった社長を見たいはずだったのに、腹が出ただけのあのままの社長がそこに居るとは驚きであった。ただ時間は移ろいだだけなのか。 おばさんは単に「記憶」を思い留めておきたくてこの日記を書いているのではないと最近気が付いた。おそらく、ここに書くことで区切りを付けたいのだ。もし楽天が震災でサーバーこけて復帰不可能となっても、嘆く事はしないだろう。パソコンの向こうに広がるネットの彼方へどうにも出来ない「記憶」を、「思い出」にも出来ない執着や怨念を、全て葬り去りたいのだ。 馬鹿は死ななきゃ治らない、「記憶」も「思い出」も死ななきゃ消滅しない、んだろうなぁ・・・。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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