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2008.01.09
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カテゴリ:その他

シーボルト。

鎖国時代の日本に来たドイツ人。オランダ人を名乗っ
ていたがオランダ人ではない。医学会の名門の家に生
まれた、このドイツ人は、探究心と冒険心が旺盛で、
ヨーロッパでは当時未開だった日本という国に興味を
示し、危険を顧みず日本に来る。プロイセン(今のド
イツ)から日本の内情視察を、命じられて来たと言う
説もある。

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日本は当時、鎖国状態。ドイツ人では、日本に入れな
い。シーボルトはオランダ人としてオランダ政府経由
で、日本に入国している。当然、オランダ人として振
舞うが、オランダ語が話せる日本人もいる。そんな日
本人は、シーボルトのオランダ語が、何か不自然な事
はわかる。それを聞かれて、シーボルトは、山地出身
のオランダ人だからと答えているが、オランダには山
地は無いという事なので、ずいぶん適当な返答だ。

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決闘

シーボルトは、ドイツ時代に、数十回「決闘」を
したらしい。この「決闘」というのは、どういう物だ
ったのか良くわからないが、少し調べてみると、西部
劇のガンマンみたいに、ピストルで打ち合うという事
らしい。当時頻繁に行われた。お互いに、一発だけ打
つという事だ。

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「決闘」についてもう少し考えてみる。「決闘」どう
やらピストルで打ち合うという事らしい。しかし、こ
んな決闘を、そんなしょっちゅう(数十回)、やって
生き延びているとしたら、伝説のガンマンも真っ青な
腕前では、ないだろうか?シーボルトの顔には刀傷も
あったらしいので、「決闘」とは、割といろんな方式
があって、激しい場合は、刀で切ったり、ピストルで
撃ったりする。軽い「決闘」の場合は素手で殴りあっ
たりといろいろな方法があったのではないかと想像し
てみる。それにしても、数十回の「決闘」とは、ずい
ぶんと血の気が多かったという事が分かる。

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さて、血気旺盛な青年シーボルトは日本にやって来た。
鎖国状態の日本では、外国人が自由に出歩く訳には、
当然いかない。自然、長崎の出島内で、駐在の医師と
なる。この時まだ、30歳にもならないシーボルトは、
独身で、健康だ。そんな健康なシーボルト青年は、長
崎出島内に出入りのあった遊女、楠本滝さんを見初め
る。来日3ヶ月でシーボルトは、遊女の、楠本滝と結
婚。青年シーボルトは、この辺も早い。

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楠本滝遊女であったと言われている。

遊女

古来、宴席などで歌舞をし、また、寝所に侍ることを
職業とした女。
あそびめ。うかれめ。遊君。遊郭の女。女郎。遊女と
いうのは、辞書で調べると、こんな感じであり、寝所
を舞台とする職業だ。楠本滝は、遊女だったというの
が、一般的な歴史上の見解だが、時として一般的な認
識という物は、間違う。楠本滝は、遊女ではなかった
。という説が最近ある。偶然、歴史的に誤解されただ
け。という話だ。

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楠本滝は、遊女ではなかったのか?遊女では無かった
という根拠として、一つ目に考えられるのが、日本に
来て3ヶ月程度のシーボルトが、客として遊郭に通い、
楠本滝を遊女揚げし、妻にするには、期間が短すぎる
という事。二つ目は、もし遊郭から遊女揚げするとし
ても莫大な遊女揚げ代銀を支払わなければならず、
シーボルトがそれを用意する事は、不可能であったと
いう事。この説、どうももっともらしい。しかし疑問
が残る。では、出島に居て自由に出歩く事の出来ない
シーボルトと、楠本滝が如何にして出会ったのか?

