【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

おばさんが作った死語ブログ。人生いろいろに語ります。

おばさんが作った死語ブログ。人生いろいろに語ります。

Freepage List

March 9, 2003
XML
カテゴリ:カテゴリ未分類
 ある寒い寒い冬の日の早朝、彼女は都心のバスに乗っていた。通勤のためではない。とある講習会場に向い、不慣れな、いや、初めての経験と言っても良いだろう「通勤ラッシュ」を体感しながら彼女はバスのつり革をしっかと握りその振動に身を任せていた。田舎育ちの彼女にとっては波のように、塊のように電車、バスへなだれ込む人々が殊更珍しくて仕方なかったが、郷に入っては何とかの通り、開催時間も迫っている事もあり、その「人」の流れの中に競歩とも言える足取りで入っていくしかなかった。
 それにしても「土」の見えない都会の冬はどうしてこんなに寒いのだろう。バスが進んでいく道路には真冬らしく、葉のない街路樹が立ち並ぶ。どう見たってアスファルトに木が生えているとしか見えない。これじゃぁ降った雨も散った葉も飛び散る花粉もどこにしみこめば消えていくのかと真面目に考えながら街並みを眺めていた。「花粉症」「花粉アレルギー」がまだ耳新しかったその時期でそんな素朴な疑問がこの現代病の要因そのものを指しているとは彼女はまるで気付かなかった。
 目的地までまだ少しある。バスが低速になり、やがてバス停で止まる。乗り口近くに居た彼女にまとわりついていた、バスの中のどんよりとした暖かさを一瞬のうちに取り払い、外気の寒さがまともに入ってきた。彼女は・・・う~さむ。と心で叫び、誰もがするように奥歯を噛み締め寒さをこらえた。そう、誰もがするでしょ、そうやって。
 右耳の奥から「プチッ」とかすかな音が聞こえた。かわいい音。外からの音でない、体のどこかからか聞こえてきたはじけるような音。気にも留めない。乗客が早く全部乗ってくれればいいのだ。そうすればまたバスの中は暖かくなる。
 バスが走り出し、寒さに硬直していた体の力が徐々に抜けていく。バスの揺れにスムーズに身を任せる。・・・しかし、彼女は体の一部分だけ力が抜け切らない事に気が付いた。自分の意志で力でどうにもならないその部分は、自分の顎だった。
 “口が開かない・・・”
 たぶん目は白黒していたことだろう。顎が動かない。硬く歯を食い縛ったまま、である。彼女は社内でも際立って頑張り屋の方だった。努力もした。学歴不足から馬鹿にされないよう時勢にも遅れないよう新聞には毎日必ず目を通した。そんな彼女が手にしたのは所謂「キャリアウーマン」という代名詞と「女の癖にやり手だ」という意味不明な褒め言葉だった。その事情は確かに自画自賛と言われようが認めてしまおう。それにしてもいっくら歯を食い縛って頑張ってきたとはいえ、ほんとに歯を食い縛ったままになってしまっては喜劇としか言いようがない。どうにもできない口を硬く貝のようにしたまま、彼女は可笑しくて笑い出す。が、声には出来ない。目元だけが目立ち始めた小皺を一層深めて顔の上半分で笑う。全く奇妙な顔つきだろう。それを思うとこれまた笑えてくる。
 バスがやがて目的地近くに来た時、さてどうしようかと改めて考えてみる。降り口からトントンと降りる。もたもたしていられない。田舎者に見られない為にはまず早足にならなきゃ。顎は外に出てから考えよう。歩道に冷たい足先をかっこよく包んだパンプスをカツンと下ろす。その「カツン」という振動で顎が「カクン」と動き、口が半開きになる。「あ、治った」そんな独り言と共に顎は普通に戻った。でも少し右耳の前辺りが痛いな・・・。歩道を他の通勤に急ぐ人たちと共に歩いて行く。右手で顎を擦りながら。
 
 とりあえずそれきりで暫くは何と言うこともなく異常はなかった。ちくちくと痛む感じはあったものの、食べる事としゃべる事が出来ればそれで良かったのだ。考えてみれば、異星人は口が退化しているのだから案外それもわかるような気がする。ほんとに仕事の出来る奴は「無言」という、勘とコツに似たテレパシーみたいなのが備わっているのだ。会社で口が必要なのは営業くらいかな。それ以外でお口がよく動くのは「グータラ社員」と言う奴だ。

