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カテゴリ:その他
敬作が改まって言う頼みとは何か?蔵六は皆目検討が つかないが、嫌な予感だけした。こういう妙な感のよ さを持っている男である。尊公はシーボルトどのを知 っているな、と敬作は切り出した。もちろん蔵六は シーボルトを知っている。この時代の日本において蘭 学を専門として学んでいればシーボルトを知らない者 はいない。敬作は、続ける。シーボルトどのには、ご 息女がいる。シーボルト・イネという娘だ。蔵六は敬 作に言われるまでもなくシーボルト・イネの事は知っ ていた。知っていたという会った事がある。実は蔵六 は岡山でイネに会って以来イネの事が頭から離れない。 「気の迷いだ」と蔵六は自分で思い込み忘れる事にして いた。このあたり蔵六は10代の書生じみた純情さであ る。すでに三十歳を超えているが女性を知らないとい うのも、この石頭を作り出している一因であるだろう。 --------------------------- 「イネを尊公に預けたいのだ」敬作は言った。長崎に帰 っていたイネがもう一度蘭学を勉強するために、この 宇和島藩に来るという事だった。敬作はシーボルトに 頼まれて幼少期のイネを育てたのだが今回は自分で面 倒を見る事は出来ないと考えていた。敬作は酒乱の気 があり酔うと見境無く暴力をふるってしまう所があり 最近は年齢のせいか特にその気が強く自分が酔ってイ ネに万が一にも暴力をふるう事があれば恩師である シーボルトに顔が立たない。という事であった。敬作 は「その点、蔵六どの尊公であればその様な事はない し、年頃の女人にも節度を守れる人格でもある」と理 由をつげた。確かに蔵六には酒乱という欠点はなかっ たし節度を守るという長所もあった。しかしこの時、 蔵六の心臓は坂道を駆け上がった直後のように激しく 脈打っていた。預かるという事は、ひとつ屋根の下で イネと生活するという事に他ならない。 --------------------------- シーボルト・イネの宇和島行きの真相は蔵六の元で蘭 学を学びたかったからであった。イネは岡山で蔵六に 初めて会った。蔵六を知った瞬間にイネは蔵六に対し て崇拝に近い気持ちを抱いていた。理由はイネの生い 立ちに求めると理解しやすい。イネは父シーボルトの 顔を知らない。知っている事は父は蘭学の権威でたく さんの優秀な弟子がいて、弟子たちが蘭学者である シーボルトを非常に尊敬しているという事であった。 弟子たちはイネに高等な蘭学教育をおこなった。イネ も蘭学を学んでいるときには唯一父シーボルトを感じ られた。この幼少期の経験によりイネにとっては蘭学 は父を具現化したものとなっていた。そこへ蔵六が登 場する。イネは何の無駄もなく合理の徒となり蘭学に 没入する蔵六に父を感じたのかもしれない。結果この 蔵六という純粋に蘭学を求道する奇妙な顔をした男に 思慕と尊崇の念をいだくようになっていた。 --------------------------- イネが宇和島に来たのは敬作が蔵六に頼みこんでから 数日後の事だった。敬作につれられてイネは蔵六の屋 敷に訪ねて来た。蔵六は一言も発しない。「蔵六先生、 お久しぶりでございます」とイネが形式的な挨拶をし た。蔵六はイネに一室を与えた。敬作の依頼でイネに は毎日2時間蘭学の講義をする事になっていた。昼間 は黒船作りで忙しい蔵六は毎晩ろうそくの灯りを便り にイネに講義をする事になった。 --------------------------- 黒舟を作る。この造船史の異例に挑戦することになっ た蔵六は家老の松根の紹介で人と会う事になっていた。 寡蔵という町人であった。松根は蔵六一人で黒船を作 らせるのは難しいと考え蒸気機関を作れそうな人間を 探していた。しかしそんな人間が都合よく城下町に居 るはずも無く松根はとにかく器用な人間を探した。