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シーボルトと楠本滝の出会い。どうやらシーボルトは、
来日して、すぐに長崎奉行の依頼で、出島より出て、
日本人の患者を診察したらしい。この時に、楠本滝と
出会ったと言うのが定説のようだ。診察しに来た外国
の青年シーボルトと、17歳の楠本滝は、一目ぼれをし
たという事になる。その後、出島に戻ったシーボルト
を追って楠本滝は、出島に向かう。しかし、出島には
一般の日本人は入る事が許されていない、入る事が許
されているのは、丸山の遊女のみ。そこで、楠本滝は、
遊女に扮装し紛れ込み、愛しのシーボルトに会いに行
った。これが後に楠本滝は、遊女である。という誤解
の原因になった。

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シーボルトは、楠本滝と結婚した後、故郷の伯父に宛
てて、このような手紙を送っている。「小生もまた古
いオランダの風習に従い、目下愛くるしい16歳の日
本の女性と結ばれました。小生は恐らく彼女をヨーロ
ッパの女性と取替えることはあるまいと存じます。」

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シーボルトは、楠本滝を余程愛していたらしく、日本
で見つけたアジサイの花に、「オタクサ」と名付けた。
これは、楠本滝を、お滝さんと発音できずに「オタク
サ」になったもので、アジサイにお滝さんという名前
を付けたという事。シーボルトは、オランダに戻った
後にアジサイを、「オタクサ」として発表しているが、
先にスウェーデンの植物学者カール・ツンベルクが、
別の名前で発表していた為に、正式な学名とはなって
いない。

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シーボルトは、オランダに戻った後にアジサイを、
「オタクサ」として発表しているが、先にスウェーデ
ンの植物学者カール・ツンベルクが、別の名前で発表
していた為に、正式な学名とはなっていない。しかし
正式な学名として誤解している人もいる様で、未だに
オランダでは、アジサイを「オタクサ」と呼んでいる
人もいるという話がある。ある学者は、遊女の名前を、
この美しい花に付けたと言う事で、非難しているらし
いが、そもそも楠本滝は、遊女ではないようなので、
そうなれば的外れだ。

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シーボルトは、鳴滝塾という塾を開設する。この塾で
シーボルトは西洋医学を講義し日本の医学会に大きく
貢献した。後に深くシーボルト一家と関わる事になる
二宮敬作も、この中にいた。鳴滝塾シーボルトは鳴滝
塾という私塾を開講した。鳴滝はシーボルト自身が長
崎一の健康地といっただけの事はあり、渓谷と木立に
囲まれた美しい場所だった。シーボルトはこの鳴滝に
日本人名義にて家と土地を購入週に1回ないしは2回
この家で病人を診察したりしていた。また日本全国か
ら集まってきた学生に西洋医学を教えたりもした。
シーボルトは日本に関する様々な著述を残しているが、
この私塾の門下生たちの協力に負う所が多かったとい
う。

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シーボルト・イネ1827年、この時期シーボルト夫婦に
子供が生まれる。イネと名づけた。その後このシーボ
ルトイネは日本初の女医になるのだが、それはまだ先
の話。イネをもうけ幸せなシーボルト一家だがシーボ
ルトには任期がありオランダに帰ることになる。帰国
は1828年。イネ誕生の一年後だった。

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シーボルトは、日本人になろうと思った。思っただけ
ではなく実際に方法をさがした。妻の滝と娘のイネを
オランダに連れて帰りたかった。しかし当時の法律で
は日本人を海外に連れ出す事は出来ない。日本人にな
って、妻と娘と一生日本で暮らしたい。シーボルトは
そう思い、その為に日本人になりかった。本来ドイツ
人であるシーボルトは、ドイツに年老いた母をただ1
人残している。それでもシーボルトは日本に残ろうと
思った。が、結局これは叶わなかった。

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シーボルトはオランダに帰国する。この時に多少事件
が起こる。これが後に伝わるシーボルト事件で、事の
発端がどこか特定するのが難しい。この当時、日本は
鎖国中で日本国内の品を海外に持ち出す事に非常に厳
しい規制があった。それがシーボルトの帰国の荷物の
中から見つかった。具体的には日本地図、徳川葵の羽
織などいろいろと出てきたらしい。

