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カテゴリ:『傭兵たちの挽歌』
Manhattan, New York 1978 Photo by David Young >前回 翌日の昼過ぎ、片山は国内便でニュージャージー州ユーイングのローカル空港に着いた。そこからニューヨークのマンハッタンまでは陸路で約六十マイルだ。 空港のレンタ・カー会社から、目立たぬフォード・フェアモントのセダンを借り、大量の荷物をその車のトランク・ルームに収める。 マーキュリー・ゼーファーと兄弟車であるフェアモントは、ヨーロッパ車や日本車から学んで、コンパクトだが車内は広く、最高速は低いが操縦性はアメ車のセダンのなかでは抜群だ。 Ford Fairmont 4 Door Sedan 片山は空港からすぐ近くの、トラックの往来が激しいインターステーツ九五にフェアモントを乗り入れた。 インターステーツ九五は、別名タバコ・ロードと呼ばれている。タバコ生産地であるため収税が安く、したがって単価も安い南部のヴァージニアのタバコを、収税のために高い北部に密輸するトラックが多いためにつけられた名だ。 インターステーツ九五ハイウェイに入って少し行くとレスト・エリアがあった。 キャリフォーニアでは信号がない高速道路をフリー・ウェイと呼び、信号があるのをハイウェイと呼ぶが、東部では信号があっても無くても高速道をハイウェイと呼ぶ。 フリー・ウェイとはもともと通行料金が要らないという意味で、日本の東名や中央道のように料金をとられる自動車専用道路は、合衆国ではトール・ウェイとかエクスプレス・ウェイとか、さまざまな名称がある。 レスト・エリアのトイレで片山は金髪のカツラを脱ぎ、眼球が痛くなるコンタクト・レンズを外した。紙袋に入れ、車のダッシュ・ボードに仕舞う。 ドーナッツとフライド・チキンとコーヒーの軽食を済ませた片山は、タバコの密輸トラックらしい十数台のコンヴォイが通過したあとを追いかけた。 このあたり東部や南部は、ロッキー山脈越えをする大陸ルートとちがって、道がかなり平坦(へいたん)なので、十八輪トラック(エイティーン・ホイーラー)であっても、ホワイト・オートカーやマーモンやフォードやジェネラル・モーターズなどの、二百五十馬力から三百馬力程度のエンジンを積んだトラクターが多い。大型トラック(ビッグ・リグ)の場合のトラクターは牽引車の意味で、運転台とエンジン部の総称だ。引っぱられる荷台がトレーラーだ。トラクターのエンジン部分が運転席の前に張り出しているのをコンヴェンショナル・タイプと呼び、キャブ・オーヴァー・タイプは日本と同じく運転席の下にエンジンがある。 片山は十八(エイティーン)ホイーラーのコンヴォイの一キロほどあとを走る。パトカーを見張るためのバック・ドアと呼ばれるトラックを抜き、コンヴォイに追いついた。 職業トラックは五十五マイル制限を守っていたのでは商売にならないし、長い登り坂の手前で充分にスピードをつけておかないと、十数段変速のギアをいかに巧みに操作しようと、車体も積荷も重いから、坂道で見る見るスピードが落ち、低いギアを使わねばならぬから燃費を浪費する。平坦地でさえ、大型トラックは一度スピードを落すと、スピードに乗るまでじれったいほど時間がかかる。空荷でさえ三十五トンにも及ぶからだ。 だからトラック軍団はC・B(シチズン・バンド)の無線機でトラッカー・スタングの隠語を駆使し、数キロ先を行くフロント・ドアの見張りトラックやバック・ドアのトラックと連絡を取りながら走っている。 取締まりのアドヴァタイジング(パトカー)や速度検査(ベアー・トラップ)レーダー・覆面パトカー(ラッパー)や警察ヘリコプター(エア・ベアー)に注意しながらトラック軍団は七十五マイル 罰金でもって町の財政を助けたり、取締まりの警官のポケット・マネーにするためにパトカーやレーダーが待ち構えている町の近くでは五十五マイルにスピードを落す。 ハドソン川をはさんでニューヨーク・シティと向かいあうニュージャージー州フォート・リーでトラック軍団と別れた片山は、パリセード公園の近くでマーキュリー・ゼーファーを盗み、荷物をその車に移した。 