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このシーボルトの「開国の親書」は、彼の個人的な欲求 から来ているという説もある。前述した様にシーボル トは、「シーボルト事件」によって日本には2度と入国 出来なくなっていた。シーボルトは、日本に妻と娘を 残していた。彼は妻と娘をこの当時も愛していた。妻 子と別れてから15年以上経っていたが未だ再婚をして いない。その愛情の深いシーボルトが妻と娘に会う為 に日本の開国を進めていたとは少し美しく考え過ぎと も言えるかもしれないが、日本が開国する。そのくら いの事が無ければ彼が彼の妻子に会う事が出来ない、 という事も確かであった。 --------------------------- シーボルトは意識していなかったに違いない。妻子に 会えるから日本を開国させる。おそらくシーボルトは そうは考えてなかったであろう。しかし人間が思考か ら行動に移るには感情的なエネルギーを必要としてい て、それは稀に思考とは、離れた部分に存在している らしい。シーボルトは家族との再会という石炭を使い、 その石炭で働く「日本開国」という蒸気機関車を走らせ たのかもしれない。 --------------------------- 結局日本は開国しない。オランダからの「進んで開国 すべき」という提案を、相手にせず、結果、開国しな い。日本開国という家族との再会の可能性をシーボル トは絶たれた事となる。この翌年、シーボルトはドイ ツの貴族の娘と再婚する。日本に帰れないという事が、 シーボルトにどのような影響を与えたのかは分からな いが、自然、その事が関係しいると考えられる。 --------------------------- 1853年 ペリー艦隊のマシューペリー提督は、日本 の開港という任務を帯びていた。ペリーは当時ヨーロ ッパでの日本研究第一人者であるシーボルトを訪ねる。 ペリーはシーボルトの下で数ヶ月、日本を学ぶ。この 時、シーボルトは中年のアメリカ艦隊の提督に「どう か穏健に日本を開国に導いてくれ」と言っている。し かし、シーボルトは日本に余計な手を出すなという事 は言ってはいない。アメリカ艦隊の開国要求が穏健な ものになるはずはない。その事を世界情勢に詳しい シーボルトに分からないはずはない。 --------------------------- シーボルトの中には、まだ日本への想いが滾っていた のだろうか。その為、穏健に開国要求をするはずのな いペリー艦隊に対して希望的な観測を持って日本の開 国を託したのかもしれない。この後ペリーが浦賀沖に 来航し開港を迫る事になる。結果日本は開港する。そ して、その後63歳になったシーボルトは、日本に再度 入国する事となる。 --------------------------- 楠本イネこのシーボルト娘は、後に日本最初の女医と なる。この最初の女医というのも異論はあるがここで は、そのことには触れない。楠本滝は、シーボルトの 帰国の2年後再婚し、楠本イネは、12歳になり、宇和 島の二宮敬作のもとに行き医者になりた事を告げた。 こうして、敬作から外科学を学ぶ事となった。 --------------------------- 二宮敬作は、イネに確かな産科学を学ばせる為に同じ シーボルト門下生である、石井宗賢のもとにイネを行 かせた。この時イネは19歳であった。この時イネは、 村田蔵六と会っている。そして、この出会いが村田蔵 六の運命を変えていく事になるが、この時、村田蔵六 本人ですら、そんな事は露ほども考えなかった。 --------------------------- この長州藩の医者、石井宗賢とイネの間に子供が出来 る。子供は、「ただ」と名付けられた。女の子だった。 石井宗賢には別に妻も子供も居た。石井宗賢は、「イ ネは自分の妻だ」と人に語っている。しかし実際は手 込めにしたという類の話で、イネに言わせると「産科 学を学びに来たのに自分が出産する事になるなんて、、 難しいものです。」という事になる。この当時、下女 に手を付けてしまうというのは、珍しい事ではなかっ たという背景はある。