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Aug 6, 2020
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テーマ:戦争反対(1190)
カテゴリ:伝えていくこと
あまりにもご無沙汰過ぎて、ここでお友達になって下さっていた方々にも長らくすみません(-_-;)
お蔭様で元気に過ごしています。
もはや自分でつくったトップページさえ触る機能までなくなってしまってます(何年か前にそれらしきリマインドがきてましたわね)が、ちょこっと絵文字や脚色を入れられる機能が健在しているのはいいですねウィンク手書きハートホッとします。

こちらは育児日記としてサンバくんにプレゼントするつもりで勝手に始めて勝手に封印しておりました。
が、やはり今日は大事な日だと思い、このタイトルで久々の投稿です。

SNS、ブログ等は他でいろいろやっているのと毎年相変わらずこの時期は超多忙なので、これは彼へのプレゼント追加編ということで、勝手ながらまたしばらくは投稿なしだと思います・・・🙇


四つ葉四つ葉四つ葉四つ葉四つ葉

被爆75年、広島の声再来、母から伝え聞く話 (2006年8月6日の日記)再掲+母と自分の今

テーマ:戦争反対テーマ
カテゴリ:伝えていくこと

今日で広島原爆投下から61年。
小さい頃から両親から伝え聞いた戦争の話を、いずれ息子にも伝えるために―
今日は母が伝えてくれたことをここに記録しておきます。

昭和一桁生まれの母の故郷は広島です。といっても広島市内からは車で2時間はかかるような場所に生まれ育ちました。

戦時中、広島市の爆心地からさほど遠くない場所には、祖父の兄夫婦、私にとって大叔父夫婦が住んでいました。

原爆投下の朝、大叔父は朝の一仕事を終えて縁側に出たところで、空が猛烈に光ったのがみえたので、咄嗟に「危ない!」と大叔母に声を掛けて食卓の下に潜り込んだといいます。

何が起きたのか分からず、とにかく何事かが過ぎたと思って食卓から這い出してみると、恐らく台所の火を止めに走って行った大叔母さんは食器棚の下に挟まれて身動きできず息が絶え絶え(か、即死か、大叔父自身語りたくない部分だったようで不明)であり、
火が迫ってきていたので「堪えてくれよ」と手を合わせて家を後にしたのだといいます。

大叔父が実際に、その一瞬でどれほど負傷していたのかも定かではありませんが、とにかく火の手から逃げるための両足はどうにか無事でした。
しかし、逃げていく間にも、火の手が一旦消え去ったと思うとまたどこからともなく火が走ってきて、近くの川の水中に身体を埋めては熱さから逃れて命からがら市内を脱出したようです。

一方で、祖父は兄夫婦がともかくどうなっているのか心配だったので、三日後くらいにどうにか運行していた区間の電車と徒歩をつないで市内に入って探しに行ったといいます。
祖父が何も見つけられずに帰宅して、原爆投下から一週間ほど経ったある晩に、大叔父が母たちの家まで自力で辿り着きました。

まさか大叔父が生きていたとは夢にも思っていなかったので、家族皆本当に驚き、それからは祖母が傷口(主に火傷だったようですが―)の手当てをしました。

数日は母の一番下の弟を抱っこしたり遊び相手になったりしたといいますが、間もなく髪を梳いたら抜け落ちていくようになり、やがて身体の汗腺からか?あちこちから血のような膿のようなものが噴出してきて、拭っても拭っても治まらなかったといいます。

一体これはナンだろう?

と皆が思っている間に、8月20日過ぎに大叔父は帰らぬ人となったそうです。

日毎にナニモノかに蝕まれていき、身体の変調も著しく、恐らく相当な痛みも伴って気が狂いそうな状況下で、大叔父は死期を悟って最期まで毅然としていたといいます。

玉音放送を耳にしたときも、これはかなり聞きづらかったと父母共に言っていますが、既に聴力まで弱っていた大叔父は、それでも戦争が終わったことを即座に聞き取ったようだったといいます。


その後61年が過ぎる中で、祖母は昭和20年代前半に若くして亡くなり、後に残されて今でいう被爆者健康手帳を手にした祖父は94歳まで現役の書家活動を続けて天寿を全うしました。長く生きただけに辛い人間関係も経験したようですが…。
それが宿命?

人には宿命というものがあるのかも知れませんが、今でも尚、世界では戦争・紛争が続く中で、必ず大量の犠牲者を出し、その犠牲者として巻き込まれることが宿命だ、とは、到底理解できません。
そうした思いはあっても、この瞬間にも逃げ惑う人が世の中にいる…

地の底から突き上げるような60余年前の戦争犠牲者の魂の声を聞いて、世界平和につなげるにはどうしたら―?

答えはまだ見つかりそうにありません

ただただ、今はせめて息子に伝える役目を引き受けること。



その後、14年が経過しています。

私が知る限りの広島出身の母の日常には、今年米寿を迎える年齢でもなおピアノ講師として教室を運営しながら、かねてからの日課である神仏へのおつとめに、短歌人としての歌詠みに、そして数年前からの色々な方々への呼びかけで折鶴を折り集める行為に(今年も広島と長崎に千羽鶴を送らせていただきそれぞれ先方より御礼のお手紙を頂戴しています)と、気づくだけでもこれらを挙げられます。

今日は初めてリアルタイムで平和祈念式典の放送を視聴しました。

唯一の被爆国民としてもっともっと声を上げていくことがあると思う中で、14年前と変わらず揺るがない想いとしてあるのは、ひとりひとりが伝える役目を引き受ける立場にいるということ。

自分自身、未だに僅かな営みですが、当時は親子サークルを通じて、現在は親子レッスンを通じて、平和への思いを込めて地道な次世代育成支援活動を行っています(今週と来週のテーマは二週連続「平和と公正をすべの人に」)。






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Last updated  Aug 6, 2020 10:05:22 AM
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