|
カテゴリ:音楽
コンサートイマジンから、3月2日のハイドシェックのリサイタルの予約ができたとの連絡が来て、同封されていたパンフレットに、長野隆人さんという方が神奈川県民ホールでのハイドシェックを書いていたので、わたしもこのコンサートに居合わせたので、とても懐かしかった。 実際、このときのハイドシェックは、最初から共演の神奈川フィルとの相性がしっくりいかず、演奏もいまいちの感があった。実際、オーケストラの気持ちとしては、自分たちのコンサートの客演に高名なピアニストが来るくらいの意識しかなかったのではないかと思われる出来で、音も雑念が入ってしまっているかのような出来であった。 ハイドシェックは、客演分のモーツァルト「ピアノ協奏曲第21番」を演奏し終えると、さッと燕尾服の裾を翻す勢いで舞台の袖に引っ込んでしまい、満場の拍手にも姿を見せない。あまりに姿を見せないため、オーケストラの指揮者が袖に入っていって、ハイドシェックを連れてきたのだが、これが、燕尾服ではなく、シャツとズボンという平服に着替えた姿だった。(長野氏は、先の文章で、「甚平姿」といったが、これは正しくない。公演直後にこの感想を述べ合ったBBSでも、「シャツのボタンが掛け違っていた」とのコメントがあった。)彼は一目散に会場を後にしたかったのだ。 彼は、アンコールを求める聴衆の拍手にも、恥ずかしそうにモジモジしている。指揮者に慫慂されて、やっと意を決したように、平服で十八番のヘンデルのアダージョを弾き、それがすばらしかったのは、長野氏の文章のとおりである。が、やはり演奏の出来が良くなかったことが彼のそれ以上のアンコールに応えることはなく終わってしまった公演となった。 思うに、その後のプログラムは、神奈川フィルの演奏会となってしまっており、ハイドシェックとの共演に対する意識が、通常のピアニストと同じレヴェルでしか考えられていなかったのではないのだろうか。しかし、相手は、一公演で、チューニングしたヤマハのコンサートピアノをガタガタにしてしまう弾き手なのである。全身全霊をかけて迎えるべきマエストロなのである。 それが証拠に、翌週のかつしかシンフォニーヒルズでの新日本フィルとのコンサートは、モーツァルトの12番と14番というあまり知られることのない曲であったが、オーケストラもこのための準備をおこたりなく勤めたとみえ、忘れがたい名演であった。馥郁とした香気に溢れた、幸せ感いっぱいのモーツァルトであった。 試されているのは己の技量であることを肝に銘ずべきなのである。藝術には魔がすんでいるのだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
|