赤いパンツ
田舎へいって(山口なのです。中学、高校と過ごした土地)、墓参りをしてきました。お盆も法事もいけなかったから。母方の大好きだったおじいちゃん(←ワタシが中学のときに・・)やらおばあちゃんが入っているお墓へ母とおばといってきました。おじいちゃんもおばあちゃんも60代後半ぐらいである日突然、いってしまった。おじいちゃんなんて、朝、自分の畑に野菜の様子を見に行って家に戻ってきてすぐ、ポックリいってしまいました。残った家族は突然のことで、とても悲しんだ。そのとき、中学生だったワタシ。物心ついて始めて”身近な人の死”実感したとき。一番大好だったおじいちゃん。ワタシが行くと、畑から笑って手を「おーい、○○ちゃん、きたか、きたか。」と手を振っている姿が浮かぶ。相撲と高校野球が大好きでラジオを腰にぶら下げて畑で聞きながら作業していた。誰しも、寿命があったり、運命があったりするとおもうけど、人生の最後は、何の苦しい病気にもかからず、事故にもあわず、寝たきりにもならず、前日や当日まで普通に元気で過ごしていてポックリ・・・が憧れ。目指せポックリ!結ういつご存命でがんばってる、父方のおばあちゃんにも会ってきた。一時期、死にそうに朦朧として弱っていたときがあったけど、また元気になって、顔色もよくて、よかったよかった。申年には、赤い下着を送るといいと敬老の日用に売っていた詰め合わせを買い、(長寿箸とかも詰め合わせてあるもの)少し遅れたが敬老の日として、渡したが、「この白いズロースは、はけるが、このまっ赤のは、恥ずかしい。○○(うちの母の名前)さん、はく?」と、うちの母に聞いていた。ばあちゃん90歳。真っ赤のでかいパンツは恥ずかしいか。「この赤いやつが、”健康長寿”といって売ってたポイントだから、ばれないように?内緒でハイテヨ。」このおばあちゃんの相方は、(ワタシの父方のおじいちゃん)は、海軍士官学校?を出て、職業軍人で海軍にはいったが、戦時中、乗っていた大きな船が、サイパンとか日本から遠くの海で沈んだところを泳いで海を渡ってどこかの島にたどりついて生き残ったらしい。勲章をいっぱいぶらさげた写真がある。しかし、その勲章がナニになるか・・。戦争から戻って、燃え尽きてボロボロだったそう。職業軍人だったから、戦後は、職も失った。「じいちゃんは、やさしい人で怒られたり、怒鳴ったりしたことが一度もなかった。」そういう人が戦争に行って、身近に生き死にを、たくさん体験した。戦後は、以前の姿は、見る影もないほど、廃人みたいになって戻ってきたそう。そうして早く弱ってなくなったので、私は、自分が幼いときの記憶しかないが、ぼけーとして、そしてニコニコしているおじいちゃんでした。(学生時代は頭脳明晰な人だったらしいが見る影ナシだった・・)超気丈なおばあちゃんが、そのおじいちゃんを尻に強いて、支え、兄弟3人育てた。赤い、でかパンは、母がはく。