Ford Mercury Zephyr ゼーファーをフォート・リーの中心部に近いレンタ・カー会社の近くに移しておき、タクシーでパリセード公園まで戻った。 フォード・フェアモントを運転してレンタ・カー会社に行き、その車を返す。 カツラとコンタクト・レンズをつけてから、マーキュリー・ゼーファーを運転し、ハドソン河のワシントン・ブリッジの有料橋を渡り、ハーレム河も渡ってニューヨーク・シティのブロンクスに入る。ニューヨークは、もう寒い冬に入っていた。 ヤンキース・スタジアムのあたりはそれほどでもなかったが、東に行くにしたがって、ゴースト・タウンのようなサウス・ブロンクスの荒廃ぶりが生々しかった。 窓ガラスがすべて破れ、焦げ跡がついたビジネス・ビルや高層アパートのあいだに、爆破されたビルの煉瓦(れんが)やコンクリートの塊りが積もっている。爆発に捲きこまれた自動車の残骸(ざんがい)も放置されていた。 交差点の信号も破壊されているのが多いので、衝突を避けるために車は徐行するが、ほとんどの車は傷だらけであった。ましな車は、プエルトリコ独立運動を支持するステッカーが貼られている。 カリブ海にあるプエルトリコは、十九世紀末の米国とスペインの戦争の結果、米国の領土となり、今は自治領とはいえ米国の属州だ。住民の血には、インディオ系原住民と征服者であったスペイン系の白人、それに奴隷として連れてこられた黒人が混りあっている。 プエルトリコは非常に貧しい国だ。だからプエルトリコ人は米本土に逃げてきて、ブロンクスにかたまったのだ。 特にプエルトリコ独立運動の闘士と連邦警察(エフ・ビー・アイ)のあいだに、放火と爆破を含むテロ合戦が激化し、ブロンクスが廃墟(はいきょ)化をたどりはじめると、プエルトリコの密入国者が、スパニッシュ・ハーレムと呼ばれるほどスペイン語が通じるサウス・ブロンクスに殺到し、空きビルを勝手に使っている。 片山が乗っている車はニュージャージー州ナンバーなので、ほかの他州の車と同様に、交差点で一時停止すると、野球のバットや釘(くぎ)を突きだした棍棒(こんぼう)を持ったチンピラたちがイナゴのように跳びついて小銭をせびる。 片山は用意してあった二十五セント(クオーター)玉を五、六枚ずつばらまいた。あぶれた連中は、片山が車をスタートさせると、トランク・リッドを殴りつける。 歩道では、ドラム罐に廃材やダンボールを突っこんで暖をとっている中南米人が、スペイン語でわめきあっていた。 破壊されずに残っているプエルトリコ人やユダヤ系の商店の並びの前には、素っ裸の上に安物の毛皮コートを羽織った売春婦たちが立ち、露出した肌(はだ)に鳥肌をたてている。革ジャンパーにパンタロンのヒモやポン引きが車にまつわりつく。 片山は赤い軍団が待ち構えている、サウス・ブロンクス・ボストン・ロードの、クラトナ公園に近いジャクスン不動産ビルのまわりを車に乗ったままさり気なく一巡し、次いでジャクソン不動産ビルを偵察するのに好都合の廃墟のビルも捜した。 再びハーレム河を渡り、マンハッタン五番街にある赤い軍団の米国総局コンチネンタル証券会社を観察する。すぐ近くに、ユダヤ博物館があった。 五番街の表通りは一見まとものように見えるが、裏通りにはオカマや売春婦が並び、ポルノ・ショップやファック・ハウスなどが林立している。 片山はニューヨーク・ナンバーのオンボロ・マーキュリー・ゼーファーに盗み替え、荷物を移すと、少し行ってからスーパーマーケットで多量の食料や飲料を買いこんだ。 サウス・ブロンクスに戻る。地図から計算してジャクスン不動産ビルのちょうど真っ正面に位置し、距離が五百ヤード離れている十二階建ての空きビルの中庭の、瓦礫(がれき)だらけの駐車場にマーキュリーを駐(と)める。 その空きビルとジャクスン不動産会社のあいだをさえぎるものは無い。そんな馬鹿なことと思うだろうが、二つのビルのあいだの建物はすべて爆破されて崩壊したか、取り壊し業者の手にかかって整地されたかのどっちかになっているからだ。 