初めの一歩
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素敵な人って笑顔が綺麗内側から光りがあふれるようなそこだけほうっと白く輝くようなそんな笑顔。声のトーンもちょっとだけ高くて鈴を転がすような,,,,そんな例えが当てはまる声。仕草も柔らかく物腰も優しくそこにいるだけでhappyがたくさん寄ってくるようなそんな人。私もそんな人になって私の周りにいる方にほんのちょっとだけ幸せのお福分けしたいなぁ。
2018.02.22
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生きていれば、毎日毎日たくさんの事が目の前にやって来ます。今現在の私は、昨日の今頃の私とは少しだけ何かが違うはず。今日私に訪れてくれた小さな出来事の欠片が、ちょっとだけ変化して見せてくれている。他の誰にもわからないくらい小さな小さな変化だけど、昨日とは心持ちが変化した私にだけはちゃーんと分かる変化だよ。さぁ、明日の今頃はどんな新しい芽吹きがあるかな?新しい朝、新しい明日。当たり前の1日がとっても楽しみです。
2018.02.21
今日からこちらのほうは寒波に襲われるそうで、昨日で『秋』は終了、今日から『冬』になりそうです。こんな日は、やっぱり温かいものが欲しくなります。昨日『実家でのお手伝い』で母のお役に立つことができたあと、幼稚園の帰りにスーパーに寄って、鶏がらスープを作るべく材料を購入してきました。我が家の晩御飯は、軽い食事。具沢山のお汁物と、お野菜がメインのおかずが1~2品、これにご飯という組み合わせ。今日は、昨日から煮込んでおいた鶏がらスープを使って、葉物野菜や根菜やきのこ類を入れたあったか鍋です。体がヌクヌクになると、心もあったかになるから・・・・。冷え切った体からアクセスして、疲れた心もいたわってあげましょう。こんな小さなことで、何だかとっても幸せを感じる・・・・。『そんな喜びもありだよね』と思いつつ過ごしています。そういえば、いつもよく行く乾物屋さんの空豆さんでオーナーのFさんと話すこと。『お金があるのは、幸せかもしれない。でも、自分のやりたい事をやるために必要なだけで良いんだよね。ブランド物が欲しいとか、外車に乗りたいとか、有名人になりたいとか・・・、いろんな欲望がこの地球に渦巻いているけれど、最近そのどれにも魅力を感じないの。それよりも、「素敵な人」と出会うとか、「心通わせる時間」を持てるとか、「心が豊かになる物」を手に入れるとか・・・・、そんな欲求を満たすことに魅力を感じるのよね・・・。まぁ、欲求というものは十人十色だろうけれど・・・。』そう、私は私の夢をかなえることには貪欲だけど、最近はそれ以外にはあまり心が動かなくなってきた。それよりも・・・・。お友達が撮って下さった、娘の幼稚園の運動会のスナップ写真とか・・・・。毎日会う某スーパーの警備のお兄さんとの朝の挨拶とか・・・・。そのお兄さんが娘に書いてくださった、絵本形式のお手紙とか・・・・。ちょっとだけナーバスになっていた私を心配して、お電話を下さったりランチに誘ってくださるお友達とか・・・・。そんな、お金では買えない宝物が増えることの方が、とっても嬉しい。今日心に投げ込んだのはこの言葉・・・。『頂上への道は一つではない』(黒田クロ著 コスモトゥーワン出版)1+1=2.答えは一つ。2=・・・の式は、無限にある。式を前提にすれば、答えは一つ。答えを前提にすれば、式は無限。2=2、2=1+1、2=3-1、2=100-98足したり、引いたり、掛けたり、割ったりすれば無限。人生の答えを見つける式は無限。やり方、考え方は、無限にあるんだ。しあわせになるために昇る、しあわせやまへの道は無限。私の隣にいる人は違う道を選ぶのかもしれないけれど、私は私の信じる道を登ることにいたしましょう。明日は、どんな『幸せ風景』を眼にすることができるかな?