 彼女の所属する会社は田舎の町工場から創立した中堅企業で、当時まさに時代の波に乗り、飛ぶ鳥の勢いであった。しかし、企業とは面白いもので、昔からの慣習をやけに頑なに守り続ける部分があった。ひとつは「残業パン」と言われるもので、夜7時以降も残業する者に対して菓子パンと牛乳が与えられる。誠に慎ましい慣習であった。独身者には絶好の夕食となり、給料泥棒の社員には残業手当稼ぎの絶好のパワー補給となった。もちろん仕方ない残業者の糧にもなっていたのだが、その「残業パン」の注文はその日の毎朝行われるところから観ると、どう考えても昔からやってる行いをおまじないの様に誰も疑問に思わずに繰り返しているだけなのだ。可哀想なのは突発の残業に遭遇した社員で、「残業パン」をうまそうにほおばる常連社員を尻目に早く帰りたくて必死で仕事を片付けながら、腹の虫の音が聞こえてくるのは気の毒としか言いようがない。
 彼女もどちらかと言うとその一人で、「出社した時から残業するつもりで仕事やってんじゃねぇよ。」と呟きながらひたすら残業の原因になった書類を片付ける。すると、後ろから呼んでいる。振り返れば同期入社の経理課の彼だ。
 「意外と早く片付いたから、俺のパン、食べなよ。」差し出すジャムパンと牛乳の瓶。彼女は実はジャムパンはくどくて好きではない。
 「残しといても・・・ほら、あいつがどうせ食べちゃうからさ。」顎で目指した先は、うまそうにパンをほおばっている残業三昧の営業のおっさん。
 好きではない等と言えるわけはない。残業している社員にも真実を知っている社員はここにも居たのだという嬉しさの方が先に込み上げる。・・・あ、ありがと・・・・。
 彼女は彼を同志のように思い敬意の眼差しを向ける。
 じゃぁ、お先に・・・他の社員にも同じく言葉をかけ、静かに彼は帰宅していった。去っていくその後姿に「おっつかれさ~ん。」と大袈裟に大声で送るのは、その、残業三昧の営業のおっさんである。彼女はそれを憎憎しく見つめながらパンの袋を開ける。生唾が口の中に溢れ出る。それを飲み込み、パンにかぶりつく。「ガブッ」と言ったのはいいが、何か変だ。口が開けられない。またもや、顎が開かないのである。それも額関節に針を刺したような痛みが伴う。こりゃまずい・・・。残ったパンをデスクに置き去りにしてトイレに駆け込む。残業時間の女性トイレにはほとんど人の出入りはない。洗面台で顔を見る。口が真一文字に閉じたままだ。・・・いてぇ~よぉ。そう言ったつもりだが、口が開かない不自由さと口の中にイッパイにほおばったパンが入っているのとで何が何だかわからない。仕方がないので、痛さをこらえ、両手の人差し指を前歯の上下に押し込み、無理に開けようと試みる。「ズキン」とくる額関節の痛みに思わずしゃがみこむが、口内の噛まないままのパンを消化するための唾液が歯の隙間から流れ落ちてくる。・・・こりゃやばい。すばやくトイレの個室に駆け込み、とりあえず、痛みに耐えながら深呼吸する。上を向き、唾液を喉の奥へ流し込み、ゴクンと飲む。これと一緒に噛めないパンを喉に詰まらせたら笑い事ではない。以前はちょっとした振動でコロッと治った。よし、と思い、トイレの個室の中で片足でピョンピョン飛ぶ。パンプスのカツンカツンという音が響き渡る。すると徐々に、氷がすぅっと解けるように額関節の力が抜けていった。
 それからの彼女は猛然と仕事を片付け、ついでに次の日の午前中の段取りを組み直し、全て午後、あるいは後日へ日程変更する。
 明日は医者に行こう。彼女の決意であった。

 さて、無事外科にたどり着いた彼女は医師に恥じることなく状況を説明した。ふむふむと聞きながらカルテを作る医師は「額関節炎ですね。」と言い、不意にニヤニヤ笑った・・・様な気がしたのは彼女の思い過ごしだったろうか。「注射で症状は軽くなりますが、また痛んだら来て下さい。」・・・「注射?」額関節が痛いのだ。腕に注射してどうするんだろう・・・。やがて看護婦が医師に差し出したド太い注射を見ても彼女はボ~っと見つめるだけだったが、「はい、ここに痛い方を上にして頭を横に乗せて」と小さな台を差し出されるまで、額関節めがけて、右耳の前を、頭部真横に、献血の時みたいな太い針で、ド太い注射処置が行われるとは思ってもみなかった。
 イテェ~、イタタタタタ~、というおよそ女性が発する言葉とは思えない悲鳴と共に処置は終わった。もちろん額関節に注射しているのでしゃべってはいけない。彼女本人はそう叫んでいたのだ。

 病院での一連のこの様を、病状も嘘のようにすっかり改善した彼女は事あるごとに面白おかしくしゃべった。「顎がはずれる」というのはよく聞くが「口が開かない」というのはやはり面白く、誰もが腹を抱えて笑った。
 そんな話に飽きてきたある日、彼女は同じフロアの男性社員に呼び止められる。
 ・・・余計なお世話だけどさぁ・・・言い難そうな彼は一呼吸おいて意を決したように私に告げる。
 「顎関節炎って言ってたよなぁ。あれ、あんまり他にしゃべらんほうがええと思うンやけど。」
 「顎関節炎ってなぁ、ソープの女の子がよぉなるもんやから。知っててしゃべっとるんなら、ええんやけど。わかる男はわかるもんやから・・・」
 その時、医師が不敵に浮かべたあのニタニタ顔を思い出した。
 そう告げて申し訳なさそうに行ってしまう彼は社内でも有名な、ムッツリスケベ、ソープマニアの独身社員であった。

 あぁ・・・頑張り屋の彼女は歯を食い縛り、努力してここまで辿り着いた。名声など欲しくはない。会社の歯車のひとつでも構わない。ただ、「女の癖に」「女だから」と言われるのがイヤで男性と同じように頑張ってきたつもりだった。しかしながら人間誰しも、たまには力を抜く事も大切なのだとこの事を機に何故か彼女は痛感したのであった。もう、歯を食い縛る事はやめよう、と。

 久しぶりに日記を書き終えたぞ。
 今もカクンカクンと異音を放つ顎関節でゆっくりと咀嚼し、のんびりと長男と共におやつをほおばるおばさんであった。







お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  March 9, 2003 04:37:20 PM
コメント(2) | コメントを書く


PR

Profile

153

153

Comments

コメントに書き込みはありません。

© Rakuten Group, Inc.