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カテゴリ:das Thema
秋口にStuttgart空港からUKに戻る機内で自分の席を捜していた時のこと。Direct便が少ないため機内は取れたてのトウモロコシのように詰まっている。機のどん詰まりに近い場所の目を引く色に気付く。近くまで行くとそのオレンジ色は座席の一つを占めるアジア顔の坊さんが纏っている僧衣のそれであり、その隣が自分の席だった。
くたびれた僧衣の上にくっついている浅黒い顔の坊さんの頭は剃髪されておらず、日本でいうところの坊主刈りで、白髪の比率が多かった。 どこまで行くんですかと尋ねると、Londonまでと答える。 愚問だが、心の安定を保つためまずはそう尋ねるしかなかった。なにせ容貌が怪しい。目はギョロリとこちらを睨み、魚でいうとアンコウのような面持ちだ。口元には食後の米粒のようなアワのような白い物体がくっついている。しかも心地よいライムの香りなどとは正反対の、心にのしかかる怪しい生物学的な匂いが漂ってくる。タイ人であればこれは空から縁起がいいわいと思うのかもしれないが。 独り言ともうわごととも話し掛けているとも判りかねるつぶやきが左隣から聞こえてくる。相槌を打っていると、どうやらStuttgartに知人がおり、その人が病気のため見舞いに来たのだと判った。Londonはどこに戻るのですかと聞くと、Wimbledonだとおっしゃる。 自宅から徒歩5分位の坂の多い住宅街の一角にあるタイ寺院。イースター前後の時期になるとただでさえ対面通行すら確保できない住宅街の狭路のそこここに駐車禁止と通行制限が敷かれ、道々はお釈迦さまの誕生日を参拝するアジア人でごった返す。人の波は寺院へ向い、敷地内では日本のお祭りのように屋台などが出ると聞いている。アジア人で溢れるバス通りからその背景を知らない人が眺めると不思議な光景に違いない。先日諸般の事情でそこに足を踏み入れる機会があったが、こざっぱりとした広がりのある敷地のなかに赤白金色が煌く非常に立派な造りの寺院が佇んでいた。冬ではあるが緑の木々も多く、小さな池の周りには極楽浄土を模したか鴨や小動物が飼われている。社務所に相当する建物が典型的なレンガ造りのUK住居なのが不思議な感じがした。 なぜわざわざ地価の高い場所に寺院を建てたのですかと尋ねると -- 合意はしかねるが -- 昔は住人も多くなく住宅事情も悪くなかったため地価も程々だったとお答えになる。 坊さんはその寺院で会計やアドミの仕事をしていると言った。そういう面も作用しているのか、おまえさんの言うPutneyのあのタイ料理屋は美味いがVillageのあれはまあまあだな などと生臭い話もOKで、過剰に禁欲的な暮らし振りは感じられなかった。当の本人も超人をかたるようなつもりは毛頭ないのだろう。ある意味自然なのだ。 既に故郷を離れて数十年になるらしい。いずれ祖国に戻るつもりがあるのか聞いてみたが、どう答えてくれたかは忘れてしまった。 年始休み明け、打ち合わせの為、Office間を昼頃移動することになった。自分のOfficeに着く頃にはDeliは営業終了し甘いものしか出せないことが見えているので、M3の運転者休憩所(ドイツで言うRasthof、日本ではサービスエリアだったか?)で食事をとる。建物入口に、小さなバケツを携えた人がふたり、通行人を両側から挟み込むように立っている。 津波被害の募金らしい。そのままやり過ごし、お粗末なチキンカレーに6ポンド払い、1.5ポンド以上するエスプレッソを片手に表に出る。募金箱が気にはなるが、そのまま車に乗り込む。 世間では自分のようなものを心が貧しい輩とするのだろうが、学生のころ見聞きした日本の街頭募金の実態についての報道がいまだに自分の体から離れない。というより既に血肉になっていて、信用のおける団体が主催する募金でもなければ指は財布に近づかない。国が違えば頭を切り替えるべきだが、なにせこの地では充分過ぎる猜疑心で頭が一杯である。それでも性善説で人を信じお金を落とすように自分を納得させるのが、キリスト教文化の道徳感の国では美徳かも知れない。 ところで、神様が人間の形をして人々を救ってくれるというアイデアや、人の形をしないまでも祈れば救済してくれるといったアイデアを誰かが信じる事、それ自身を否定すべきではないだろう。何を信じようが、信じる所までは個人の勝手である。しかし祈る個人や祈りを率いる集団が信者を率いて他者の血を流す道へ向うのは生活権の侵害であり、言うまでもなく止められるべきである。それは犯罪として糾弾されるのが相応しい。ただ、そうでない限りは祈る気持ちをそっとしておいてやるべきではないか。 例は悪いかもしれないが、世の中にあるエロい類のあれこれが全廃されれば性犯罪は減るという人がいる。しかしそれがないと却ってやり場の無い人々が増え、社会は大事に至るという人もいる。エロも宗教も人間の本質から湧き上がるものであり、社会の安寧という意味では排除できない。とはいえ余りにラジカルなものはお仲間でない他者には害悪である。その線引きが難しいわけであるが。 日本でドイツ語を習っていた時に宗教の話になり、自分は仏教徒というよりむしろシャーマン信仰であるといったら教師N氏の目が輝いた。語彙が無いのでそれを神道というとヒロヒトは君の神かと突っ込まれそうで、そう言うしかなかったのだが、知的好奇心旺盛な弁護士兼極真会館野郎兼過激小説愛好家N氏はNaturalBornKillerのような頭蓋骨の中で自分が恐山かどこかの荒涼とした大地に立ち精霊を集める姿でも期待したのは間違いない。万物に魂ありというそれだけの、いや難解な事を伝えたかったのだが。 年末に父親になったばかりの同僚DとOfficeで顔を合わせ、おめでとうと伝える。俺の人生が変わった、俺にとって仕事はもはや内容でなく金だと息巻いている。UKでは旦那の収入だけではやっていきにくいので共稼ぎが一般的だが、奥さんが復帰するまでのロスを埋め合わせないと月700ポンドの赤字になるだとか色々事情があるようだ。 席に戻ると、"業務の最中なので強制できかねるため敢えて放送はしないが、正午から3分間の黙祷を行う"との旨のメールがOfficeの全員に入っていた。正午には同僚N達とのMtgがあるが、主催のNは電話口で永遠に忙しそうだ。やがて時計は正午を指し、一人ぬっと立ち上がる。背後では恐らくメールを見ていなかったDが別の同僚と笑顔で話をしている。 目をつぶり、津波の様子と犠牲者の様子をイメージする。 何かを悼む時に黙祷をすることは宗教的許容度の広い日本人には受け入れられるとしても、この慣習が国を問わず各種宗教上の規制に干渉せずにすむ手段なのはなぜだろう。それは各々の宗教上の祈りとは違う種類の祈りがそこにあるからではないだろうか。 目を開けて時計を見る。まだ2分も経ってない。更に目をつぶる。年齢を重ねるにつれ人の生き死にや自分の命の限りに対しそれなりの覚悟はできてくるものだが、律儀にこうする事で何かが救われる気になる。 人の形をした神様や、形のない神様、選ばれた人達だけを救ってくれる神様、伽藍に乗った仏様、精霊、人々の想像する救いのイメージがこの短い時間に何百人何千人の光なき視野に浮かび上がっているだろう。人々にそれを促すもの、それは世界に生息するヒトという生き物の体に共通に刻まれた、群れを超えた善意そのものなのだと信じたい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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