2008.11.18
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ほぼ一週間ぶりの日記です。日記だから、ほぼ日で・・・・!と思いつつ、ついつい日々の忙しさに取り紛れております。『女性はね、年の瀬の声が聞こえてくると、何だか妙にせわしなく思えるのよね・・・。男性は12月31日まで忘年会できるけど、女性はそういうわけにはいかないものね・・・・。』とは、最近いろんなところで交わされる時候の挨拶。じゃあ、何がそんなに?と尋ねられても、目に見える成果を出せるわけではないjので困ってしまうのですが・・・、というよりも『何をしてこんなに慌しいの?』と自問自答しているところです。このまんまじゃ、心を亡くすよ!そう自分に言い聞かせて、心に余裕をある行動、言動をするように、師走の声が聞こえる前に今一度シフトチェンジをしなくては・・・と思う今日この頃です。心を亡くすほど忙しくして、物事に振り回されて余裕が無くなって、ギスギス、トゲトゲした私にならないように・・・・。かといって、私のビジョンの一つである『傍が楽になるように動き、働く』ということは決して忘れないように・・・・。要は、独りよがりになって自分自身を追い詰めて、私さえ良ければ幸せ!なんて人迷惑な動きをしないこと。ワンネス・セラピストを24時間心がけていれば、本当なら楽にできることだけど・・・。そこがまだまだ修行の道。きっと一生続く修行ですね。自分に喝を入れるため、今日手のひらに書いたこと。『心がイキイキする 60秒言葉セラピー』(黒田クロ氏著 コスモトゥーワン出版より)「やることがある人は幸せ」今日の用事は、自分でつくるもの。今日、必要とされるのは、他人がきめてくれるもの。人生の中で、することがない、またできない状態になったときほど、さびしく悲しいものはない。してもらう人生より、してあげる人生の方が楽しい。人の役に立つことをするのに迷うことはない。することが山のようにある・・・・って、ついついナーバスに捉えがちだけど・・・・。することが山のようにある・・・・って、本当は幸せなこと。何もすることが無い時間って、1時間が長いし、居ても立っても座っていても、本当に辛いもの。自分でつくった用事をこなし、誰かのお役に立つことができれば、本当に本当の幸せを味わえるものね。たった一人でもいいから誰かに必要とされるって、生きる原動力が泉のように湧き出てくること。『私が今日ここに存在してくれていて良かった~。』と思ってもらえる人でいたいものです。
2008.11.17
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今日は、朝からまぁちゃんの幼稚園の日曜学校でした。月に一度の朝ごはん会なので、まぁちゃんは朝食抜きで幼稚園に。今月の担当の教会員の方々が子供たちのお食事を用意してくださり、礼拝の後朝食が振舞われます。皆で同じものを頂き、今月お誕生日を迎えるお友達のお誕生パーティをして、楽しい食事の時間を過ごします。その間私は、日曜学校の後行われる「子供の英語倶楽部」の準備のお手伝いに。英語が得意な園児のお母様が、楽しみながら子供が遊び学べる時間+ママの交流を目的に、ボランティアで主催してくれました。今日は、その1回目。15人の子供たちとその保護者が集まるので、お部屋のセッティングや資料の準備などなど、主催のお母様とお手伝い組2名で、朝から楽しみながら準備しました。3人での会話の中で、たまたま皆が大きく同意した話題は・・・。『みんな繋がっているんだよね。私たちも、宇宙も、自然も、何もかも全て・・・。』ということ。そう、みんな繋がっているから、それなら宇宙や自然や身の回りからは良いエネルギーを頂いて、私は回りに良いエネルギーを送ることができるように・・・。そうやって、『愛』のエネルギーを循環させることが大事なんですよね。優しい気持ち。気遣う気持ち。楽しい気持ち。嬉しい気持ち。穏やかな気持ち。などなど、自分が受けとる立場だったら絶対に選び取りたいと思う心で過ごすことで、周りにその『心』を伝えることができる。そんな『心』で過ごすことで、きっと周りからもそんな『エネルギー』を受け取ることができる。最近、何かにつけてそう思うのです。今日の教訓もやっぱり同じ事を選び出しました。『60秒の言葉セラピー』 黒田クロ氏著 コスモトゥーワン出版より「この世に存在するものは、ひとつとしてひとつのものはひとつもないみんな関わり 繋がりあっている」この世で生まれ、生きることを仏教では、因縁生起という。因は、物事が生まれ、起きた、直接の原因。縁は、物事が生まれ、起きる、間接の条件。直接の原因と間接の条件がそろったときに、物事が生まれ、起きる。この世に存在するものは地球が自転、公転しているから、ゆられ、ゆすられ、ゆらいでいる。変動で他の原子と出会い、日々進化、退化を繰り返し、新しいつながりが生まれている。このつながりがおきる事を縁起という。関わりあっているからこそ、こうしてこの世に命を永らえている。繋がっているからこそ、たくさんの幸せや喜びを頂ける。その偉大なる必然に感謝して・・・・。まずは、目の前に転がっている様々なチャンスから心地よい事を基準にして『今やる一つ』選び出し、その『良い気を持つ一つ』をやるからには、徹底して楽しみ、喜び、さらに『良い気』をプラスしてお返しすることにいたしましょう。 笑顔と気持ちの良いお返事で、フットワークを軽くすることからはじめましょう。
2008.11.09
