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2008.01.09
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カテゴリ:その他

このシーボルトの「開国の親書」は、彼の個人的な欲求
から来ているという説もある。前述した様にシーボル
トは、「シーボルト事件」によって日本には2度と入国
出来なくなっていた。シーボルトは、日本に妻と娘を
残していた。彼は妻と娘をこの当時も愛していた。妻
子と別れてから15年以上経っていたが未だ再婚をして
いない。その愛情の深いシーボルトが妻と娘に会う為
に日本の開国を進めていたとは少し美しく考え過ぎと
も言えるかもしれないが、日本が開国する。そのくら
いの事が無ければ彼が彼の妻子に会う事が出来ない、
という事も確かであった。

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シーボルトは意識していなかったに違いない。妻子に
会えるから日本を開国させる。おそらくシーボルトは
そうは考えてなかったであろう。しかし人間が思考か
ら行動に移るには感情的なエネルギーを必要としてい
て、それは稀に思考とは、離れた部分に存在している
らしい。シーボルトは家族との再会という石炭を使い、
その石炭で働く「日本開国」という蒸気機関車を走らせ
たのかもしれない。

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結局日本は開国しない。オランダからの「進んで開国
すべき」という提案を、相手にせず、結果、開国しな
い。日本開国という家族との再会の可能性をシーボル
トは絶たれた事となる。この翌年、シーボルトはドイ
ツの貴族の娘と再婚する。日本に帰れないという事が、
シーボルトにどのような影響を与えたのかは分からな
いが、自然、その事が関係しいると考えられる。

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1853年 ペリー艦隊のマシューペリー提督は、日本
の開港という任務を帯びていた。ペリーは当時ヨーロ
ッパでの日本研究第一人者であるシーボルトを訪ねる。
ペリーはシーボルトの下で数ヶ月、日本を学ぶ。この
時、シーボルトは中年のアメリカ艦隊の提督に「どう
か穏健に日本を開国に導いてくれ」と言っている。し
かし、シーボルトは日本に余計な手を出すなという事
は言ってはいない。アメリカ艦隊の開国要求が穏健な
ものになるはずはない。その事を世界情勢に詳しい
シーボルトに分からないはずはない。

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シーボルトの中には、まだ日本への想いが滾っていた
のだろうか。その為、穏健に開国要求をするはずのな
いペリー艦隊に対して希望的な観測を持って日本の開
国を託したのかもしれない。この後ペリーが浦賀沖に
来航し開港を迫る事になる。結果日本は開港する。そ
して、その後63歳になったシーボルトは、日本に再度
入国する事となる。

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楠本イネこのシーボルト娘は、後に日本最初の女医と
なる。この最初の女医というのも異論はあるがここで
は、そのことには触れない。楠本滝は、シーボルトの
帰国の2年後再婚し、楠本イネは、12歳になり、宇和
島の二宮敬作のもとに行き医者になりた事を告げた。
こうして、敬作から外科学を学ぶ事となった。

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二宮敬作は、イネに確かな産科学を学ばせる為に同じ
シーボルト門下生である、石井宗賢のもとにイネを行
かせた。この時イネは19歳であった。この時イネは、
村田蔵六と会っている。そして、この出会いが村田蔵
六の運命を変えていく事になるが、この時、村田蔵六
本人ですら、そんな事は露ほども考えなかった。

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この長州藩の医者、石井宗賢とイネの間に子供が出来
る。子供は、「ただ」と名付けられた。女の子だった。
石井宗賢には別に妻も子供も居た。石井宗賢は、「イ
ネは自分の妻だ」と人に語っている。しかし実際は手
込めにしたという類の話で、イネに言わせると「産科
学を学びに来たのに自分が出産する事になるなんて、、
難しいものです。」という事になる。この当時、下女
に手を付けてしまうというのは、珍しい事ではなかっ
たという背景はある。(イネは下女扱いの住み込みで
勉強していた。)