片山がマークした空きビルには、緑青(ろくしょう)の錆(さび)が焦げたプレートに、かろうじてジョン・マンソン・アンド・サンズ・メタリック・カンパニーという文字が読みとれる。 片山は壁の防音材や断熱材が焦げ落ちてコンクリートの地肌が剥(む)きだしになったマンソン・アンド・サンズ・ビルの階段を登る。 エレヴェーターは故障している上に、そのビルに通じる電気は切られているから役にたたない。片山は各階ごとに、各部屋を調べながら登っていった。 一度屋上に出てから、十階の一〇二七号室に、燃え残った金属製の机や椅子を運びこみ、ドアの近くに積んで、一人だけがくぐり抜けられるバリケードを築く。その部屋からジャクスン不動産ビルを狙撃するにも好都合だ。 当然ながら窓ガラスは無くなっている。廊下をはさんだ裏側の部屋からは、非常階段が中庭に通じている。 中庭に降りた片山は、二回に分けて荷物を運びあげる。車はディストリビューターのローターを外して、盗もうとする者がいてもエンジンが掛からぬようにした。 一〇二七号室に戻り、ヴァルヴをひねっただけでふくれ上ったり萎(しぼ)んだりするセルフ・インフレーテッド・マットレスをコンクリートの床に敷き、その上に、よく振るってふくらませたスカイライナーのスリーピング・バッグを置く。二つともエディ・バウアーの製品だ。 着けていたリー・ストーム・ライダーのアクリル・ライニング付きのオーヴァーオールの下に、サファリランドM三の防弾チョッキをつける。重量は約二キロ強だ。 デュポン・ライセンスの特殊繊維を十字型に織り、それを三十二枚ゆるく重ねてナイロン・シェルのなかに収めてあるM三の狙いは、着弾のショックを分散させることにある。 防弾繊維のシートを包んでいるシェルの色は白であったが、片山はヒューストンのモーテルのバス・タブを使い、ダイロン・コールドのインスタント染料で地味なオリーヴ・グリーンに染めてあった。 一個約百七十ドルで三つ買ったLサイズのM三防弾チョッキのうち二つは、テストで孔(あな)だらけにしたので捨てていた。 テストでは、口径四十五のG・Iコルト(エー・シー・ピー)実包を五メーターの距離から射っても貫通しなかった。無論、それを着けていて射たれたら、ショックで体が吹っ飛ぶだろうし、筋肉だけでなく骨や内臓にもかなりのダメージを受けるだろうが。 防弾チョッキは近距離から放たれた大口径マグナム・ライフルに対しては無力だ。 片山がヒューストンで試写した八ミリ・レミントン・マグナムの二百二十グレイン弾頭のフル・パワー実包の場合、初速は二千八百フィート強、銃口エネルギーは三千九百フット・ポンドと、初速において拳銃の口径四五ACPの百八十五グレイン弾頭の約三・五倍、エネルギーについては九倍近くあるから、M三防弾チョッキがいかに優秀でも問題にならない。 だが、弾速が千七百フィート強まで落ちる なお、片山が八ミリ・レミントン・マグナム実包を、初速三千フィートを越える百八十五グレイン弾頭のほうを択ばず、マグナム・ライフル実包としては比較的弾速が低い二百二十グレイン弾頭付きのほうを戦闘に使うことにしたのには訳がある。 レミントン製の工場装弾とレミントン製のM七〇〇BDLライフルの組合わせの場合、二百二十グレインの重く長い弾頭のほうが、十インチに一回転する銃腔の時計回りのライフリング・ツウィストに合っているらしく、百八十五グレインのものよりも、着弾のまとまりのグルーピング精度がはるかに良好だということが、試射の結果確認されたからだ。 Remington Model 700 BDL Guns and Ammo.com - 8mm Rem Mag Load Data https://www.gunsandammo.com/.../reloading-the-8mm-remington-mag/250249 片山のライフルは、アキュライズ(チューン・アップ)したから、一M・O・A(ワン・ミニッツ・オブ・アングル)以上の小さなグルーピングが出せるようになっている。外は寒風が吹きすさんでいるが、風を読むことも片山の狙撃能力の一つだから、五百ヤード離れたジャクスン不動産ビルに射ちこんで、目的の人間に二発に一発の割りで命中させることが出来るだろう。 