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朝、必ずやること。置きぬけのボーっとした頭の状態で、枕元においているこの本を開くこと。開いたページに書かれた事を今日の教訓にしようと決めて、日々日課としています。今日使ったのは、この本。『60秒の言葉セラピー』(黒田クロ氏著 コスモトゥーワン出版)今日のお言葉は・・・・。「地図を持たないから迷う。」車のナビで地図は覚えられない。今、自分がどこにいるかは判っても、全体の中でどこにいるかは、解からない人が多い。現実の世界では、地図は動かない。動いているのは自分。このことを頭で分かってないと自己中心的な物の見方・考え方しかできなくなる。全体の地図が頭に入っている人は、客観的な見方ができる人。勉強も仕事も人生も地図(計画)を持っている人は、今、自分は全体のどの辺りを歩いているか判る。そうそう!今、自分がどの辺りを歩いているかが判るから、今、自分が何をしなくてはいけないのか判る。何をしなくてはいけないか判るから、コツコツと積み重ねていくことができるのだと思うのです。『私』としては、お勉強をすること。『仕事人』としては、自分なりの資料を作ること。『母』としては、クリスマスプレゼントの用意。これは、他の方にも少しづつ用意が必要だ!『主婦』としては、年賀状・・・・。などなど国の地図から地域の地図まで、大きいものも小さなものも各種取り揃えて常に携帯し確認しているから、安心して日々を過ごすことができるようになった気がします。時に修正し。時にやりなおして。それでも、これがあるから歩き続けることができる。今年は、ちょっと年賀状に凝ってみようかな?クリスマスプレゼントは、小さなものをいろいろと用意してみよう。室礼はいつからはじめようかな?お仕事にいる情報と資料を、自分なりに作ってみよう。アロマのお勉強やセラピストのお勉強、趣味の数々、手仕事の数々、本を読む時間・・・。やりたいこと、やらなきゃいけないことは、山ほどあるけど。 1日24時間を最大限に有効に活用し、最高の効果をあげるためにも、地図をもって進むことにいたしましょう。だって、人生お一人様一回限り。時は命を削っているんだもの。
2008.11.08
今日は、実家の母を手伝いに行く日。いつもはまぁちゃんを幼稚園に送った後最寄の駅から電車に乗って行くのだけれど、今日は新聞雑誌などの紙資源を持ち帰るために車で行きました。実家にある新聞やダンボール、本の類を整理して、持ち帰るために車に積み込んで・・・と作業をすること数時間。あらかた片付いたところで、母の長年の友人が『おこわ』を炊いたからと遊びに来てくれました。母のお友達と母と私・・・、三人よれば何とやらで、おしゃべりに華が咲き楽しい昼食の時間をとることができました。『だんだん整理したりお片づけしたりすることがおっくうになるのよ・・・。』と、母や母のお友達の言葉。確かに、歳を重ねるごとに持ち物は増えていき・・・・。持ち物が増えるごとに、整理することがおっくうになり・・・・。整理することが大変になると、必然的に片づけることが嫌になります。『そうだよね。だから、少しづつ私がお手伝いするわね。』そう!一気にやろうとすると、何事も先が続きません。お祭り騒ぎの後は、どうしても倦怠感が訪れますから・・・。来るたびごとに少しづつ・・・・。そうやって、ちょっとづつ片付いていけば、きっとそのうち違ってくるはず。だから、あきらめずに少しづつ・・・・ね。そう、自分自身にも言い聞かせます。家の片付けも少しづつ・・・・、庭の掃除も少しづつ・・・・。劇的に変わる事は無いのだけれど、それでも『手』が入ることで確実に『何か』が変わってきている。自己満足かもしれないけれど、私なりのやり方でお手伝いをしましょう。何をするにしても、無理は禁物。細くても、長く続けることが一番大事な事ですものね。家事をお手伝いすることで、『家』の中に『気』を送る。母と話をすることで、お互いに『癒し』『癒される』。そんな時間を、『ほどほど』の関係で結んでいく。お手伝いも、我が家のことも、自分の事も・・・、私にかかわる全てのことを、『こうでなくっちゃ』とか『こうしなくっちゃ』とかのガチガチの縛りを解いて、ほどほどのルールで自分なりに続けていく。『続けていく』『続けていける』ことが、一番のポイントだと最近思うようになりました。しかも、ここが重要だけれど、『苦役』ではなく『楽しんでね』。今日の朝読んだ本にも書いてありました。おそうじ、料理がニガテでも、家事がもっと好きになる『豚は豚やねん、アヒルはアヒルやねん』私の近くに、「ほどほど」の天才、と呼べる何事にも無理をしない女友達が居てこだわりすぎの私にこう言うのだ。豚は豚やねんアヒルはアヒルやねんあんたがサルかカエルかシマウマか知らんけどサルならサルでサルができることをしたらええねん真理すぎて私はむくれるがしばらくすると妙に納得して、ガチョウの自分に孔雀の羽根を望んでもしかたがないでもねガチョウならガチョウで今より少しだけ上等なガチョウになりたいのと、ほどほどに、少しだけ、やる気になるのである。(お掃除が、料理が苦手でも、家事がもっと好きになる。 岩里 祐穂 氏著より)そうだよね。やっぱりほどほどが大事なのよね。友人は私のことを超天然な人って言うし・・・・。(違うと信じたいけど・・・)「あなたと居ると、のどかな草原で雀がピヨピヨ鳴いているような気分になる。」(ってどういうことよ!)なんて言われているし・・・・。そんな私は、雀なりに・・・・。ちょっとだけ上等な雀を目指していく事にしましょう。やる気出てきたぞ!