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石井宗賢のもとで、産科医修行をしていたイネは、こ
の時、村田蔵六に出会っている。村田蔵六は、長崎に
向かっていた。このオランダ学の秀才は、長崎で、医
学を学ぶべく旅をしている。この長州の田舎村出身の
村医の息子はオランダ学の先輩である、石井宗賢に会
いに来ていた。この当時の蘭学者は、蘭学者がいると
聞けば会いにいった、主な目的は情報交換で、これは
蘭学者の間では頻繁に行われていた。もちろん石井宗
賢が高名だったという事もある。

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村田蔵六は石井宗賢を訪ねた。この村田蔵六という男。
奇妙な才能がある。家探しが得意なのだ。この家探し
を蔵六は「勘」でやる。蔵六は自分で犬のようだ。と思
ったりもする。奇妙な才覚であった。石井宗賢の家を
見つけた。中に入ってみる。入ると患者の待合所で、
患者が数人座っていた。その患者の頭上には、「和光
同塵」という額がかかってる。

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宗賢その人が書いたものである。「和光同塵」、、これ
は中国道教の祖、老子の言葉である。光とは知徳であ
り、塵とは俗世、娑婆である。宗賢はこの言葉を、
「自分は知徳があるのに俗世に塗れている」という意味
で使っている。なかなか面倒な人物かもしれないと蔵
六は考えた。何故面倒かと言うと、「和光同塵」という、
この老子の教えは、「知徳を持っていたとしても、そ
れを表に出さずに人知れず人々を導いていく」という
思想のもので、これを額に入れて人々に見せてしまっ
ては、「自分は脳ある鷹だから爪を隠しているんだ」と
人に言ってしまう様なもので滑稽であった。

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この時蔵六は宗謙に会えなかった。蔵六は仕方なく近
くに宿を取った。翌日、すでに食事時であったが使い
の者が「直ぐに来てくれ」と宗謙の言葉を蔵六に伝えに
やってきた。蔵六は食事を一緒に取るのは面倒だと感
じたのだろう。あえて少し時間をずらして訪ねると、
宗謙は立ち上がり「人の好意を無にするのか」と怒鳴っ
たらしい。石井宗賢という人物、終始この調子のよう
だ。

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宗謙と蔵六が話しをしている。その時ふすまが開き湯
飲みをもった女性が現れた。異人の様に見える。蔵六
は目を奪われた。宗謙が「家内だ。」と紹介した。女は
20台前半程度の年齢に見えた。宗謙は50歳を越えてい
る。婦人は、不機嫌そうに「失本イネ」です。と名乗っ
た。石井家の妻なのに失本と名乗るのだから蔵六は訳
が分からなかった。

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ある日、蔵六の宿にイネが訪ねて来た。この時代男の
宿に夫人が1人で訪ねるという事は異常な事で不貞を
疑われても仕方がない。しかしイネは訪ねて来た。蔵
六は、内心驚いていたが表情には出ない。隠している
訳でもなく元々この男はそのように出来ていた。心の
中では狼狽していた。イネは、蔵六の部屋に入り口を
開き、とうとうと自らの身の上を話し始めた。「オラ
ンダ語を教えて欲しいのです。」イネは言った。

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蔵六は、「宗謙殿に教えていただけばいいでしょう」
と言ったが、イネは、「それは出来ません」と言って
譲ろうとしない。イネの様子を見て、これは男女関係
の何かがあるのだろうと蔵六は思った。蔵六は学問を
修めるまでは面倒な男女の関係などには関わりたくな
いと日々考えている様な男で、この時も、面倒だった
ので「わかりました。」とオランダ語の教師を引き受
けた。「では内儀どの」「イネと呼んでください」と
イネは言った。しかしあなたは、宗謙どのの内儀では
ないか、と蔵六が問うと、「宗謙の家内でありませ
ん。」と否定した。蔵六は、面倒な事になったと思っ
た。

