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カテゴリ:das Thema
一時帰国の際には人間ドックが義務付けられている。Londonで検査してもらう事は可能だが、診断精度とコストを考えると胸が痛くなるので休日をわざわざ一日潰しても日本でかかる。ただ例年感じるが、結果がアテになるか判らない。気休め程度にはなるが。
息抜きを兼ねて六本木まで足を運んだ。診療所の窓から六本木ヒルズが見えたができの悪いSciFi映画のように憂鬱な印象しか受けなかった。森ビルマークがあんな高いところにさらされ俺は成金趣味じゃないと弁解したそうだ。 結果説明の後、六本木交差点界隈を歩き青山ブックセンターに向かう。聞いていた通り閉店していたが再オープンするらしい。まだまだ日が高いので渋谷に向かおうと都バスを待つ。 5分かそこらで到着するはずがなかなか姿が見えないバスを待つ面々、初老の夫婦達や水商売系のおばさまがわさわさとバス停にたむろする。高温高湿とじれったさが皆にのしかかる。 なんとなくできていた列の自分の隣に、70歳位だろうか垢抜けた装いのおばあさんが立っていた。スラリと背筋が伸びた細い体にブラウスとスカートを感じ良く着こなしている。 やがて皆の恨めしい視線を受けながらバスが到着し、乗る段になってしきりに”どうぞ”と自分に順番を譲る小奇麗なおばあさん。人間ドックを出てきたが病人ではない。もしやあぶない若者に見えたのだろうか。”私の方が後にきましたから”などと笑顔でおっしゃる。 バスは六本木通りを抜けて走る。あっシネヴィヴァンが無くなってる。うわーここ久しぶりだ、おおまだHobsonsがある。見えないけどキッチンヌノも健在だろうか。様々な思い出が次々に蘇る。一人で感激しているさなか、南青山N丁目で例の上品なおばあさんは下車した。 ゆっくりと坂を登る足取りにつれて揺れる買い物袋。バスは首都高直下を渋谷へと進む。 あの辺りに暮らしているということは相当な資産家か旧華族だったりするのかも知れない。住む世界が違うと言えばそれまでだが、あのエレガンスはどのように涵養されたのだろう。 育ちにより個人差はあるにせよ、かつて日本人はその大多数がある種のエレガンスを当たり前のように備えて社会に関わっていたはずだ。それはそんなに遠くない過去の、たかだか数十年前に過ぎない。子供が立派な大人に成長し、貧しくても美しくゆとりのある暮らしに満足を求める、そんな中身の充実を今のこの国ではどうすれば享受できるのだろう。並外れた意思がなければ困難なのか。こんなこと、Europeの多くの国ではそう努力を要さず達成できるようにみえるのに。 なまじ事情通であるが故、異邦人の違和感は加速する。渋谷を出て東京駅構内を総武快速を目指し歩く途中、通路のそこここに出現する、店、店、店。商売という名の化物が、これでもかと言わんばかりに、天井の低い閉じた空間に次々に切り口をさらす。一体誰が、こんなところで、こんな時間に何を欲しがるのか本当に把握しているのか。そうまでして何を与えたいのか。あんた達の目的はなんだ。哀れになると同時に痛々しかった。 同僚のK。両親は日本人だがアメリカ国籍の彼は、長い西海岸Office勤務の後、数年前に日本Office復帰を選択した。当時彼が言った>日本は便利だ<という言葉、確かに今ならよくわかる。食う、買う、遊ぶが洪水のように提供される社会。欲に拘る全てのものが実に手軽に処理できる、と同時にレイヤーの低い欲の数々が恥ずかしげも無く街中に曝されている。物事には程度があるだろ。 経済の勝利といえばそれまでだ、でも勝っても終わらないゲームは後味が悪くないか。そりゃ試合に負傷者はつきものだ。でも重傷なんだからルールを疑ったらどうだい。あんた選手だろ。えっ選手が負傷に気づいてないって? そりゃひどいな。ここはアムスのコーヒーショップかよ。皆、欲で麻痺してるわけかい。なるほどね。でも自分の事だから一人でよく考えた方がいいんじゃないの。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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