2008.11.07
『一日を少しずつ変えていこう。』そう思い立ち、今月から実践中です。『少しずつ変える』って・・・。例えば、眼差し。例えば、雰囲気。例えば、仕事の手順。例えば、時間の使い方。そして、言葉の使い方。 60秒言葉のセラピー↑の本に出会ってから、「言葉」に意識を向けるようになりました。この本の「はじめに」に書かれた文を読んで、考えさせられるものがあったからです。それは、次のような文章でした。『言葉は「言霊」といって、自分の心の魂に言い聴かせています。また「言刃」といって、相手の心を殺傷する道具にもなり、料理する道具にもなります。人生、悩み無く生きられた人が最高の人生です。だけど、悩まず生きてきた人なんて一人もいない。悩まなくていい人が悩んでいたり、悩んだほうがいいと思われる人が悩んでいなかったりする。悩むことは、自分を観つめ、自分を深くさせてくれているチャンスです。そんなときに出会った言葉で、人生を変え、楽しい人生を送っている人は沢山います。気付いた人です。私も沢山の人から変わるキッカケの言葉を頂きました。教育者の高橋 敷先生から「生物には入り口と出口がある。このことが理解できたら100点あげる。」ハッ!そうなんだ。物事には、入り口と出口があることを教えられた。また越智直正社長に「人生、お一人様、一回限りやでぇー」「太陽は東から昇って、西へ沈んでいる」当たり前のことを当たり前と知った。竹沢裕信社長に「先生。紙に書いて実践しているよ」と声を掛けられ、「エッ!」と驚いた。毎年200回前後の講演をしているが、縁の繋がる人は意外と少ない。竹澤社長はいろんな先生の話を沢山聴いたが、私の言葉に共鳴し、即、実践され、なんとキャンペーン達成率を150%に伸ばせたとの事。その後、お会いして、300人の社員を大事にされていることを知り、感動・感心しました。「念ずれば、花開く」の言葉がありますが、種を蒔かないとダメです。目玉焼きも、卵を割らないとできません。「なんくるないさー」の言葉の前にも「誠んちゅうー」の言葉が先にあります。この本に載せた言葉は、那覇高校で講演した後、吉本先生から全クラスに言葉を贈って欲しいと声をかけられ色紙に描いた言葉です。私の言葉で、一人でも良いです。気付きのキッカケになって、楽しい人生を送ってくだされば幸いです。』(60秒の言葉セラピー 黒田クロ氏著 コスモトゥーワン出版)言葉は、言霊となって魂に言い聴かせ、言刃となって相手を殺傷する・・・・。そんな大きな力を持つ見えないものを、軽々しく扱ってはならない。この本を手にしたとき、そう思えたのです。それでも何十年も生きていると、『癖』というものが身にしみていて、ついつい使ってしまうことが多々出てきます。いきなり全てを変えることは難しいけれど、まずは1ミリ変えることから・・・を変革のモットーに掲げていたのでした。今日を1ミリ・・・・、明日を1ミリ・・・・。そうやって、少しずつ変えていく事が大切なこと。そして、そのキッカケがこの本。一日、60秒・・・・、朝起きたらまず手にして、「一言」を考えてみる。そうすることで、今日もちょっとだけ変わることができるような気がします。朝、少しだけ変わった新しい私で、家族に、お友達に、同僚に、師匠に、自然に、宇宙に、出逢う。ちょっとだけ・・・・が大事なキーワード。
2008.11.06
11月に突入しました。カレンダーも残すところあと2枚。晩秋から初冬に向けては、「ワクワクモード」に包まれてて日々を過ごしています。振り返ると、確か去年も同じ高揚感に包まれていたことを思い出します。新しい年を前にして、自分自身が新しくなる事に対する高揚感。お誕生日を前にして、また一つ何かのスイッチが入る事を期待する高揚感。そして、来年も今年に増して素晴らしい年になると確信できる高揚感。新しい年を迎える準備は、もう始まっているのかもしれません。今月からは、また一つ新しい事が始めます。これに慣れるにはやはり1~2ヶ月かかると思うので、本格始動は1月位からでしょうか?セラピストのお仕事は、一日24時間をセラピストとして過ごすという事を、今月からチャレンジし始めました。「どんな時も愛あるセラピストとして・・・・」というワンネスの教えを実践実行してみよう!と決心し、まずはチャレンジ。これも意識せずとも過ごせる状態になるには、少なくとも1~2ヶ月が必要。今年種を蒔いた事が実りを付けて帰ってきて、その実りから得た種また来年のために蒔いていく。