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イネは蔵六に、ここが読めないのです。といってオラ
ンダ語の医学書を出した。この時イネの持っていた医
学書は、シーボルトが日本を去る時にイネに残した物
でイネはずっと宝物の様にしていた。蔵六はもちろん
その事は知らなかった。蔵六のオランダ語の解説が終
わるとイネは、「おんなの身で学問をするのは難しい
ものです。」と急にいった。

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イネは蔵六に一通りの講釈を受けたあと「岡山を出た
いと思ってます」と言い出した。蔵六はあいかわらず
異常に大きな額の下の眼をはっきりとは開かずに聞い
ているが、この時は、心の中では何やら面倒な事にな
って来たと思っていた。この岡山を出たいのです。大
阪に行って学問を学びたいのです。イネがはっきりと
した調子で言った。この当時大阪には蔵六が学んだ適
塾という蘭学校がありイネはここに行きたいと行った。
「女性の身で適塾で学ぶというのは余程大変な事に違
いあるまい」と言い蔵六は適塾の独特の学習システム
をイネに説明した。

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この緒方洪庵を祖とするオランダ学問の塾は、塾生は
共に雑魚寝をする。一人に対して一畳程度の寝起きの
場所が与えられる。とても婦人が共に学べるような環
境ではなく、ましてイネのような美しい、、、と蔵六
は思っている。そのような婦人が適塾で蘭学を学ぶな
ど想像の埒外であった。「しかし岡山から出たいので
す。」というイネに蔵六は、つい深入りして「岡山から
出たいという心で適塾に入りたいとは志が不純ではあ
りませんか?」少し強い口調で言った。言ったあと、
失敗したと思ったが口から一度出た言葉は時間が戻ら
ない限り二度と戻っては来ない。

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学問とは?イネにとって学問とは父であるシーボルト
であった。蘭学を学んでいる時はオランダ人である
シーボルトをもっとも強く感じられるのであった。そ
れだけに、イネに取って学問とは神聖で心魂傾けるに
相応しい存在で一種の信仰となっていた。蘭学の聖地
とも言える「適塾」において塾頭を務める蔵六に当初か
ら尊敬の念を抱いていたのは、このせいだったと言え
る。

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蔵六は鋳銭司村へ帰っていた。父親から村医を継ぐよ
うに言われ、まだ学問がしたかったが帰郷した。この
当時の父親の命令というのは現代人では想像できない
絶対性があり、蔵六も例外ではなく結果、村田良庵な
どと名乗り開業した。しかし、この蔵六の診療所は常
に閑古鳥が鳴いている状態であった。むろん原因は蔵
六にある。

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村人が「先生、今日は暑いですね。」と挨拶すると「夏
は暑いのが当たり前です。」とニコリともせずに返す。
村人たちは鳩が豆鉄砲を喰らったような顔で立ち尽く
してしまった。またある時は暑いですね、と挨拶され
て「そうです」と返した。そうです、という挨拶がある
だろうか。村人たちは、あの先生は挨拶もロクにでき
ないと噂し結果、診療所への客足は遠のいていく事に
なる。しかし蔵六にしてみれば、言葉は意味があって
発するもので誰もが暑いとわかる時に、暑いですね、
などと言う意味はなく、それが当たり前です。と返す
のが当然だった。

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閑古鳥が鳴いている理由は他にもあった。風邪の患者
を診療した場合に先代の良庵であれば「葛根湯」を出し
たりした。しかし蔵六は多少の風邪であれば暖かくし
て栄養を取れば大丈夫だと言って薬を処方しない。先
代に慣れている患者にしてみれば安心できずに「葛根
湯」をいただけませんか?と言ってくるものもある。
それでも出さない。蔵六の理屈では必要ないものは、
無駄であって、そんなものに金を出す必要はない。と
いう事になる。同じ理屈でただ見ただけで診察料は貰
えないという事になり風邪程度の病状の場合は無料で
診察していた。

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最終更新日  2008.01.09 11:23:45
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