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( テモちゃん唖然とする 2015年12月26日 あきてもさんのブログ より) 真夜中のD.J.耳を傾けていた あの頃それだけが楽しみだった ラジオから流れた 新しい生き方に 素直にうなずいて夢を重ねた (アルバム『アリスX』所収) 夢見の技術を考える 脱獄計画(仮)篇 39 COVID-19「やったか?*」そして “志” を考える 21 * やったか!? (やってない)とは【ピクシブ百科事典】 https://dic.pixiv.net/a/やったか%21%3F 前回更新分でアファメーション、「肯定的な自己暗示」に少し触れたが オウム真理教も妙なアファメーションを使用していたことを思い出した。 当たり前だがアフォメーションでは「解脱」できない。 修行をやってるフリ(ポーズ)ぐらいはできるだろう。 オウム真理教の結末は周知の通り、 無差別テロ事件を起こしたカルト集団として世界的にも有名になってしまった。 元来「オーム」は聖音とされるが一連のオウム事件によって 偏見が生まれたのは言うまでもない。 現在の COVID-19禍におけるスピリチュアル・ムーブメントは ネット配信によって在宅や外出時でも啓蒙が可能ということである。 わざわざ宗教施設やセミナーに赴かなくても 日常の中で手軽なスナック感覚並で説法を「無料」で受信できるわけだ。 救いや「なぐさめ」を求めるという点において、 インチキなオウム真理教の高額お布施信者と、 スピリチュアル・ムーブの無料ユーザーとの距離は濃淡の違いはあれ、 それほど遠くはないのである。 先日の Youtube 茶屋町怪談で放送された 「沖縄で霊能者ユタになった経緯を聞いた話」 https://www.youtube.com/watch?v=7jHqyZfqQ4A の中に出てくる 〝神人(カミンチュ)〟と名乗るお婆さんの話は非常に興味深かった。 そりゃ本物は表に出てこないさー、まくとぅそーけ、なんくるないさー。 泉朝樹 著『見える子ちゃん』第4巻 本物の霊能者のみならず、 一般人もあらかじめ応報というものを考えてまともな行動するほうがよい。 ナポレオンヒルの成功法則も、ヒックスのエイブラハム引き寄せ術も、 強引なセールスやマルチ商法や〝インチキ宇宙イタコ〟ビジネスの罪悪感 ・・・・・・良心の呵責〔かしゃく〕を誤魔化し〝デトックス(排出)〟して、 よい気分に切り替えるために構築されたものであった。 〝インチキ宇宙イタコ〟は 〝ぼくのかんがえたさいきょうの高次元意思〟みたいなものか。 『バガヴァッド・ギーター』の編纂者は、 古代の阿修羅(アスラ)的な人々の行いをつぶさに観察していたのだ。 現代は成果主義の傾向が強いので結果最優先で行為をしてきた。 そして日本がどうなってしまったかは周囲をよく見渡せばわかる。 それでもイメージングやアファメーションを信じて疑わない人びとは減らないだろう。 長年にわたる市場調査やユーザーの意見・要望を汲み取ることによって、 ありとあらゆる人びとの需要を網羅しているからである。 なんども書いたが当ブログでは未来の自分を思い描く方法を忌避しよう。 「明後日、そんな先のことはわからない」 このフレーズは実に的を得ているのである。 マルティン・ブーバーは『我と汝』で以下のように書いている。 〝(前略) 現代の生物学思想や歴史主義思想は、彼ら自体いろいろな見方があるにせよ、宿命について今までにない過酷な信念をいずれもつくり出している。今日では業の力も、星辰の力ももはや人間の運命を不可避的に支配するものではなくなった。むろん、いろいろの力が支配権を主張してはいる。しかし、よく見ると、多くの現代人は、ちょうど帝政末期のローマ人が混合した神々を信じたように、いろいろの力の混合を信じているのである。このことはそれぞれの力が主張するその要求の性質によって明らかになる。生存競争に参加するかそれとも生活を放棄するかという優勝劣敗の〈進化の法則〉であろうと、あるいは、人間固有の適応の本能から心理的人間を完全につくり上げる〈心理法則〉であろうと、あるいは、人間の意志や意識はたんなる付属物にすぎず、社会進歩の過程は個人より優位を占めるという〈社会法則〉であろうと、あるいはまた、歴史的諸形体の生成と消滅は、いずれも変更しがたく一様に法則性があると唱える〈文化法則〉であろうと、その他なお多数の形体があるにせよ、いずれにしても、人間は現象の法則からはのがれられず、気ちがいにならないかぎりそれに抵抗できないということを、つねに主張しているのである。密儀の潔めが星辰の宿命から人間を解放し、犠牲についてのブラーフマンの正しい教えによって業の強制から自由になった。両者の場合には、救いが存在していた。しかるに、混合した偶像崇拝は解放への信念を認めないのである。自由を想像することすら、愚かしいと考える。この場合、自分を納得させて奴隷となるか、なんの考えももたずに絶望的な気持で奴隷となるか、この二つしか選択の余地はない。目的論的発展とか、有機的生成とか、すべての法則を、どのようにいいあらわそうとしても、すべては無制限な因果律を根底に置いているとみなすべき必然的過程の狂乱があるだけである。事物はしだいに必然的過程をたどるという教えは、増大する〈それ〉の世界にたいする人間の屈従を意味する。運命はこのように考えるひとによって誤って使用されている。運命とは人間の世界をおおっている鐘ではない。自由の行為によらなければ、だれも運命に出合うことはないのである。事物が必然的過程をたどるという教えは、自由の存在する余地をのこさないし、また世界の顔をまったく一変させる力をもつ静かな〈転換〉の真実の〈啓示〉を受け入れる余地も残していない。さらにこの教えは、転換によって一切の闘争を克服する人間の存在を認めないし、またこの転換によって利用の衝動の網を引きちぎり、階級の圧迫から自己を解放し、しかもこの転換によって歴史の構造を沸騰させ、若返らせ、変様させてしまう人間のあることを知らない。