この繰り返しで、『私という畑の実り』はどんどん豊かに、どんどん満ち溢れていくのかもしれません。『徳』と『愛』というたくさんの種を得るためにも、まずは『今私が得意なこと』+『ちょっとだけ手を伸ばせば実現できる事』の積み重ねからやっていくことにいたしましょう。まずは、新しい年のスケジュール帖とカレンダーから。去年までとは明らかに違うのは、『母』『主婦』『セラピスト』『企業人(お勤めをする人)』『社会人(大人として社会にかかわる人)』『自分自身』等など、いくつもの顔を持つ人となるので、その管理を上手にすること。しかし、ここは以前『時の守人』になると宣言したからには、上手にこなせるようにならないとね。ということで、去年は売り切れで手に入らなかったD-BROSの手帳とカレンダーを購入しました。この手帳とカレンダーを相棒にして、時を上手に渡り歩くことにいたしましょう。私の中の『思考』の分野で、ピンナップボードやホワイトボードや夢地図等とともに、これから先の有能な秘書となって働いてくれそうです。I am a my BOSS ですから・・・・ね。私は私を上手にコントロールして、持っている力を十二分に発揮できるようにしてあげましょう。目の前にやってくる事は、全て神様からの贈り物。生かすも殺すも私次第です。
2008.11.05
昨日は、ワンネス整体の講習会でした。朝から始まり夕方まで、みっちりと良い気に溢れた空間に身をおくと、心も体も浄化されていくようです。自分はどこにあるのか?自分はどこに行くのか?果てしなく広がる大きなビジョンを自分自身に持ちつつ、「広大な宇宙」から「今」ここに存在する自分を観じる壮大な魂。果てしない求心力や放出力を持って光り輝く、宇宙から見たら点にさえ見えないような「今ここにいる自分」の魂。その美しい「肉体と魂」をしっかりと感じながら、仲間とともに学び自分自身を浄化していく時間は、魂にとっても肉体にとっても極上のひと時です。今、このタイミングで、この仲間とともに、こうして集うことに心から感謝して過ごす数時間でした。今朝は、好転反応からかどっぷりと重たい体で、日々のルーティンワークで染み付いた家事に勤しみながら、清清しい時間を迎えることができました。こうして朝を迎えられるということだけでも、ありがとうございます。そう思いながら、今朝本棚から選んだ私のテキストは・・・・。おそうじ、料理がニガテでも、家事がもっと好きになるこの中に書いてあった一言が、今日の私へのメッセージ。「日々の仕事から日々の楽しみへ」毎日の雑事の中で無心になることはとても大切だと思います。無心になれる作業は、心を見つめる瞬間を持たせてくれる。単調な繰り返しには、音楽のような浄化作用がある。たとえば、アイロンだったり、磨くことだったり、縫うことだったり、編むことだったりする。波立っていた湖面から、波紋を消し去るように、深呼吸をして、新しい空気を吸い込むように、自分を見渡せる場所に連れて行ってくれる。そして、アイロンは終わり、磨きあがり、縫いあがり、編みあがる。過ごした時間が、実を結んでいる。夢中になっていたじぶんを発見したとき、何かが楽しみに変わるのだと思う。「家事はリセット」家事とはリセットだと思う。食べたお皿を洗って、流して、拭いて、食器棚に戻す。よごれた衣類を洗って、干して、たたんで、引き出しに戻す。散らかった部屋をかたづけ、掃いて、拭いて、いつもの部屋に戻す。料理はべつかと思ったけれど、すいがおなかを満たすのだから、これもリセットのひとつかもしれない。あるべき姿に、当たり前の姿に、最初から、そうであったように。だからみんな気付かないし、ありがたがらないのだ。けれど、それをだれもやらなかったら、日々は荒れ、くずれていくだろう。力の補給、眠りの補給、元気の補給。人数分の人生が、この場所にある。すべてを、ゼロにもどしてあげること。そこから、はじめられる様に、そして始まりの場所に、立たせてあげること。家事とは、つまり、リセットだと思う。空気みたいに、見えないしごとである。(お掃除、料理が苦手でも、家事がもっと好きになる。 岩里祐穂氏著より)昨日の講習会で、老若男女いつでも誰でもセラピストになれるという話しがあった。世の中の人がみんなセラピストになって、セラピストがいらない社会になったら、この世界ってどんなに素敵な場所になるんだろう?子供はそこにいるだけで。お年よりはその知恵の深さから。病気や体の不自由な人は、無財の七施で。母は母のプロとして。