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2008.01.09
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カテゴリ:その他


この無料で診察していた。というのは合理主義の塊の
ようであった蔵六の信念から来たというだけでは無い
ように思える。大阪の適塾の祖、緒方洪庵の教えによ
る所も大きいのではないだろうか。洪庵という人は蘭
学を立身出世の為には使おうとせず、とにかく人の為
に使うという事にこだわった。洪庵は、「医師という
物は病気で困っている人がいたら、居ても立ってもい
られずに助けてしまうような人間以外向いていない、
そうでない人間は結局医師にはなれない。」と平素言
っていたらしい。

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洪庵は、何度となく将軍家から奥医師として呼ばれて
いた。これは大変な出世で医師としての最高の地位と
も考えられる栄誉なのだが洪庵は断りつづけた。理由
は「町医者が気楽でよい。」という事であったが、名誉
や権威にこだわらない洪庵の考え方が見える。洪庵は
この時代には非常に珍しく西洋的なボランティア精神
を持っていたようで、その根源は幼少期の体験に基く
もののようだ。洪庵は幼少期にコレラの大流行を体験
している。当時の医術では感染を防ぐ事も出来ず洪庵
の家の近所では相当人が死んだらしい。この体験が、
純粋に患者の事だけを考える医師、洪庵を生んだのだ
ろう。

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ここから洪庵の正統な弟子と言えるであろう蔵六は村
医者としては全く人気が無く、診療所は常に閑古鳥が
鳴いていた。「医者が暇という事は病人が少ないので
いい事だ。」当の蔵六はその程度の意識でいたので深
刻さとは程遠かったが客足も遠かった。そんな時天啓
の様に蔵六にある手紙が届いた。手紙を持って来たの
は宇和島藩の大野という武士だった。手紙には宇和島
藩は国を守るために蘭学を必要としている。士分で召
抱えるから宇和島藩に来てくれ。という内容だった。

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蔵六は迷わなかった。閑古鳥しか来ない診療所には辟
易していたし、そもそもまだ学問をやりたかったにも
関わらず大阪から戻ってきていたのだ。学問をやらせ
てくれるのなら、どこへでも行きたい気分であった。
また宇和島藩の蔵六受け入れの条件も破格であった。
農民階級の蔵六を武士として迎えるというのだ。さら
に100石を取らせるという約束であった。これは宇和
島藩では高級官吏という事になり大変な出世であった。

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この蔵六の運命を変えた手紙を書いたのは二ノ宮敬作
という蘭学者である。敬作について少し説明する。敬
作はシーボルトの生徒であった。紆余曲折オランダに
帰国する事となったシーボルトはこの自分に忠実な門
下生にひとつの頼み事をした。「自分は日本に残る事
は出来ない。気がかりなのは、娘のイネだ。敬作、な
んとかこのイネを守ってあげてほしい。」この言葉が
敬作の人生の主題となった。敬作はイネの養育の責任
は自分にあるとして学問を教えたりした。自分の娘の
ように思っていた。

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イネは19歳の時に、より広い知識を得る為に敬作から
離れ岡山の石井宗謙に学んでいる。そのさいにイネは
蔵六と会った。その事を敬作に手紙で書き送っていた。
「適塾の秀才で非常に学識の高い人。合理的な思考は
非常に優れています。」そのような内容だった。敬作
は、イネにより蔵六を知った。その後、宇和島藩主の
伊達宗城に「誰かいないのか」と優秀な蘭学者を問われ
たときに蔵六を思い出した。敬作は適塾の洪庵のもと
に行き蔵六を宇和島藩に招聘する許可をとり筆をとり
蔵六に手紙をだした。

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蔵六にとっては、イネは運命を変えた女性であった。
岡山でイネに会わなければ敬作にも知られずにひっそ
りと田舎村の医者で一生終えたであろう。しかしこの
出会い。イネと蔵六の。これは偶然であるように思え
るが、この当時の蘭学界の狭さから考えれば必然と言
えるかもしれない。しかし蔵六の栄達はイネによりキ
ッカケを得たという事は事実と言えるのではないだろ
うか。(栄達というものを蔵六が望んでいたかどうか
は疑問が残るが)

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蔵六は宇和島に到着した。もともと蔵六には高級官吏
と同様の100石以上の士分という待遇が与えられるは
ずであった。しかし実際に宇和島で与えられた条件は
年に10両という門番並みの給料で明らかに約束とは違
っていた。宇和島藩主の使者として蔵六に手紙を渡し、
長州から宇和島まで同道して来た大野は、役所を周り
「約束と違うではないか」と苦情を言ったが「百姓の出
身だからこれで充分」という返答しか得られなかった。
実はこの時藩主の宗城は宇和島には居なかった。この
為に命令が徹底されずこのような扱いになってしまっ
た。大野は途方に暮れていた。何故なら、年に10両に
なりました。と蔵六に伝えるのは役割上大野の仕事だ
からである。

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大野は蔵六に伝えた。わざわざ遠方からお招きいたし
ましたが当初の約束どおりに高級官吏の待遇は出来ま
せん。全く比べ様のない門番程度の薄給である年間10
両で宇和島藩にお仕えください。大野は、蔵六にどれ
ほど怒られるだろうと考え顔を真っ赤にしてうつむい
ていたが、蔵六からの返事は、「ああ、そうですか」と
いう程度の物で蔵六は全く何も感じていないようだっ
た。大野は計りかねた。この御仁は涼しい顔をされて
いるが、実はとてつもなく怒っているのではないだろ
うか、大野はそう考えてもう一度蔵六の顔色を伺った。
しかし、どうも怒っている様子も無いのである。実際。
蔵六は怒っていなかった。もともと給金を気にしてい
なかったし、この男は豆腐が2丁あれば晩酌の肴にも
困らない金の掛からない便利な男だった。蔵六に言わ
せればこうであるらしい。「一度仕えると決めたのだ
から金がどうだの境遇がどうだの言うべきではない」