百八十五グレイン弾頭付きよりも二百二十グレインのほうを択んだのには、もう一つの理由がある。 それは、八ミリ・レミン・マグナムの開発目的である遠距離射撃の場合、五百ヤード離れると、二百二十グレインのほうが百八十五グレインよりも、二十三パーセントも破壊エネルギーを多く残すのだ。 その距離では、残速も二百二十グレイン弾のほうが大きい。初速は無論、軽い上に火薬量を多くできる百八十五グレイン弾のほうがはるかに大きいが。 ちなみに、銃口から五百ヤードを飛ぶまでに八ミリ・レミントン・マグナムの二百二十グレイン弾が要する時間は、約〇・七秒だ。 片山は焼けて変色した机と椅子を重ね、その上に乗って、短機関銃やM十六自動ライフルなどを、十階と十一階のあいだの天井裏のスペースに隠す。 試射で使ったあと残っている八百発ほどの八ミリ・レミントン・マグナム実包も、二百発だけ残して天井裏に隠した。 ディストリビューターのローターを持って中庭に再び降り、ローターをはめて車を動かす。二ブロックほど離れた廃墟のビルの地下室にそのマーキュリー・ゼーファーを置き、再びローターを外した。 再びマンソン・アンド・サンズ・ビルの一〇二七号室に戻った片山は、カツラとコンタクト・レンズを再び外し、ヒューストンで買ったボッシュ・アンド・ロームのバルスコープのスポッティング・スコープをフリーランドの二脚に据え、窓の近くに置いた。 倍率を二十五にし、背もたれが壊れて外れた椅子に腰を降ろし、ジャクスン不動産ビルの窓々を観察する。 肉眼なら二十五ヤードの距離で見るのと同じ原理だから、ビルの表側の部屋の連中がよく見えたが、写真で顔を知っているダヴィド・ハイラルも、“コヨーテ”の姿も見えなかった。 片山は小さなプリマスのプロパン・バックパッカー・ストーヴでコーヒーを沸かし、ボロニア・ソーセージのステーキを焼いた。それを腹に詰め込むと、一〇二九号室の壊れたトイレで用を済ます。 一〇二七号室に戻り、スリーピング・バッグのサイド・ジッパーを開いてもぐりこみ、一時間ほど熟睡した。 起きた時には外は薄暗くなっていた。片山がいる部屋は暗い。無論、電灯などつかない。 ジャクスン不動産ビルの灯(あかり)は明るかった。 片山は薬室にも弾倉にも実包を装塡しないまま、窓ぎわから少し離して置いたデスクの残骸(ざんがい)の上にバック・パッカー用の毛布を敷き、そのうしろの椅子に斜め横坐りになった。 八ミリ・レミントン・マグナムを構えた左手の肘(ひじ)を毛布の上に置いたベンチレスト射撃スタイルで、ジャクスン・ビルの一人一人を狙って空射ちし、長いストロークの遊底(ボルト)を操作しては、また空射ちしてみる。 テキサスの牧場で試射した時、片山は伏射と坐射と、車のトランク・リッドをベンチとしたベンチレストでの三つの姿勢で、それぞれの二百、三百、四百と五百ヤードの狙点を摑(つか)み、銃床にナイフで照準ダイヤルの数字を刻みこんであった。 八ミリ・レミントン・マグナムの二百二十グレイン弾頭の工場装弾の場合、二百ヤードで正照準しておいて三百ヤードの目標を狙った時には約二十センチ下に着弾し、四百ヤードでは約六十五センチ下、五百では約一メーター二十五センチ下に着弾する。 片山は今はベンチレストの五百ヤード用にライフル・スコープの照準ダイアルを合わせてあった。 外もすっかり暗くなってから、顔や手に褐色(かっしょく)の染料をすりこんだ片山は、防寒チョッキ替りの防弾チョッキの上から、古着屋で買っておいた色がはげたよれよれの革コートをつけ、ライフルやスポッティング・スコープなどを天井裏に隠し、ビルから出た。銃声とパトカーのヒューン、ヒューンというサイレンの音が聞こえてくる。 (つづく) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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2021年12月26日 10時24分02秒
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