私は21歳だった。今日、父が他界して20年です。
一緒に住んでいた祖父が死んだ。魂の抜けた死体というものを初めて見て、死へ興味を抱き始めた。父は養子だった。結婚当初は父姓を名乗っていたが、祖父の死を機に母姓に変えた。離婚したの?と聞かれた。まだ小学3年生だった私は、離婚をしたら名字が変わることを知らなかった。何か悪いことをしているような気持ちになった。家庭を牛耳っていた祖母も死に、その後震災に襲われた。古い木造の家だった為住み続けることができなくなり、同じ市内のこの家に引っ越してきた。それが高校1年生の冬。ここから私たち家族はすべてが良くない方向へと傾いていく。越して来て私はすぐに引きこもるようになった。母はC型肝炎で入院。そして、父も変わった。新しい家に移り住んだことで、養子という何か目に見えないもので縛られていたものから解き放たれたのか、日に日に塞ぎ込むようになっていった。休日は朝から晩までじっと部屋に閉じこもって一言もしゃべらない。むっつりして顔は落ち窪んでいた。そんなある日職場の上司から電話がかかってきた。お父さんが倒れました。尚、すまんのぅ、これが最期の言葉だった。一人妹だけはまともで気丈だった。父と母、更には私を細目で見て育ち、我が道を自力で歩む術を着々と身に付けるようになっていった。ここに未来はない、見切りを付けようと悟ったに違いない。大通りを肩で風を切って突き進む布石は早くもこの頃から打っていたのである。将来の夢はなんですか?と聞かれ、満面の笑みでお嫁さんになることです、と答える友達がいたが、幼いながらに不思議でならなかった。そんなものわざわざ夢にしなくても、みんな当たり前のように大きくなったら結婚して子どもがいるじゃないかって。それは決まっているんだって。が、成長するにつれ、だんだんとそうではないことに気付き始める。なるほど、結婚しない人もいれば子どもがいない夫婦もいるんだと世間を見た。私は無事に大学を卒業し社会人となった。ほとんどと言っていいほど結婚にも出産にも興味はなかったが、漠然といずれは私もと思っていた。そんな矢先に26歳で発病。奈落の底に突き落とされた私は、足を引きずり引きずり我が運命を知る。おそらく私は子どもは産めないんだ、と。怒涛の歳月が過ぎ、現在41歳。30代の終わり頃から老いを感じるようになっている。とっくの昔にわかってはいたが、私には子どもがいない人生だったという確定の判子を押されたのだった。尚家は私で尽きる。最後の請負人として責任を持って尚家を終う。それが私の宿命。