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カテゴリ:絵画.・アート
一体に、まったく別個の美術品と思われていたものが、実は対をなすものであったというのは、今回の北斎の「龍図」「虎図」の双幅をまつまでもなく、過去にも幾多の例が挙げられている。それは、日本画、とくに障壁図が、対をなすことを念頭において作成される絵画であるということによる。 先日開催されたプライス・コレクションにおいても、数々の屏風図が、その本来の姿である一双を広げて展示され、多くの感動を呼んでいた。 この先例として、鮮やかにわたしの記憶に残っているものとして、「泰西王侯騎馬図屏風」がある。これは、桃山時代に伝来した南蛮文化の影響下、キリシタン大名として名高い蒲生氏郷が日本の絵師に命じて描かせたもので、長らく会津若松の鶴が城の障壁画として飾られていたものが、ひとつは戊辰の役の際流出し、個人の手を経て、神戸市立博物館に所蔵され、もうひとつは会津藩主であった松平氏の所蔵のものが同じく個人の手を経て、サントリー美術館蔵となったものである。 http://www.general-museum.fks.ed.jp/news/bijutsu_koza/bijutsu_04.html http://www.suntory.co.jp/sma/jp/collections/2.html(サントリー:静) http://www.city.kobe.jp/cityoffice/57/museum/meihin/041.html(神戸市立博物館:動)
この2枚の屏風図が、対をなすものであることが判明し、一双として観覧されたのが、1985年(昭和60年)1月~2月に、赤坂のサントリー美術館で開催された「二つの泰西王侯騎馬図」展であった。二枚の絵を並べてみると、一方は「静」、もう一方は「動」を表し、いずれもみごとなできばえで、双方がお互いを引き立てあうのが見て取れる。 余談ではあるが、映画「梟の城」で、秀吉の寝所を飾る障壁画にこの絵が使われていたように記憶している。(ちらっと垣間見ただけであるので、確証はもてないのだが。) 長い年月をかけて、寄り添うことのできた画は、自らの運命の数奇をどう思っているのだろうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007.01.06 12:02:54
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