父は父のプロとして。仕事をする人は、その仕事のプロとして。それぞれが、それぞれの役割を本気で全うし、自分を愛し喜ばせるがごとく周りの人を愛し幸せにしていくことができたなら、この世は光に包まれる優しい世界になるはずです。私は、まずは主婦として、母として、セラピストとして、社会人として、それぞれの仕事のプロの自覚を持つことにしましょう。私の一挙手一投足に、自分の魂が輝き、人にも喜んでもらえますように・・・と祈りを込めて、全てのことにあたることにいたしましょう。私のやっていることは、無心の楽しみであり、空気のように見えない仕事。そこに喜びと輝きを持つことにいたしましょう。
2008.10.30
今朝は、朝4時からクッキー焼きに勤しみました。なので、いつもやっているお勉強タイムはお休み。瞑想は、半覚醒の状態でクッキーを焼く中、立ちながらとかちょっと座ってとか、細切れに行いました。私にとっての瞑想タイムは、自分に喝を入れるとともに、思考回路を整理整頓する時間。たとえそれが5分だろうと10分だろうと、日々の暮らしに欠かせないのです。元々、お菓子作りはアバウトな性格が災いしてかとっても苦手・・・で、その上我が子が甘いものが苦手な人。お菓子を食べるなら、断然和菓子!一番好きなお菓子はお茶席の主菓子やお干菓子の類!!という、私とよく似た性質を持つ子を授かったため、ますます洋菓子作りから遠ざかっていたのですが、幼稚園のバザーへの出品ノルマとあっては私だけやらないわけには参りません・・・・。ということで、まずは始める前に瞑想して苦手意識を取っ払って・・・・・、その後腕を「美味しくなりますように」「食べた人が幸せになりますように」という祈りでカバーしてのお菓子作り・・・。何とか終えることができました。昨日はお師匠様とお目にかかり、アロマテラピーのお話をしました。本当はアロマの説明のはずが、いつもながらに雑談の花が満開に開いてしまい・・・・、それでもとっても楽しい有意義な時間を過ごすことができました。持病をお持ちのお師匠様とインフルエンザの予防接種のお話をして、そこから発展したアロマのお話。お部屋でアロマを焚くことでインフルエンザの学級閉鎖を免れたクラスがあることや、効能効果などのお話をしたところ、早速試していただけるとの事。そこで、お勧めの精油やグッズを取り揃えて、その使用方法を説明がてらお目にかかった楽しい時間でした。一つ一つの精油やグッズを箱から取り出しお手渡しする際に、ここでも祈りの気持ちをその品に込めます。「どうぞこのお品が、この方を幸せに導きますように。」「このお品を通して、お役に立つことができますように。」そんな心を込めて、お渡ししました。どうぞ、お師匠様をお守りくださいませ・・・・。祈りの力って、とっても偉大だと信じています。だからこそ、食事を作るとき、掃除をするとき、人とお目にかかるとき、お話をするとき、プレゼントをするときなどなど、一こま一こまに祈りを込めるように心がけています。私の「祈り」の心が、清らか光を放つ宝玉となって、大切な人々を守る力になりますように・・・。いえいえ、きっとそうなる・・・。祈り、誓って、そこから改めて事に当たるようにすると、今までとはしぐさ、表情、感情、行動など、全てが変わってきたように思います。丁寧に、真心を込めて・・・、そんなことが自然に振舞えるようになった気がするのです。祈りの心は、やはり感謝の心につながります。無心に祈っていると、「みんなありがとう」「すべてにありがとうございます」に繋がっていくのです。このひとときを与えてくださり、この出会いを与えてくださり、この想いを与えてくださり・・・、ありがとうございます。今日はワンネス整体のセミナーに参加して、たくさん「ありがとうございますの種」を自分に蒔いてくることにいたしましょう。
2008.10.29