この必然的過程の教えは、将棋のゲームにあたってルールを守ってゆくか、それともゲームをやめるか、いずれかをあなたに選択させるだけである。これに比べ、転換を行うひとは、将棋盤をひっくり返し、駒をめちゃくちゃにしてしまう。この必然的過程の教えは生活に必然的な制約を強制しながらも、精神にまだ〈自由が残っている〉と思わせようとしている。しかし転換を行うひとは、このような誤れる自由を、もっとも恥ずべき奴隷的なこととして軽蔑するのである。 人間にとって宿命となり得る致命的なことは、宿命を信ずることである。このために転換の運動を人間は押さえつけてしまう。 宿命の信仰ははじめからまったく迷信である。事物は必然的過程をたどるという考え方はすべて、孤立してしまったこの世界の出来事や対象化されてしまったものとか、まさに生起してしまったものなどをさも歴史ででもあるかのように、整理分類してみたにすぎない。しかるに、〈なんじ〉の現存、〈なんじ〉との結合から生まれる生成は、これらとはまったく無関係である。宿命への信仰は、精神の実在を知らず、彼らの図式は〈なんじ〉の精神には妥当しない。対象的なものにもとづいておこなう予言は、〈なんじ〉の現存を知らないひとにのみあてはまる。〈それ〉の世界に打ち負かされたひとにとっては、変更できないこの必然というドグマこそ増大しもつれる現象を解明する真理と思うかもしれない。だが真理にしたがえば、ますます〈それ〉の世界に隷属してしまうのである。しかるに、〈なんじ〉の世界は閉ざされた世界ではない。全存在の集中にめざめ、よみがえった関係の力でもって〈なんじ〉の世界へと出てゆくひとは、深く自由を悟るであろう。自由は存在せずという信仰を放棄することこそ、自由となることを意味する。 (後略)〟 (植田重雄 訳 岩波文庫 マルティン・ブーバー『我と汝』p.71 ~ 74 ) 〝The quasi-biological and quasi-historical thought of to-day, however different the aims of each, have worked together to establish a more tenaciom and oppressive belief in fate than ever before existed. The might of karma or of the stars no longer controls inevitably the lot of man ; many powers claim the mastery, but rightly considered most of our contemporaries believe in a mixture of them, just as the late Romans believed in a mixture of gods. This is made easier by the nature oftheclaim. Whether it is the“law of life" of a universal struggle in which all mmt take part or re nounce life, or the “ law of the soul ” which completely builds up the psychical person from innate habitual instincts, or the “ social law” of an irresistible social process to which and consciomness may only be accompaniments, or the “ cultural law ” of an un changeably uniform coming and going of historical structures—whatever form it takes, it always means that man is set in the frame of an inescapable happening that he cannot, or can only in his frenzy, resist. Con secration in the mysteries brought freedom from the compulsion of the stars, and brahman-sacrifice with its accompanying knowledge brought freedom from the compulsion of karma : in both salvation was repre sented. But the composite god tolerates no belief in release. It is considered foliy to imagine any freedom; there is only a choice, between resolute, and hopeleæ rebeUious, slavery. And no matter how much is said, in all these laws, of teleological development and organic growth, at the basis of them all lies po^^mon by process, that is by raunlimiited causality. The dogma of gradual proceæ is the abdication of before the exuberant world of It. He misuses the name of destiny : destiny is not a dome pressed tightly down on the world of men ; no one meets it