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大野は蔵六に、蘭書を与えた。どうやらこれが蔵六の
仕事らしく、蔵六の仕事は蘭書読みのようだった。大
野が蔵六に与えた蘭書は、宇和島藩が日本各地で買い
集めたもので歩兵操典や、銃の利用解説書、造船技術
書などさまざまであったが、軍備の強化という方向性
のものだった。ただ蘭書を読むだけで文句を言い出さ
ないかと大野は蔵六の顔色を伺ったが、何を考えてい
るか検討がつかない。蔵六は、常に何を考えているか
分からないような所がある男で今回は大野を困惑させ
ていた。蔵六は一月の間蘭書を読んですごしていた所、
家老の松根が京から帰ってきた。

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京から戻ってきた宇和島藩の家老、松根図書は蔵六の
待遇を大野から聞き、すぐに本来の待遇に改める様に
事務方に指示を出した。これにより蔵六は宇和島藩の
上司待遇となり当初の約束どおりとなった。しかし蔵
六は別に喜ぶでもなく、また松根の不手際を責めるで
もなく、やはりこの時も薄ぼんやりとして何を考えて
いるかわからなかった。大野は蔵六の機嫌をまたして
もつかめなかったし、そもそも、この男は何も考えて
いないのではないか、とさえ思い始めていた。

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運命の日。蔵六にとっては、そう言っても過言ではな
い1日だった。宗城が蔵六を城に呼びつけた。宗城の
用件は「黒船を作ってくれ」というものだった。宗城は
開明派の藩主としては、すでに有名であり、この鎖国
時代の日本において日本の貿易戦略の基盤は西洋の技
術にありと、この時点で考えていた天才的な人物で、
この構想を実現できる人物を探していた。すでに述べ
たが、その為に敬作を通じて蔵六を知り宇和島藩に上
司待遇という特別扱いで招聘したのであった。黒船を
作る、、、、、蔵六は、この瞬間まで、村医者であっ
た事があった。蘭学者だった事もあった。しかし造船
技師であった事など一瞬たりともなかった。この殿様
は、ただ蔵六が蘭学者であったという一点で、黒船を
作れると思っているのだった。蔵六は、少しおかしく
感じながらも、殿様とはこういう物かと半ばあきれた。
しかし、これは殿様の命令である。蔵六は黒船を作る
しかないのであった。

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宗城が何故、蔵六に黒船作りを命じたのか、そこから
考えなければこの問題は理解できない。話は、シーボ
ルトから日本を学んだ男、アメリカ太平洋艦隊ペリー
提督の来日にさかのぼる。浦賀沖の黒船来航を知った
日本人は、島国民族独自というべきの多民族からは理
解できない危機意識があり過剰に反応した。黒船来航
の最大の過剰反応は、明治維新という革命であるとい
える。この危機意識を人一倍強く持っていた三人の大
名がいた。一人は宇和島藩主、伊達宗城。一人は薩摩
藩主、島津斉彬。一人は佐賀藩主、鍋島直正であった。
この三人の大名は、黒船が無ければ西洋とまともに戦
えないと考えた。そこで三藩で競って「黒船を作る」と
いう約束をした。黒船が無ければ、近い将来日本は欧
米文明に侵略されることになるだろう。三人の大名は
そう感じていた。

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「黒船を作る」この浪漫あふれる三人の大名の構想は、
普通に考えれば無謀であった。当時世界基準でも蒸気
機関で航行する船は少なく、ペリー艦隊と前後して日
本に来たロシアのプチャーチン艦隊は、いまだ風帆船
を使っていたし、この時代世界最大の海軍国家の英国
ですら、大型船には蒸気機関はなく風帆船であった。
極東の後進国である日本で蒸気船が完成した場合、造
船技術界の快挙、おおげさに言えば奇跡と言えるかも
しれない。日本の造船技術が世界の第一線に追いつい
たという事になる。「黒船を作る」この時代のほとんど
の日本人には創造すら出来ない事を。宇和島藩は蔵六
の力で成し遂げようとした。その為に蔵六を宇和島へ
呼んだのだった。

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蔵六は、二ノ宮敬作と会っていた。敬作は酒乱の気が
あるものの温厚な人柄で医師として人気が高く人格者
と言ってもおかしくはない気質の持ち主である。シー
ボルトの鳴滝塾の塾生であったことがあり未だにシー
ボルトを慕っていた。頓狂の心だ、と敬作は言う。西
洋人には頓狂の心があるからこそあれほど科学が進ん
だのだ、時代の先を行く天才とは常に狂人である。そ
の狂人を西欧人は愛する。だから産業革命がおこった
のだと敬作は考えていた。シーボルト先生もそうだっ
た。敬作は恩師を思いうかべた。

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シーボルトも頓狂だからこそわざわざ極東の後進国に
出向きその国を知りたがった。頓狂だからこそ、その
地の住民に蘭学を教えた。西洋世界から見ればシーボ
ルトは未開の地を切り開いた人物であり、その原動力
は頓狂さにあったに違いないと敬作は言うのだ。蔵六
はシーボルトに会った事が無いのでどれほど偉い先生
なのかはわからない。ただ敬作が語るのを聞いている
のみであった。敬作は、一通りシーボルトの話をし終
えて満足したあとに「蔵六どの、尊公に頼みがある」と
切り出した。

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最終更新日  2008.01.09 11:24:55
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