(イネは下女扱いの住み込みで 勉強していた。) --------------------------- 石井宗賢のもとで、産科医修行をしていたイネは、こ の時、村田蔵六に出会っている。村田蔵六は、長崎に 向かっていた。このオランダ学の秀才は、長崎で、医 学を学ぶべく旅をしている。この長州の田舎村出身の 村医の息子はオランダ学の先輩である、石井宗賢に会 いに来ていた。この当時の蘭学者は、蘭学者がいると 聞けば会いにいった、主な目的は情報交換で、これは 蘭学者の間では頻繁に行われていた。もちろん石井宗 賢が高名だったという事もある。 --------------------------- 村田蔵六は石井宗賢を訪ねた。この村田蔵六という男。 奇妙な才能がある。家探しが得意なのだ。この家探し を蔵六は「勘」でやる。蔵六は自分で犬のようだ。と思 ったりもする。奇妙な才覚であった。石井宗賢の家を 見つけた。中に入ってみる。入ると患者の待合所で、 患者が数人座っていた。その患者の頭上には、「和光 同塵」という額がかかってる。 --------------------------- 宗賢その人が書いたものである。「和光同塵」、、これ は中国道教の祖、老子の言葉である。光とは知徳であ り、塵とは俗世、娑婆である。宗賢はこの言葉を、 「自分は知徳があるのに俗世に塗れている」という意味 で使っている。なかなか面倒な人物かもしれないと蔵 六は考えた。何故面倒かと言うと、「和光同塵」という、 この老子の教えは、「知徳を持っていたとしても、そ れを表に出さずに人知れず人々を導いていく」という 思想のもので、これを額に入れて人々に見せてしまっ ては、「自分は脳ある鷹だから爪を隠しているんだ」と 人に言ってしまう様なもので滑稽であった。 --------------------------- この時蔵六は宗謙に会えなかった。蔵六は仕方なく近 くに宿を取った。翌日、すでに食事時であったが使い の者が「直ぐに来てくれ」と宗謙の言葉を蔵六に伝えに やってきた。蔵六は食事を一緒に取るのは面倒だと感 じたのだろう。あえて少し時間をずらして訪ねると、 宗謙は立ち上がり「人の好意を無にするのか」と怒鳴っ たらしい。石井宗賢という人物、終始この調子のよう だ。 --------------------------- 宗謙と蔵六が話しをしている。その時ふすまが開き湯 飲みをもった女性が現れた。異人の様に見える。蔵六 は目を奪われた。宗謙が「家内だ。」と紹介した。女は 20台前半程度の年齢に見えた。宗謙は50歳を越えてい る。婦人は、不機嫌そうに「失本イネ」です。と名乗っ た。石井家の妻なのに失本と名乗るのだから蔵六は訳 が分からなかった。 --------------------------- ある日、蔵六の宿にイネが訪ねて来た。この時代男の 宿に夫人が1人で訪ねるという事は異常な事で不貞を 疑われても仕方がない。しかしイネは訪ねて来た。蔵 六は、内心驚いていたが表情には出ない。隠している 訳でもなく元々この男はそのように出来ていた。心の 中では狼狽していた。イネは、蔵六の部屋に入り口を 開き、とうとうと自らの身の上を話し始めた。「オラ ンダ語を教えて欲しいのです。」イネは言った。 --------------------------- 蔵六は、「宗謙殿に教えていただけばいいでしょう」 と言ったが、イネは、「それは出来ません」と言って 譲ろうとしない。イネの様子を見て、これは男女関係 の何かがあるのだろうと蔵六は思った。蔵六は学問を 修めるまでは面倒な男女の関係などには関わりたくな いと日々考えている様な男で、この時も、面倒だった ので「わかりました。」とオランダ語の教師を引き受 けた。「では内儀どの」「イネと呼んでください」と イネは言った。しかしあなたは、宗謙どのの内儀では ないか、と蔵六が問うと、「宗謙の家内でありませ ん。」と否定した。蔵六は、面倒な事になったと思っ た。 --------------------------- イネは蔵六に、ここが読めないのです。といってオラ ンダ語の医学書を出した。この時イネの持っていた医 学書は、シーボルトが日本を去る時にイネに残した物 でイネはずっと宝物の様にしていた。