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カテゴリ:その他
敬作は最後に「イネを江戸に連れて行ってくれ。」自分 の寿命はいつ尽きるかも知れず蔵六に頼るしかないの だと言う。 蔵六は断ることは出来ず、黙って頷くしかなかった。 しかし旅に婦人は同行できないとだけ何とか言えた。 それは分かっている。イネには落ち着いた頃に後から 追わせる。と敬作は言った。 こうして敬作に別れを告げた。次はこの事をイネに伝 えねばならない。 --------------------------- 江戸に旅立つ事をイネに伝えねばならない。 蔵六は、イネの部屋を訪ねた。イネ殿、私は江戸へ旅 立つと一息に告げた。そして勢いをつけて参勤交代に 同行する事になり、そのためだと告げた。 イネは呆然としていた。 蔵六との生活が永遠に続くような気がしていた。だか らこそ焦りもせず、この不安定な関係を楽しんでいら れた。それが、この関係が、この様に一方的に無くな ってしまうなど受け入れようがない。イネはそう思っ た。 「蔵六先生」イネは言った。 --------------------------- 私も付いていきます。 イネにそう言われた蔵六は目も合わせずに「あとは敬 作どのに任せてある。失礼する」と慌てて部屋を出て 逃げるようにいなくなった。イネは呆然として追いか ける事も出来ず「敬作どのに任せてある」という返答を 思い返すと、なんて無責任な人なんだろう、という気 持ちがふつふつと湧いてきて腹が立って仕方が無かっ た。 この夜、敬作がイネのもとへ訪ねて来た。 --------------------------- 敬作が言う、蔵六どのについて江戸に行け、学問とい う物はどれだけの人物に師事したかで結果が決まる。 イネ、そなたは蔵六どのについて行くのだ。あの人物 は天下でも稀に見る才能である。決して放してはいけ ない。 蔵六先生は私が付いて行くのはお許しくださるのです か?とイネは敬作に聞いた。私から蔵六どのにはお願 いしてある。大丈夫だ。と敬作は言った。 この時の敬作の心境は、おそらく娘を嫁に出す父親の ようなものだろう。この感情家の男は、涙をこらえて イネにたいして最後に言うのである。「私はそなたが 蔵六どのと出来れば結ばれて欲しいと思っている。」 --------------------------- 「イネを貰ってくれ」 敬作のこのあたりの気持ちを蔵六は阿呆のつくほどの 鈍感さで気が付かない。 イネの養父である敬作は蔵六が現れなければイネをい つまでも手元に置いておきたかったに違いない。この 愛情が深すぎる蘭学者は恩師の娘を自分の娘以上に溺 愛し育ててきた。しかし蔵六が現れた。敬作にとって は尊敬してやまない蘭学者であり人格的にも優れてい ると思っていた。そしてイネもどうやら惹かれている ようである。したがって敬作は娘を嫁に出す決心をし たのであった。 さて敬作が高く評価する蔵六の人格とはどういう物な のか触れてみたい。 --------------------------- さて敬作が高く評価する蔵六の人格とはどういう物な のか触れてみたい。 蔵六。 この人物の特徴として非常に禁欲的だったという事が 言える。この時代の日本には禁欲的な思想は少なかっ た。が、蘭学的な思想では禁欲を賛美する匂いがある。 その影響なのか蔵六は非常に禁欲的で、金銭にも興味 を示さなければ、出世して名声を欲するという事もな く権勢欲もない。分かりやすい欲求をおよそ持たない 人格であった。では蔵六は何を求めて生きているのか という事になる。 彼は出来る限り単純明快に生きる事に快感を得る種の 人間のようである。蘭学者は蘭学をする。医者は患者 を治す。農民は農業をする。などのように至極単純に したいという欲求がある。これを言葉にするなら主題 主義者とでも言えば良いのか。 --------------------------- 人間関係までも含めて物事を単純に捉えようとする。 この習性を、蔵六が蘭学に長けた原因とする事も出来 る。 蔵六はこう考えている。科学や技術を何か複雑に考え る人間がいるが、その種の人間には科学や技術は修め られない。真理は常に単純な法則の塊である。 確かに蔵六は蘭学者として、この時代の一流まで昇っ た。 しかし蔵六の間違いはこの真理が人間関係でも絶対だ と信じていた事である。この間違いが今の蔵六を苦し めてもいるし、未来の蔵六の運命さえも決めていくの だが当然蔵六はこの当時、知る由も無い。 --------------------------- 以前触れた事があるが、暑い夏の日に村人同士の他愛 もない挨拶として、「今日は暑いですね」などと言う事 がある。蔵六は夏は暑いものです。などと愛想もなく 答えてしまうのだが、そこにこの人物の内面が現れて いるかもしれない。 蔵六に言わせれば夏は暑いのである。それも今年の暑 さも例年通りで、わざわざ確認する意味もないだろう という事である。 この一事を取ってみても蔵六は人間関係をも数式で割 り切れると思っているようにみえる。 --------------------------- 蔵六は、江戸へ旅立った。 江戸についた蔵六は、宇和島藩主宗城に塾を開く許可 を得た。宗城は開明派の藩主で、宇和島藩の安泰のみ を考えるという気宇の小さな人物ではなく日本全国の 安寧を常に考えるという、殿様には珍しい人物だった。 そのため蔵六の才能を独占しようという気持ちが無く 気持ちよく許可をだした。 