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カテゴリ:その他
シーボルト。 鎖国時代の日本に来たドイツ人。オランダ人を名乗っ ていたがオランダ人ではない。医学会の名門の家に生 まれた、このドイツ人は、探究心と冒険心が旺盛で、 ヨーロッパでは当時未開だった日本という国に興味を 示し、危険を顧みず日本に来る。プロイセン(今のド イツ)から日本の内情視察を、命じられて来たと言う 説もある。 --------------------------- 日本は当時、鎖国状態。ドイツ人では、日本に入れな い。シーボルトはオランダ人としてオランダ政府経由 で、日本に入国している。当然、オランダ人として振 舞うが、オランダ語が話せる日本人もいる。そんな日 本人は、シーボルトのオランダ語が、何か不自然な事 はわかる。それを聞かれて、シーボルトは、山地出身 のオランダ人だからと答えているが、オランダには山 地は無いという事なので、ずいぶん適当な返答だ。 --------------------------- 決闘 シーボルトは、ドイツ時代に、数十回「決闘」を したらしい。この「決闘」というのは、どういう物だ ったのか良くわからないが、少し調べてみると、西部 劇のガンマンみたいに、ピストルで打ち合うという事 らしい。当時頻繁に行われた。お互いに、一発だけ打 つという事だ。 --------------------------- 「決闘」についてもう少し考えてみる。「決闘」どう やらピストルで打ち合うという事らしい。しかし、こ んな決闘を、そんなしょっちゅう(数十回)、やって 生き延びているとしたら、伝説のガンマンも真っ青な 腕前では、ないだろうか?シーボルトの顔には刀傷も あったらしいので、「決闘」とは、割といろんな方式 があって、激しい場合は、刀で切ったり、ピストルで 撃ったりする。軽い「決闘」の場合は素手で殴りあっ たりといろいろな方法があったのではないかと想像し てみる。それにしても、数十回の「決闘」とは、ずい ぶんと血の気が多かったという事が分かる。 --------------------------- さて、血気旺盛な青年シーボルトは日本にやって来た。 鎖国状態の日本では、外国人が自由に出歩く訳には、 当然いかない。自然、長崎の出島内で、駐在の医師と なる。この時まだ、30歳にもならないシーボルトは、 独身で、健康だ。そんな健康なシーボルト青年は、長 崎出島内に出入りのあった遊女、楠本滝さんを見初め る。来日3ヶ月でシーボルトは、遊女の、楠本滝と結 婚。青年シーボルトは、この辺も早い。 --------------------------- 楠本滝遊女であったと言われている。 遊女 古来、宴席などで歌舞をし、また、寝所に侍ることを 職業とした女。 あそびめ。うかれめ。遊君。遊郭の女。女郎。遊女と いうのは、辞書で調べると、こんな感じであり、寝所 を舞台とする職業だ。楠本滝は、遊女だったというの が、一般的な歴史上の見解だが、時として一般的な認 識という物は、間違う。楠本滝は、遊女ではなかった 。という説が最近ある。偶然、歴史的に誤解されただ け。という話だ。 --------------------------- 楠本滝は、遊女ではなかったのか?遊女では無かった という根拠として、一つ目に考えられるのが、日本に 来て3ヶ月程度のシーボルトが、客として遊郭に通い、 楠本滝を遊女揚げし、妻にするには、期間が短すぎる という事。二つ目は、もし遊郭から遊女揚げするとし ても莫大な遊女揚げ代銀を支払わなければならず、 シーボルトがそれを用意する事は、不可能であったと いう事。この説、どうももっともらしい。しかし疑問 が残る。では、出島に居て自由に出歩く事の出来ない シーボルトと、楠本滝が如何にして出会ったのか? --------------------------- シーボルトと楠本滝の出会い。どうやらシーボルトは、 来日して、すぐに長崎奉行の依頼で、出島より出て、 日本人の患者を診察したらしい。この時に、楠本滝と 出会ったと言うのが定説のようだ。診察しに来た外国 の青年シーボルトと、17歳の楠本滝は、一目ぼれをし たという事になる。その後、出島に戻ったシーボルト を追って楠本滝は、出島に向かう。しかし、出島には 一般の日本人は入る事が許されていない、入る事が許 されているのは、丸山の遊女のみ。そこで、楠本滝は、 遊女に扮装し紛れ込み、愛しのシーボルトに会いに行 った。これが後に楠本滝は、遊女である。という誤解 の原因になった。 --------------------------- シーボルトは、楠本滝と結婚した後、故郷の伯父に宛 てて、このような手紙を送っている。「小生もまた古 いオランダの風習に従い、目下愛くるしい16歳の日 本の女性と結ばれました。小生は恐らく彼女をヨーロ ッパの女性と取替えることはあるまいと存じます。」 --------------------------- シーボルトは、楠本滝を余程愛していたらしく、日本 で見つけたアジサイの花に、「オタクサ」と名付けた。 これは、楠本滝を、お滝さんと発音できずに「オタク サ」になったもので、アジサイにお滝さんという名前 を付けたという事。シーボルトは、オランダに戻った 後にアジサイを、「オタクサ」として発表しているが、 先にスウェーデンの植物学者カール・ツンベルクが、 別の名前で発表していた為に、正式な学名とはなって いない。 --------------------------- シーボルトは、オランダに戻った後にアジサイを、 「オタクサ」として発表しているが、先にスウェーデ ンの植物学者カール・ツンベルクが、別の名前で発表 していた為に、正式な学名とはなっていない。