テーマ:お花見散歩(73)
カテゴリ:新潟観光日記(花見編)
さてキャンプのお話も終わり今日から通常の日記となります、
今日は私の実家の菩提寺燕市の「安了寺」の藤の花が咲きましたのでそのお話でも。。。 実家の菩提寺「安了寺」には樹齢350年の白藤の老木がありましてね・・・ 県指定の天然記念物に指定される藤の名所となっています。 現在の我が家の菩提寺は浄土真宗大谷派ですが、私の実家の菩提寺は浄土真宗佛光寺派です。 この白藤は佛光寺の宗紋「佛光寺下り藤」にちなんで植えられたものです。 じつはこの安了寺はもともと大谷派に属する寺だったのですが、安心問題に端を発する宗門紛争の末、他の数十寺とともに数百年前に転派したのですよ、 その時、転派の決意を表明し佛光寺藤にちなんで植えられたのがこの大白藤でして。。。 浄土真宗という宗派は度々こういう宗教紛争を起こしてましてね。。。 古くは本願寺東西分裂から新しくはお東騒動まで、まあいろいろと・・・ 悟りを開いた坊さんが何を俗なことを・・・ と思われるかもしれませんがね。 そもそも浄土真宗の教えでは、 自らが修行し徳を積んで自力で助かろうなんていう奢り高ぶった考えは持たないということになっています。 煩悩にまみれ明日をもしれない非力な人間ごときが自分で助かろうなど無理というもので、 全てを御仏に委ね、ありのままの自分を受け入れそれでも助かりたいと御仏にすがる、、 ただ心から助かりたいと願い手を合わせ「南無阿弥陀仏」を唱え御仏に身を委ねる。 これがただ一つの救いの道であるという教えが浄土真宗の教えです。 死後の法要に初七日とか四十九日とか百箇日とかありますが、これは十王信仰といって、 7日ごとに十王の審判を受け、極楽浄土に往生する、 亡くなったものの徳を高めるために追善供養と言って後に残ったものがその後押しをするというのがこれらの法事の趣旨なのですが、 浄土真宗では亡くなったものは心から助かりたいと願い「南無阿弥陀仏」を唱えれば、どんな悪人でも必ず阿弥陀様が極楽浄土に往生させてくれることになっていますので、 追善供養など必要ありません。 でも最後には「南無阿弥陀仏」を唱える信仰心が必要なんじゃ?と思う人もいるかもしれませんが・・・ 絶対他力という考え方がありましてね、 そもそもその信仰心自体が御仏のお力によって使わされるもので、信仰心を持つこと自体が御仏の力、 往生するために人間にできることなど何もない、ただただ全てが御仏のお力によるものという考えがありましてね・・・ 浄土真宗におけるこれらの法事とは亡きものが我が身をかけて後に残ったものにその絶対の真理を教え導く縁となる物という考え方ですね。 ここまで完璧に人任せ、仏様頼みならもう何も言うことは無いでしょう? そう浄土真宗において極楽往生することなど実に簡単なんですよ、 ただ阿弥陀仏を信じ、全てを委ね、御仏の力にすべてをお任せする、ただそれだけです、 人は生まれながらにして極楽往生することが確定していると言っても過言ではありませんね。 浄土真宗は他の宗派のように「あれをしてはならん」「これをしてはならん」というような戒律が非常に少ない宗派でしてね・・・ そりゃそうですよね、全ては阿弥陀如来様のお力によるもの、 全ては御仏頼みで人間にできることなんて何にもないという考え方なんですから。。。 安了寺は佛光寺派なので宗派紋は下がり藤です。 でもね、そもそも死後の世界なんていう人事の及ばないことを自力で何とかしようと思うこと自体間違えていると思いませんが? 死んだ後のことは仏様が良いように取り計らってくれるから、余計なことは考えずに現世を精一杯生きることだけを考えたらよろしいと思いませんかね・・・ 死んだ後のことは死んだ後に考えたらよろしい、いや、全ては仏様が取り計らってくれるから考える必要などもとから無い。 人の思いの及ばないことをあれこれと思い悩むのは愚かなこととは思いませんでしょうかね。。。 今日は安了寺の大白藤のお話し・・・ 寺なのでちょっと説教くさいお話でした。 ではまた・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[新潟観光日記(花見編)] カテゴリの最新記事
|
|