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手話を学んでいると、みな同じだと思うけれど、聴者同士でおしゃべりしていても手が手話表現してしまう。
「そうそうそう…」 「なんで?」 「違う、違う」など、自然と手が動いてしまうのだ。 これは手話を学ぶ聴者同士が会話していればなおさら出てしまう動作で、理由はわかんないけれど、とにかく手が勝手に動いてしまう。 この、悩みみたいな事を、ろう者の友人にぼやいてみたら、「気にしなくていいでしょ、それがきっかけで手話を広める事にもなるんだから」と軽く流してくれた。 まぁ、そりゃそうだな。…すぅっと心が軽くなる。 今、おばさんは、日記もほかったままで、ろう者との交流に余念がない。…おばさんは元気ですよ。 しかしながらおばさんは、今、「資格保持者」と「無資格者」の違いに戸惑いを感じている。 「手話通訳資格保持者」が一人、居るとしよう。 反対に「手話通訳の資格を持っていない一般人」が一人、居るとします。 例えば、ろう者が一人、今、戸惑っています。朝から発熱し、頭が痛い。風邪かな?と、思っていますが、病院に行こうか迷っています。ろう者が病院に行ってまず困る事は、自分の診察順が来た時、受付で呼ばれてもわからない事です。ひたすら、診察の名前を呼んでいる、受付や看護士の唇をじっとみつめて、自分の名前を言っているかどうか、その度に読み取りします。…これは実際に友人の多くのろう者から伺った話です。 これを考えると病院へ行くのも億劫になります。そこで、思いつきました。2軒向こうの家に手話が出来るおばさんが居ます。専業主婦だから、家に居ると思う。相談してみようかな。 やっぱりおばさんは居ました。 事情を話すと、おばさんは快く引き受けてくれました。一緒に病院に行き、診察も無事に終えました。イマドキは医薬分業とかで、薬は別の場所でもらわなければなりません。おばさんが、たどたどしくも懸命に手話で伝えてくれました。話がむずかしくなると、筆談しました。 無事に帰宅し、おばさんは「お大事にね」と帰って行きました。そして、そのろう者は一日家でゆっくり休みました。 そんな出来事について、「有資格者」はこう語るのです。 「無資格者のそんな軽率な行動は、有資格者の活動を妨害する事になるんですよ。」 「病院へ同行するなんて、命に関わる事でしょう?万が一、何か起こったら、責任は誰が取るんですか?」 「私達、有資格者は協会が保証してくれています。万が一の場合でも責任が取れるんですよ。その違いがわかりますか?」 …その違いがわかりますか?な~んて喰いつかれても、「違いがわかるゴールドブレンド」じゃあるまいし、困るのである。 今、困っている人が、目の前に居る。アンタでいいから一緒に来てくれないか?と言われて、「よっしゃ!すぐイコカ!」とひとっ走り。…その単純な行動がいけないのだろうか? それ以来、「違いがわからない」オバサンはひたすら悩み続ける。とうとう悩み過ぎて、気にしたろう者に理由を聞かれ、オバサンは事情を話す。 するとまたもや、ろう者は明るく切り返す。 「何、気にしてるの?そんな事で悩むのやめなさい。」 「有資格者はそんな日常会話的なレベルに首を突っ込んでこなくていいのにね。」 「ろう者が貴方に、ってお願いしてるんだもの、心がつながっている証拠だと思う。」 おばさんは、またしても、すぅっと心を軽くしてもらった。 立場により、いろいろ見解の相違はあるだろう。 しかしながら、世間というものは基本的に「助けられたり助けたり」が当たり前なのではないだろうか…。 手話を学ぶ人が確実に増えている。その人たちが全て「資格」を持つためではないだろう。「資格」を持つためには、少なくとも、主婦にはとても無理難題な条件をクリアしなければその難関をくぐる事は出来ない。 身近に手話で会話出来る人が居る事は、ろう者にとって迷惑な事ではないと信じている。 そんなおばさんの毎日です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
March 16, 2004 12:26:40 AM
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