テーマ:今日のお出かけ ~(8129)
カテゴリ:新潟観光日記(社寺仏閣編)
長岡の悠久山公園に行ってまいりました
悠久山公園は長岡開府300年を記念して市民の有志によって作られた公園です 園内には国指定有形文化財の蒼紫神社があります 昨年映画化された「明治浪漫譚 るろうに剣心」の江戸城御庭番衆「四乃森蒼紫」はこの蒼紫神社から撮った名前ですね。 この映画の原作者、和月伸宏が新潟出身でこの漫画の登場人物の多くは新潟の地名から取られていますね、 明神弥彦→弥彦神社・巻町操→巻町(現新潟市)・三条燕→三条市&燕市・柏崎念至→柏崎市とまあこんな感じ・・・ ハッハッハ、私のブロ友さんは平均年齢高めだからこんな漫画を原作にした映画きっと見ない、知らない人がほとんどだったりして・・・ 御祭神は天照大神です。 長岡市は長岡藩の本城があった城下町ですが戊辰戦争で焼失した後、廃城となった長岡城、長岡には当時の遺構を偲ぶものが何も残っていないのですね。 この悠久山公園に僅かな記念碑と資料館があるだけ・・・ 以前戊辰戦争で新潟は会津ほど遺恨を残さなかったと書いたことがありましたが、遺恨は若干ありましてね・・・ ここ長岡では北越戦争の敗戦のきっかけを作った新発田藩の寝返りを恨み、新発田に嫁は嫁がせられないといわれました(今はそんなことはないと思います)、 今日はちょっと時間を遡って戊辰戦争について書いてみたいと思います、 長岡藩は奥羽越列藩同盟の越後国の中核とはいえその石高はわずかに7万4千石、同盟の中核となった会津藩(23万石)、庄内藩(17万石)、仙台藩(62万石)、米沢藩(18万石)、盛岡藩(20万石)といった大藩と比べれば小さな藩です、 小藩ではありますが長岡藩は河井継之助の指揮のもと藩政改革、富国強兵を行っておりその装備は最新式に更新された精鋭であったようです。 当初新政府軍、奥羽列藩同盟軍どちらにも属していなかった長岡藩、 継之助は武装中立、獨立特行 を主張し新政府軍と旧幕府軍の調停を行うことを申し出ましたが、交渉は決裂、以後長岡藩は奥羽列藩同盟に合流、奥羽越列藩同盟が誕生するに至ります。 越後の地は海外からの武器調達が可能な新潟港を有し、同盟軍の武器弾薬の調達はほぼここで行われており重要な武器調達拠点であると同時に阿賀野川の川筋を抑えることにより庄内・会津への重要な防御拠点でもありました。 奥羽越列藩同盟に参加した長岡藩は先に新政府軍が占領していた榎峠を奪回、世にいう北越戦争の幕開けです・・・ 長岡藩は小藩ながら最新装備の精鋭、新潟港を有する立地もあり当時日本に3門しかなかったガトリングガンを2門も装備していたそうです、 長岡藩は新政府軍を大いに手こずらせ、与板藩の助けを借り奇襲によってようやく長岡城を落とすも、再びこれを奪還されます・・・ 新政府軍は一度落とした城を再び敵に奪われる異例の事態に指揮は混乱を極め迷走・・・、 しかしながら数に勝る新政府軍、長岡藩はしだいに劣勢に追い込まれます、この時、新発田藩の裏切りにより上陸した新政府軍によって新潟港が陥落、 日を同じくして長岡城も再び陥落、 奥羽越列藩同盟軍は会津に撤退を余儀なくされます。 この時通ったのが・・・ 現在建設中の国道289号線(現在は点線国道)、三条市から只見に抜ける八十里越・・・ この撤退の途中、負傷した河井継之助が破傷風によって会津を見ることなく亡くなっております・・・、 継之助の辞世の句、「八十里 腰抜け武士の 越す峠」・・・ 越後を守りきることができず会津に落ちる継之助の心情が表れておりますね。 新潟港・長岡城の陥落によって・・・ 戊辰戦争の中でも激戦と言われた北越戦争は新政府軍の勝利で終結、 越後国全土は新政府軍の管理下に置かれることとなります。 戦略上重要な武器調達の拠点であり防衛線としても重要な要衝越後の陥落はその後の戦局に重大な影響を与え、力の差は広がるばかり、戦争は次第に一方的となり掃討戦の様相を呈していきます。 激戦の北越戦争をへて長岡藩の戦死者は会津藩・仙台藩・二本松藩に次ぐ四番目の戦死者数、これは藩の規模を考えれば実に大きな犠牲であったと言えるでしょう、 長岡藩は戊辰戦争の敗北により石高を2万4千石に減らされ、北越戦争で壊滅的被害を受けた上に財政的にも困窮し全国的廃藩置県に先立って廃藩、柏崎県に編入されました。 この蒼紫神社本殿の脇に並ぶ霊廟が・・・ 歴代長岡藩主牧野家の霊廟・・・ しかし、まだ戦力の拮抗していた北越戦争で滅んだ長岡藩はまだよかったのかもしれませんね(実質的廃藩は廃藩置県の1年前)、 その後の会津の悲劇は皆さんもご存じのところ・・・ 戦後処理の問題もあり会津は大きな遺恨を残すこととなります・・・ 戊辰戦争の敗北により会津藩は23万石から3万石にまで減らされてしまいます、 会津藩の石高は23万石ですが実際の内高は40万石を上回っておりました、移封され新たに立てた斗南藩は3万石ですが実際の内高は7千8百石にすぎません、 実にその石高の98%を没収されたのです。 戦死した多くの老若男女の犠牲者たちはその埋葬を禁止され遺体は鳥や獣に食い荒らされて異臭を発する、 遺体はごみのように扱われ被差別部落民によって墓ではなく罪人塚に葬られる・・・ この時の仕打ちが、薩長に対する恨みとなって長い間残ることとなるのですね。 現在でも会津では薩長に対しては言い表しようのないこだわり、毛嫌いが続いているのですね(特に長州ね・・・)長い時間が過ぎ去ったあとで恨みというにはあまりに抽象的ですが・・・ 会津はその後の近代化の波からも完全に取り残され、「もとは逆賊長州の逆恨み、なぜに会津がこのような目にあわねばならないのだ」という心理が自然と刷り込まれているのですね。 これも戦争が生んだ悲劇・・・ これは北越戦争で死んだ河井継之助の碑・・・ こちらは佐久間象山門下の2虎と言われた小林病翁の碑・・・ 長岡駅のあたりにあったという長岡の城、 今はその遺構を垣間見ることはできません 城下町の面影が残るものは ただ城をかたどって作られた資料館のみ・・・ 過去の戦争の歴史など知る由もない光君は・・・ 広い公園でたっぷりと散歩を楽しんだのでした・・・ 今日は戊辰戦争のお話・・・ ではまた・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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