そ こで白羽の矢が立ったのが何でも屋の寡蔵という町人 であった。寡蔵は生まれつきの手先の器用さを使いど んな物でも修理した。鎧兜や仏壇。この42歳の男は素 朴で質素で器用だが世渡りべたで常に貧乏だった。寡 蔵と会った蔵六は宇和島に来て以来最も大きな感動を した。寡蔵は蒸気機関の話を聞き試作品を作っていた。 細長い箱に車輪が4輪ついていて内部には大小の歯車 が18個使われている。心棒が一本だけ飛び出ていて これを回すと車輪が3回転するという仕組みだった。 蔵六は、柄にも無く顔を真っ赤にして言った。「寡蔵 どの、あなたはもっと評価されるべきだ。でなければ 日本は欧米に追いつけない」蔵六の論理では、技術の ある人間が評価されなければ文明は進歩しないという 事であった。 --------------------------- 船が出来た。蔵六が作った船体に寡蔵が作った蒸気機 関を乗せ船が完成した。「まず8割方動けば良い」蔵六 は、そう考えていた。寡蔵は不安がぬぐいきれない、 自分の作った蒸気機関の馬力が船の大きさに比べて明 らかに小さいのだ。今日は宇和島藩主の宗城様も乗船 なさる。失敗してしまうのではないか、、、。寡蔵は 繊細な手先を持っていて緻密な作業に向いていたが心 もそのように出来ている。表面上、動揺なく見える蔵 六も寡蔵の心配が伝染したのか心中おだやかでは無く なっていたが、「ともかくやってみるしかあるまい」と 試運転を開始した。 --------------------------- 今日の試運転では石炭の変わりに薪を使った。蒸気圧 計が気圧が上がっている事を示し始める。少しづつ船 が動き始めた。宗城は甲板で興奮して「蔵六、動いた ではないか」と叫んだ。「動くのは当たり前です」と蔵 六は言った。これには宗城もさすがにムッとしたが蒸 気船を動かしたという感動が先にたち咎めなかった。 蔵六に言わせれば動くのが当たり前というレベルまで 持っていくのが技術であり科学であると言いたかった のである。 --------------------------- 「3年前、黒船が来て日本中が驚愕した。しかし3年後 のこの宇和島藩で蒸気機関の船が動いている。これが アジアにおける初めての蒸気船である。」宗城は3年前 の黒船来航以来、思いつづけていた目標を達成した感 慨にふけっていた。この蒸気船作りは、莫大な金が掛 かった。宇和島藩では蒸気船開発に関して「お潰し方」 と陰口をする者も多かった。この金食い虫の計画は、 宇和島藩を潰してしまうという意味だ。 --------------------------- 何故、宗城はそこまでの反対を押し切って蒸気船作り を断行したのか。宗城はこのような内容の言葉を口に している。「欧州が今日の様に栄えたのは産業革命が あったからである。その象徴的な成果が蒸気船である。 しかし幕府は鈍い。宇和島藩がまず蒸気船を完成する 事により刺激を与えるのだ。日本が滅びて宇和島藩だ けが生き残る事などはありえないのだ。例え宇和島藩 がなくなろうともやるべきだ」船は動いた。動力の大 きさに問題があったが、それは単に動力を大きく作れ ば良い。「黒船作り」は成功といえた。 --------------------------- この間、蔵六の人生は他者に翻弄されている。敬作の 無理な頼みによりシーボルト・イネを同じ屋根の下に 住まわせている。蔵六はあくまで己を教師という立場 に封じそれ以上に出ようとはしない。蔵六を好いて宇 和島まで来たイネとしてはたまらないが、その関係を 打開するきっかけを作れないでいた。決まった時間に 蔵六はイネの部屋に来て蘭学の講義を2時間行う。敬 作の依頼により毎日きっかり2時間は教えた。しかし イネはそれだけでは物足らず蔵六の部屋に度々訪れて は「蔵六先生、分からない部分があるのですが、、、」 などと言って困らせていた。 --------------------------- この時期、蔵六は多忙であった。