いやはや、10日ぶりの更新です。まぁちゃんのはじめての運動会終了後、私自身もすご~く気負っていたのか、一気に気合が抜けました。その上、セミナーやカウンセリング、個人セッション等など、たくさん受けたりさせていただいたりの10日間でした。振り返ってみると、全てが「自己の内面を見つめる」というテーマに繋がったものになっているので、今はそういう時期なんだなぁと感じています。10日間の間に、セラピストとして、クライアントとして、私自身のあるべき場所を見つめることができました。『「きょういく」って教育ではなく共育なんだよ』と、先日の新聞のコラムに書かれていましたが、まさに私自身が自分育てに邁進している中、まぁちゃんも一つずつ親離れの階段を登り、自己を育てているようです。これも私たち親子のあるべき姿なのかなと思い、ちょっと満足感を得ている今日この頃です。こんな私自身や子ども自身に寄り添う、大切な暮らしの場を整えることも仕事のうちと、10日間で『物の居場所』の整理も行いました。自分自身が、自分の居場所に帰って来るとほっとするように、この家の中にある物たちもそれぞれ自分の居場所があればきっとほっとするはず。その「ほっ」が与えてくれる波動が、私たちを心地よくしてくれるはず。そう思いつき、私の持ち物、まぁちゃんの持ち物、それぞれに『居場所』を作りました。ただ置くだけとかではなく、きちんと「ここ」を作ることで、それぞれのものが安定した気がします。私自身がこれからの生きる道と決めた、「セラピスト」に関わる道具や資料たちも、雑多な空間に置かれるのではなく、きちんとメンテナンスされることで随分と違った空気を醸しだしてくれています。『誰かの居場所』である自分。これを我が今生のテーマに決めたからには、私にまつわる道具たちもあるべき場所に置いてあげないとね。環境があるべき場所になり、肉体があるべき場所になり、魂があるべき場所になり・・・・。自分自身が心地よく幸せになることが、周りを幸せにできる唯一の方法ですものね。
2008.10.28
最近、包丁を新調しました。今までは、某ドイツの刃物メーカーの三徳包丁を使っていました。結婚したときにお祝いに頂いたものだから、かれこれ10余年・・・。度々簡易の研ぎ器で研いではいたのですが、近頃全然切れなくて困っていました。毎日使う物だから、切れない包丁だと台所に立つのが苦痛になります。そこで、ふと思いついたのが「研ぎ石」を使って研いだらどうだろう?ということ。今までの簡易の包丁研ぎ器と違って、昔ながらの研ぎ石で研いだら違うかもしれない・・・。いや、断然違うはず!!そう思いたち、その足で以前肥後守を買い求めた商店へ。こちらは昔ながらの刃物屋さんで、店構えも内装もノスタルジーが感じられるお店です。一般家庭用から業務用の刃物や大工さんや左官屋さんが使う道具などなど、見ているだけでも飽きない場所です。そして、何よりもこのお店のご主人や奥様が、とっても素敵な方。専門をひけらかすことなく、ずぶの素人の私にも、丁寧に色々なことを教えてくださいます。お店の方が持つ専門の知識の中から、『今』私に必要な分を会話して与えていただき、それをまた日常の暮らしに私なりに生かしていく・・・・・。昔は何を買い求めるにしても、売り手と買い手の間に「会話」が行き来して、品物+アルファを共に手にしていたんですよね。大きなお買い物から、小さな日常の消耗品や食品まで・・・。金銭の授受だけではなく、人のぬくもりも行き来していたお買い物。この古き良き事を廃れさせてはもったいない!そう思ってから、お買い物はなるべく顔の見える所から・・・を心がけております。そしてまずは、このお店オリジナルの研ぎ石を見せていただき早速買い求めました。ご主人は創意工夫して素人でも上手に研げるように作った研ぎ石。これなら我が家の包丁も、切れる包丁!に変身させられそうです。ご主人から今まで使っていた包丁の研ぎ方を丁寧に教えていただき、練習しなくちゃね・・・とか、難しかったら持っておいで~とかお話して、ふと棚に目をやると和包丁を発見。でも、和包丁ってお手入れが大変そう・・・・。今まで使っていたのはステンレスの包丁で、お手入れ簡単!のものだったので、なおさらそう感じるのかもしれませんが・・・・。そこで見せていただくだけ・・・のつもりで、お手入れ大変なんでしょう?とお聞きすると、「この薄刃包丁は、和包丁の職人さんがつくる当店オリジナルの包丁なんですが、お手入れが簡単にできるように職人さんと開発したものなんですよ。洗ってそのままというわけにはいかないけれど、洗ったあと水気をふき取って、定期的にこの研ぎ石で研いでいただければ大丈夫ですよ」とのお返事。昔ながらのお台所にある手作り感あふれるもので、「ナイフ」ではなくまさに「包丁」という名に相応しいお品です。手に持った感じもしっくり馴染み、お料理もはかどりそう。奥様がもう何年も研いで使ってきた同じ包丁は、何回りも小さくなっていました。料理人しか使わないと思っていたお道具が、こんな身近でしかもお手ごろなお値段で手に入るなんて・・・・。