少し宗城の話をすると、この後蔵六が幕府に認められ 幕府付きになる。その時も宗城は気持ちよく送り出し 更に今まで通り蔵六には給料を払い続ける事にしてい る。蔵六の才は、天下の才でありこれを援助したいと いう気持ちの現れであった。 --------------------------- 現在の東京都の千代田区麹町。ここで蔵六は鳩居堂と いう蘭学塾を開いた。現在では英国大使館のあたりで ある。この当時江戸では蘭学がにわかに流行しつつあ ったが蘭学者が足りていなかった。教える人間がいな かったのである。 --------------------------- 鳩居堂には、伊藤という塾生がいた。伊藤は丹後田辺 藩から派遣された。藩命で伊藤は砲台と大砲を作らな ければならない。その作り方を教えてくれと蔵六に言 うのである。この時期、幕府の命令により沿岸の藩に 砲台と大砲を作って諸外国の脅威に備えろという命令 が出ていた。田辺藩はそのため、この伊藤という若者 を江戸に派遣していた。 しかし蔵六は「1年や2年でそのような技術は学べる ものではありません」という。 田辺は、それでは私は打ち首になってしまいます。と 悲鳴に似た声で蔵六にすがりついた。 砲台は作れないが打ち首にならない方法ならあります と蔵六は言った。 --------------------------- 以前にもふれたが、品川には徳川幕府が作った台場と 砲台跡がある。この品川台場は江川太郎左衛門という 幕府の学者が作ったものであり、幕府が各藩への模範 にすべしとして通達している。 しかしこの台場は蔵六に言わせれば、「全く無駄なも のです。役に立ちません」という事だった。 諸外国の艦隊に対する防衛が目的である、この台場が なぜまったく役にたたないのか? --------------------------- 諸外国の艦隊に対する防衛が目的である、この台場が なぜまったく役にたたないのか?蔵六が言うにはこう である。 砲台の砲が小さすぎる。これでは台場すれすれまで敵 艦に近づいてもらわなければ砲撃できない。更に艦砲 の射程は年々伸びている。 この台場砲台は戦術的には役に立つのかもしれないが 戦略的に言えば場所も砲台の大きさも役に立たないの である。と蔵六は伊藤に言った。所詮、役に立たない のだ。 --------------------------- 戦略と戦術を分けて考えるという事を蔵六はこの時点 で思考法として持っていた。この戦略と戦術が分類さ れるのは明治30年ごろまで日本では確立されず幕末 のこの時点では蔵六以外には、この域にいたっている 物はいなかった。 蔵六は宇和島藩での兵書の翻訳、黒船の建造、砲台の 作成を通じて同時代の日本では類を見ない軍事上の知 識を手に入れていた。 しかし、品川台場が役立たずであろうとも伊藤には関 係が無い。私は打ち首になってしまいます。という事 実は変わらない。 --------------------------- 蔵六は、言っている意味がわからないのか?とでも言 いたそうに伊藤を見据えながら説明をはじめた。 所詮は急ごしらえの台場では役に立たないのである。 数年もすればその事に幕府も気が付く。その頃には幕 府も組織が変革し台場を作れという命令自体、残って いるかも怪しい。伊藤どの、そなたは竹と縄で台場を 作れば良い。のんびりと数年かけて作業していれば情 勢も変わるだろう。 --------------------------- この時の伊藤は蔵六を神か仏かと感じた。蔵六は、所 詮この方法はペテンである。伊藤どの、明日からそな たには砲台と台場の作り方を教えよう。と最後に言っ た。 この時の蔵六の時勢を見る眼は恐ろしく正確であった。 事実この数年後幕府は瓦解し田辺藩の台場建設はうや むやになってしまったのである。 --------------------------- 蔵六に役立たずと断ぜられた品川台場についてもう少 し触れたい。この品川台場は、たしかに戦略的には役 に立たないものであった。が、ペリー艦隊に対しては 2度目の来航の際に1年前には無かった台場が突如出 現しているという事で、大きな衝撃を与えた。これに よりペリーは、日本の底力を感じ他の植民地と同じ様 にはいかないだろうと思った。この事がペリーの対日 本戦略には少なからず影響を及ぼしたようだ。 戦略的には意味の無かった品川台場だったが政略的に は意味があったと考える事ができる。 --------------------------- この当時、蘭学の世界は狭い。鳩居堂で生徒に指導し ている間に蔵六の蘭学の腕は江戸のその手の筋では相 当有名になっていた。オランダ語の翻訳で言えば鳩居 堂の先生が一番かもしれない。そんな噂だった。この 時期江戸で有名な蘭学者といえば佐久間象山がいたが 象山の場合は、オランダ語の理解力は蔵六に比べるべ くもなく、たいしたことはない。象山の場合は生来の 聡明さで内容を察する。これは人に教えられるもので はなく、教えるとしても象山と同じ類の天才に対して のみ有効であった。この点蔵六は違っている。これは 適塾でしっかりと学問として学んだという事が大きく 影響しているのであろう。そこに独学の象山との違い がある。 --------------------------- お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008.01.09 11:26:20
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