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テーマ:たわごと(26866)
カテゴリ:木曜日:セラピストになりたいの
先週末、待ちに待ったセミナーを受講する事ができました。 これは、前回2月に阿吽真言先生のセミナーを初めて受けて以来、2ヶ月ぶり。 最初の講座を受けてから、自分がどんどん変化していくのが手に取るように分かるようになりました。 というよりも、その前の自分がどんな風だったか?が分からなくなってきたような気がします。 ですから、何がどんな風に?と問われても困るのですが、ただひたすらに自分本来に立ち戻れている感じとでもいいましょうか? 目の前に現れる事象、心の中に起きる心象、全ての事が楽しさと幸せに輝いている感じで捉えられるのです。 きっと、子供の心?純粋な心?に立ち戻って来ているのかもしれません。 今までは、無理していろいろと鎧兜で完全武装し、こうあるべき!こうするべき!と肩肘張ってガチガチでいたものが、薄皮を剥ぐようにすこーしずつすこーしずつ剥がれていって、今まで箱入り娘だった魂ちゃんの部分に光が射すようになったのかもしれないですね。 『魂ちゃん』も、「苦節○十年・・・、ようやくここまで・・・・。」と喜んでいることでしょう。 そんなワクワク感で過ごす中、4月のセミナーを受ける前日に見つけた本を読んでいて、ちょうど今の心境にぴーったり!という箇所を見つけました。 本は・・・・。 「和」好きな私には魅力的な表紙。 はてさて、どんなことかしら?そう思いながら読み進むうちに・・・・、本から与えられた、今日のプレゼント。 それは「初心」とは?という文章。 あの観阿弥・世阿弥親子が残した、「初心忘れるべからず」の初心です。 以下本文から・・・。 初心の初という漢字は、衣偏と刀から出来ています。「衣を刀(鋏)で裁つ」、それが「初」という漢字のもとの意味です。すなわち「初」とは、まっさらな生地である布に、はじめて「刀」を入れる事を示す漢字なのです。 この初を使った言葉に「初恋」という語があります。「初恋」は、現在では最初の恋という意味に使われていますが、昔は違います。誰かを好きになり始めるとドキドキします。そのドキドキ感、これが「初恋」です。 ~中略~ 何かを始めるときには、ドキドキ楽しい気持ちとともに、「うまくいかなかったらどうしよう」、「失敗したら笑われる」、あるいは「何が起こるかわからない」という不安や恐怖心もあります。その怖さに、新たな世界に足を踏み入れるのを逡巡してしまいます。そんなとき、不安や怖さを抱えながらも、まっさらな布に鋏を入れるように、新たな世界に「えいっ」と飛び込む、そんな勇気ある気持ちが「初心」です。 現在「初心忘れるべからず」は、それを始めたときの初々しい気持ちを忘れてはいけない、という意味で使われています。しかし、世阿弥は「時々の初心」という言葉を使いました。その時々に初心があるというのです。が、初恋が何度もあるように、この初々しい「初心」も、何かを始めた最初の気持ちだけでなく、折あるごとに古い自分を断ち切って、新たな自分をして生まれ変わる「初心」が要求されます。 身体の細胞は一刻一刻、死と再生を繰り返し、それにつれて私達自身も刻々と変化しています。木も水も風もみんな変化しています。私達も万物と共に変化しているのです。 ~中略~ 今こそ古い自己イメージをばっさり断ち切り、新たなステージ上がり、そして新しい本当の自分に立ち帰る時なのです。世阿弥は「老後の初心」などとも言っています。 でもこれは厳しい。 初心とは、自分を断ち切るわけですから、それには痛みが伴います。 今までの価値観が崩れ去り、これまで築き上げてきた地位がなくなり、ひょっとすると友人や財産まで失うかもしれない。今までの自分がガラガラと崩壊して行くのを感じる。「魂の危機」を感じるかもしれない。 しかしそんな「危機」こそまさに「危険なチャンス(機会)」なのです。危機を避けていては成長はありません。自ら進んで危機を受け容れてこそ成長があります。そしえ、それを要求として突き付けるのが「初心」なのです。 (疲れない体を作る「和」の身体作法 安田登著より) まさに、勘違いから入った「初心忘れるべからず」ですが、知ったからには世阿弥の心をしっかり受け止めたい。 古い私はどんどん瓦解していって、新しい自分を構築する。 何事も、「飽和」→「崩壊」→「再生(新生)」なんだなぁと心の奥で感じられるようになったこの頃・・・、まさに今までの私は飽和状態になり瓦解していって、新しい私に生まれ変わる所なのかもしれません。 良いお導きの末に、良い出逢いがあり、良い自分に進んでいく。 「時々の初心」を忘れずに、「老後の初心」までゆっくりゆっくり突っ走ろう! いつも「初心」ですか?
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