but he who went out from freedom. But the dogma of proces leaves no room for freedom, none for its most real revelation of all, whose calm strength changes the face of the earth—reversal. This dogma does not know the man who through reversal surmounts the universal struggle, tears to pieces the web of habitual raises the class ban, and etirs, rejuvenates, and transforms the stable structures of history. This dogma allows you in its game only the choice to observe the mIes or to retire : but the man who is realising reversal over throws the pieces. The dogma is always to allow you to fulfil its limitation with your life and “ to remain free ” in your soul ; but the man who is realising reversal looks on this freedom as the most ignominious bondage. The only thing that can become fate for-a man is belief in fate ; for this suppresses the movement of reversal. Belief in fate is mistaken from the beginning. A l consideration in terms of process is merely an ordering of pure “ having become ”, of the separated world-event, of objectivity as though it were history ;the presence of the Thou, the becoming out of solid connexion, is inaccessible to it. It does not know the reality of spirit ; its scheme is not valid for spirit. Prediction from objectivity is valid only for the man who does not know presentness. He who is over come by the world of It is bound to see, in the dogma of immutable process, a truth that clears a way through the exuberant growth ; in very truth this dogma en- daves him only the more deeply-to the world of It. But the world of T'hou, is not closed. He who goes out to it with concentrated being and risen power to enter into relation becomes aware of freedom. And to be freed from belief that there is no freedom is indeed to be free. 〟 (Martin Buber I AND THOU Translated By Ronald Gregor Smith ) 上掲の霊能者の宿命についてはまったくわからないが、 一般人が飛びつく成功法則は「この〝行為〟をすれば〝結果〟が出る」、 「〝結果〟を出すためにこの〝行為〟をする」という因果律を示すものである。 だからこそ、せっせと願望をノート(紙)に書き出したり、 セミナー講師に言われるまま作業を行なったりするのだろう。 しかし、「〝行為〟をしても〝結果〟が出ない」場合、 法則性や因果律の〝術式〟が壊れているか、全部デタラメであるとも考えられる。 その点において、自己啓発術のデータは長年蓄積されているから、 「結果を出せないのはこんな人!」「結果を出せない場合の対処法はコレ!」 などというアプローチに話題を変えて個々人の責任へと転嫁してしまう。 果たしてこれが〝自由〟か、というとまったく〝自由〟ではなくて 自己啓発というジャンルの檻〔おり〕・制限以外の何物でもないのだ。 〝自由の行為によらなければ、だれも運命に出合うことはないのである。 No one meets destiny but he who went out from freedom. 〟 もし巷で流行している成功法則が本物で、大勢の信奉者たちが成功を遂げるなら 〝豊かさ(?)〟の影響が日本全国に波及するであろう・・・・・・(多分)。 それとも親ネズミ(指導者)様が有料コンテンツで利益を掠め取り、 富裕層の仲間入りを果たせば大満足と考えるのか。 成功法則の手並みとやらを見せてもらおうと思う。 (つづく)
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2022年01月06日 00時07分24秒
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