しかし 正式な学名として誤解している人もいる様で、未だに オランダでは、アジサイを「オタクサ」と呼んでいる 人もいるという話がある。ある学者は、遊女の名前を、 この美しい花に付けたと言う事で、非難しているらし いが、そもそも楠本滝は、遊女ではないようなので、 そうなれば的外れだ。 --------------------------- シーボルトは、鳴滝塾という塾を開設する。この塾で シーボルトは西洋医学を講義し日本の医学会に大きく 貢献した。後に深くシーボルト一家と関わる事になる 二宮敬作も、この中にいた。鳴滝塾シーボルトは鳴滝 塾という私塾を開講した。鳴滝はシーボルト自身が長 崎一の健康地といっただけの事はあり、渓谷と木立に 囲まれた美しい場所だった。シーボルトはこの鳴滝に 日本人名義にて家と土地を購入週に1回ないしは2回 この家で病人を診察したりしていた。また日本全国か ら集まってきた学生に西洋医学を教えたりもした。 シーボルトは日本に関する様々な著述を残しているが、 この私塾の門下生たちの協力に負う所が多かったとい う。 --------------------------- シーボルト・イネ1827年、この時期シーボルト夫婦に 子供が生まれる。イネと名づけた。その後このシーボ ルトイネは日本初の女医になるのだが、それはまだ先 の話。イネをもうけ幸せなシーボルト一家だがシーボ ルトには任期がありオランダに帰ることになる。帰国 は1828年。イネ誕生の一年後だった。 --------------------------- シーボルトは、日本人になろうと思った。思っただけ ではなく実際に方法をさがした。妻の滝と娘のイネを オランダに連れて帰りたかった。しかし当時の法律で は日本人を海外に連れ出す事は出来ない。日本人にな って、妻と娘と一生日本で暮らしたい。シーボルトは そう思い、その為に日本人になりかった。本来ドイツ 人であるシーボルトは、ドイツに年老いた母をただ1 人残している。それでもシーボルトは日本に残ろうと 思った。が、結局これは叶わなかった。 --------------------------- シーボルトはオランダに帰国する。この時に多少事件 が起こる。これが後に伝わるシーボルト事件で、事の 発端がどこか特定するのが難しい。この当時、日本は 鎖国中で日本国内の品を海外に持ち出す事に非常に厳 しい規制があった。それがシーボルトの帰国の荷物の 中から見つかった。具体的には日本地図、徳川葵の羽 織などいろいろと出てきたらしい。 --------------------------- シーボルト事件国外持ち出し禁制品をどこから手に入 れたのか、当然追求される。しかしシーボルトはその 出所を一切言わなかった。この持ち出し禁制品は、そ のほとんどはシーボルトに親しかった日本人の友人達 の協力により集めており、友人に害が及ぶ事をシーボ ルトは怖れた。国外持ち出し品を渡した日本人も当然 罪に問われる事になる。結局この事によりシーボルト は国外永久追放となり日本への入国を禁止される事と なる。当然、鳴滝塾の塾生達や自身の妻と娘にも二度 と会う事が出来ないという事である。 --------------------------- 十数名が処分された。シーボルトは、誰に禁制品を渡 されたか言わなかったに違いないが結局のところ調べ て分かった。高橋景保をはじめ十数名が処分された。 景保は獄死した後に死罪判決まで与えられている。禁 制品の持ち出しという事が余程大きな事件として扱わ れていた事がわかる。鎖国を300年続けてきた江戸 徳川幕府の特殊性と言えるだろう。 --------------------------- オランダに帰ったシーボルトは当時35歳。当時ヨー ロッパでは日本対する知識がほとんどなく、日本は未 知の国家と言える程の存在であった。シーボルトは日 本からオランダに対して植物などの調査結果を送り続 けていた為ヨーロッパの日本研究に大きな貢献をして いた。そのシーボルトが帰国する。という事でその筋 の学会では大騒ぎだったらしい。 --------------------------- シーボルトはオランダ帰国後「日本」を刊行する。日 本研究の集大成としてのこの本は全7巻で非常に詳し く、これによりヨーロッパでの日本の理解は飛躍的に 進んだ。日本から持ち帰った植物を栽培し「ニッポ ン」という別荘も建てている。この日本研究が評価さ れシーボルトはヨーロッパ各国から勲章を受けた。こ の当時のヨーロッパでは日本研究と言えばシーボルト という方程式が成り立っていたようだ。 --------------------------- シーボルトは1844年日本開国の為の親書をオランダ国 王に提示した。世界情勢に明るいシーボルトは、日本 が鎖国状態のままでは、いつか西欧列強に植民地にさ れてしまう、と思っていた。シーボルトは、日本は進 んで開国を行い、対等な貿易条件をヨーロッパ諸国と 結び、貿易をして、西欧の技術力を取り込み、国防の 力を付ける事以外に占領を避ける方法は無いと考えた。 この考え方は、後に歴史の表舞台に現れる坂本龍馬や 勝海舟も同じだった。世界を総括して見れば結果この 考えに行き着くのかもしれない。この日本開国の為に シーボルトは、オランダ国王に親書を提示した。 --------------------------- お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008.01.09 11:21:04
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