黒船作りをやりなが ら軍事関係の書物の翻訳もやり。更にイネの相手もし ていたのである。この男の人生は何故か他者から必要 とされ多忙の内に過ぎていくという性質を持ち、なか なか自分の意志で進むべき道を決められない定めであ った。蔵六は、不思議な気持ちでいた。「蘭学」という 技術によりただの村医者であった自分が宇和島藩の殿 様に必要とされる人間となっている。敬作という最近 の飲み友達も蘭学者で結局の所蘭学がつなげた仲であ る。そして、、これは蔵六にとってめんどうな事だが 住み込みの生徒であるシーボルト・イネも蘭学が引き 付けたものだった。蔵六は自分を蘭学という技術を持 った一個の機械と感じていた。 --------------------------- この頃の蔵六の運命は豪雨が堤防を破るかのように加 速していく。江戸に行く事になる。宇和島藩主宗城が 江戸へ参勤交代に行く、そこに蔵六も同行するように という、という話が上がった。「これを機に宇和島藩 は辞去しよう」蔵六はそう考えていた。蔵六が宇和島 藩で行っていた仕事は、黒船作りと砲台作り、あとは 兵書の翻訳である。黒船と砲台はすでに完成した。あ とは兵書の翻訳であるが、これは江戸でも出来る。翻 訳は江戸にておこない、宇和島藩にはもう戻るまいと 考えていた。幸い江戸には蘭書も数多くある。江戸で 兵書の翻訳塾を開きそれで生活をしようと考えていた。 この宇和島藩での日々により蔵六は兵書の翻訳ではこ の時点で日本国内の第一人者であったし更には日本国 内にはほとんど兵書の翻訳が出来る人間はいなかった。 --------------------------- 蔵六が宇和島藩を辞去したい一番大きな理由は別の場 所にあった。イネの事である。蔵六にとっては、イネ の存在は重かった。蔵六は敬作の依頼どおりに途切れ る事なく毎日2時間イネに蘭学の講義をおこなってい る。しかし、その事によりイネの蔵六への思いはより 大きくなった。受け入れられない蔵六としては、その 思いから逃げ出したい衝動があった。蔵六にしてみれ ば、イネの思いは受け入れられない、敬作から信頼さ れて預かったのだ。それを裏切る事は出来ない。蔵六 は「単純に生きる」という人生哲学を持っている。敬作 の信頼を裏切りイネと結ばれる事は、この自らの哲学 に反する事になる。それは蔵六には出来なかった。 --------------------------- その反面、蔵六は一目会った時からイネに惹かれてい た。父がドイツ人であるこの婦人は異人の面影を持っ ていて、蔵六の目には天女の様に写っていた。イネと 同様、毎日の講義の中で蔵六もイネに対するその思い がより大きく育っていたのである。実はイネの養父と もいえる敬作は、蔵六とイネが結ばれるのを望んでい た感がある。「尊公なら安心して預けられる」と蔵六に 言った言葉は方便の気がある。しかし阿呆がつくほど に不器用な性格の蔵六は、言葉のとおりに受け入れて いた。この場合、蔵六は自らの情念に素直になった方 が余程「単純に生きる」事が出来たとは知らなかった。 --------------------------- 江戸へ行く事を決めた蔵六は敬作にその旨を告げた。 敬作は、この愛想の無い男が余程気に入っていたらし く涙を浮かべながら「尊公は江戸へ、行くべきだ。」あ なたは天下の宝だ、という意味の事を言い涙をこらえ る為に上を向いて黙った。蔵六にしてみれば立身出世 のために江戸に行くわけでもないので説明をしたかっ たが、珍しく感傷的になっていて言葉を用意できなか った。 敬作は最後に言った。「イネを江戸に連れて行ってく れ。」 --------------------------- お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008.01.09 11:25:53
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