蔵六はもちろん その事は知らなかった。蔵六のオランダ語の解説が終 わるとイネは、「おんなの身で学問をするのは難しい ものです。」と急にいった。 --------------------------- イネは蔵六に一通りの講釈を受けたあと「岡山を出た いと思ってます」と言い出した。蔵六はあいかわらず 異常に大きな額の下の眼をはっきりとは開かずに聞い ているが、この時は、心の中では何やら面倒な事にな って来たと思っていた。この岡山を出たいのです。大 阪に行って学問を学びたいのです。イネがはっきりと した調子で言った。この当時大阪には蔵六が学んだ適 塾という蘭学校がありイネはここに行きたいと行った。 「女性の身で適塾で学ぶというのは余程大変な事に違 いあるまい」と言い蔵六は適塾の独特の学習システム をイネに説明した。 --------------------------- この緒方洪庵を祖とするオランダ学問の塾は、塾生は 共に雑魚寝をする。一人に対して一畳程度の寝起きの 場所が与えられる。とても婦人が共に学べるような環 境ではなく、ましてイネのような美しい、、、と蔵六 は思っている。そのような婦人が適塾で蘭学を学ぶな ど想像の埒外であった。「しかし岡山から出たいので す。」というイネに蔵六は、つい深入りして「岡山から 出たいという心で適塾に入りたいとは志が不純ではあ りませんか?」少し強い口調で言った。言ったあと、 失敗したと思ったが口から一度出た言葉は時間が戻ら ない限り二度と戻っては来ない。 --------------------------- 学問とは?イネにとって学問とは父であるシーボルト であった。蘭学を学んでいる時はオランダ人である シーボルトをもっとも強く感じられるのであった。そ れだけに、イネに取って学問とは神聖で心魂傾けるに 相応しい存在で一種の信仰となっていた。蘭学の聖地 とも言える「適塾」において塾頭を務める蔵六に当初か ら尊敬の念を抱いていたのは、このせいだったと言え る。 --------------------------- 蔵六は鋳銭司村へ帰っていた。父親から村医を継ぐよ うに言われ、まだ学問がしたかったが帰郷した。この 当時の父親の命令というのは現代人では想像できない 絶対性があり、蔵六も例外ではなく結果、村田良庵な どと名乗り開業した。しかし、この蔵六の診療所は常 に閑古鳥が鳴いている状態であった。むろん原因は蔵 六にある。 --------------------------- 村人が「先生、今日は暑いですね。」と挨拶すると「夏 は暑いのが当たり前です。」とニコリともせずに返す。 村人たちは鳩が豆鉄砲を喰らったような顔で立ち尽く してしまった。またある時は暑いですね、と挨拶され て「そうです」と返した。そうです、という挨拶がある だろうか。村人たちは、あの先生は挨拶もロクにでき ないと噂し結果、診療所への客足は遠のいていく事に なる。しかし蔵六にしてみれば、言葉は意味があって 発するもので誰もが暑いとわかる時に、暑いですね、 などと言う意味はなく、それが当たり前です。と返す のが当然だった。 --------------------------- 閑古鳥が鳴いている理由は他にもあった。風邪の患者 を診療した場合に先代の良庵であれば「葛根湯」を出し たりした。しかし蔵六は多少の風邪であれば暖かくし て栄養を取れば大丈夫だと言って薬を処方しない。先 代に慣れている患者にしてみれば安心できずに「葛根 湯」をいただけませんか?と言ってくるものもある。 それでも出さない。蔵六の理屈では必要ないものは、 無駄であって、そんなものに金を出す必要はない。と いう事になる。同じ理屈でただ見ただけで診察料は貰 えないという事になり風邪程度の病状の場合は無料で 診察していた。 --------------------------- お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008.01.09 11:23:45
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