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シーボルト事件国外持ち出し禁制品をどこから手に入
れたのか、当然追求される。しかしシーボルトはその
出所を一切言わなかった。この持ち出し禁制品は、そ
のほとんどはシーボルトに親しかった日本人の友人達
の協力により集めており、友人に害が及ぶ事をシーボ
ルトは怖れた。国外持ち出し品を渡した日本人も当然
罪に問われる事になる。結局この事によりシーボルト
は国外永久追放となり日本への入国を禁止される事と
なる。当然、鳴滝塾の塾生達や自身の妻と娘にも二度
と会う事が出来ないという事である。

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十数名が処分された。シーボルトは、誰に禁制品を渡
されたか言わなかったに違いないが結局のところ調べ
て分かった。高橋景保をはじめ十数名が処分された。
景保は獄死した後に死罪判決まで与えられている。禁
制品の持ち出しという事が余程大きな事件として扱わ
れていた事がわかる。鎖国を300年続けてきた江戸
徳川幕府の特殊性と言えるだろう。

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オランダに帰ったシーボルトは当時35歳。当時ヨー
ロッパでは日本対する知識がほとんどなく、日本は未
知の国家と言える程の存在であった。シーボルトは日
本からオランダに対して植物などの調査結果を送り続
けていた為ヨーロッパの日本研究に大きな貢献をして
いた。そのシーボルトが帰国する。という事でその筋
の学会では大騒ぎだったらしい。

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シーボルトはオランダ帰国後「日本」を刊行する。日
本研究の集大成としてのこの本は全7巻で非常に詳し
く、これによりヨーロッパでの日本の理解は飛躍的に
進んだ。日本から持ち帰った植物を栽培し「ニッポ
ン」という別荘も建てている。この日本研究が評価さ
れシーボルトはヨーロッパ各国から勲章を受けた。こ
の当時のヨーロッパでは日本研究と言えばシーボルト
という方程式が成り立っていたようだ。

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シーボルトは1844年日本開国の為の親書をオランダ国
王に提示した。世界情勢に明るいシーボルトは、日本
が鎖国状態のままでは、いつか西欧列強に植民地にさ
れてしまう、と思っていた。シーボルトは、日本は進
んで開国を行い、対等な貿易条件をヨーロッパ諸国と
結び、貿易をして、西欧の技術力を取り込み、国防の
力を付ける事以外に占領を避ける方法は無いと考えた。
この考え方は、後に歴史の表舞台に現れる坂本龍馬や
勝海舟も同じだった。世界を総括して見れば結果この
考えに行き着くのかもしれない。この日本開国の為に
シーボルトは、オランダ国王に親書を提示した。

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シーボルトの熱意に突き動かされたオランダ国王は、
徳川幕府に対して、シーボルトの考えである「日本は
積極的に開国すべきである」。という内容を伝えた。
それが、日本の国益になる。そう伝えた。
この時のオランダの立場から考えてみる。日本に開国
を進めるオランダというのは、非常に親切なように感
じる。オランダは鎖国する日本と唯一貿易を許されて
いるヨーロッパの国家であり、対日本貿易の利益を独
占している状態であった。それが開国をして他国と貿
易をしろと薦める。この自国の利益を明らかに減らす
行為というのが、純粋な親切心からの発露と考えるの
は国家という共同体の性質を前提に考える場合に無理
があるかもしれない。もし日本が開国しない場合を考
えてみると現実との誤差が少ないかもしれない。シー
ボルトの理論で言えば、日本が開国しなければ西欧列
強の植民地となる。植民地競争に参加していないオラ
ンダは、日本の利権の一切を失う事になる。一切を失
う。それよりは、日本を開国させ、その恩人として優
遇されるほうが、まだマシである。そういう事なのか
も知れない。

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最終更新日  2008.01.09 11:22:38
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