そこで早速こちらも買い求め、その日から我が家の主役の包丁になりました。きっと、カタログで見たりネットで見たりしただけでは買うことは無かったであろう和包丁。でも、包丁とまな板を使って料理するには、やはりその文化の中で育まれ改良されてきた道具が一番最適だと、毎日の食事つくりで実感しています。人と人との会話とぬくもりがあったからこそ、手に入れられたお道具。これから先、小さくなるまで私と共に台所を彩り、私の料理の腕を上げるお手伝いをしていくパートナー。目利きして選んだ道具たちを、「私自身」になるように使いこなすことを愉しみましょう。「変化」変化というのは、「ひとつ」をいかにたくさんの物に見せ、魅了できるかということだと思います。単調なる「ひとつ」ではなく、千変万化する「ひとつ」を演出する面白さと愉しさを、どれだけ多くの人に与えらるかが、その人の器量と言えるでしょう。物をたくさん用いるのではなく、少ないものを上手に活用し、人の働きだけで変化を創る、そこに風情と日常性が生まれてくるように思います。利休が考えた侘びの精神とは、「一」や「変化」ということを念頭においていたのでしょう。利休の高弟の宋啓という人が、利休の茶会を筆記していた時の事です。同一の道具が出される茶会の記録を宋啓が省略しているのを利休が見咎め、どうして記録していないのかを聞くと、「同一の道具は前にも記したものがありますから」と答えました。利休は「度々同じ道具を使って茶会をしている時にこそ、茶会の苦心や働きがあり、同じ道具だからと記録しないのは、物に執着して着眼点が物にしか行っていない証拠である」と言い、物の変化を見る眼のないようではまだまだ修行が足りないと戒めています。日常生活の暮らしを大切にしていれば、どこにでもありそうな道具を使って、誰にもできない趣向を創っていくことができるものです。それには日常生活における生活の眼が大事で、平凡な中に非凡を創作していく想像力は、雑記を用いて場を構成し、それによって変化を生み出していくことです。それが茶の湯の精神を培い、侘び茶を理解する基となるのです。(日常に生かす茶の湯の知恵 福良弘一郎氏著より)
2008.10.17
今日は、実家へ母を手伝いに行く日。片道20分弱の電車での移動日です。幼稚園へまぁちゃんを送ったその足で、最寄の駅から電車に乗ります。小さな単線のローカル線は、通勤通学のラッシュも終わり、のんびりと郊外へと向かいます。その道中は、絶好の読書タイム。誰にも邪魔されること無く、読書に集中するひと時です。ただいま電車用に持ち歩いている本は、『日常に生かす茶の湯の知恵(福良弘一郎氏著)』という本。昔、お茶のお稽古に行っていたときに、そのお稽古を日常に生かしたいと買い求めた本でした。そのときはぱらぱらと読んだだけですが、現在日々のテーマを『祈り働け』と定めて暮らす毎日には、最適な本だと読み返しているところです。質素倹約を旨とするお茶の世界の修行は、日々の暮らしを清貧に保つためにも、教えられることがたくさんあります。お茶のお稽古自体は、美味しいお菓子とお茶が頂けて、礼儀作法が身に付く程度にしか思っていなくて、修行として捉える茶道として習っていなかったことが今となっては悔やまれます。そろそろ、まぁちゃんと一緒にお稽古に復帰しようかな?と思う今日この頃。今度こそ本当に『道』を学ぶ心を持ちたいと思っております。さて、今日心に引っかかった章は・・・・・。『しほれ』「しほれ」ということは、いろいろな芸道の世界でよく言われるようです。茶の湯の世界でも、武野紹鴎は「数寄の道は、ただ慰みを本意とすることなれば、閑かに・しほらしく・きれいに立てなすこと専らなり」と述べています。文中の「閑かに」は「寂」に通じ、「しほらしく」は柳の枝が風邪に逆らわない優雅な理に適った美を指し、「きれいに」は清明さ、静寂を伴う美を示しています。能の世界では世阿弥が、「このしほれたると申すこと、花よりもなほ上のことにも申しつべし」と言っております。「しほれ」を「花よりもなお上」と定義していることに目が行きます。これは、自然界の花の美しさよりも、天が命じた「しほれ」の時の美、すなわち「悟りの美」を、人間の美の最高位に持ってきたのだと考えられます。今日咲き誇っている花が、明日も同じように咲いていることができるかどうか、明日を待たずに萎れてしまうかもしれない、ということを知りつつ悲しむことこともせず、今の一時を命の限り咲き誇る、天のみが知る命であり、宿命はひとえに神まかせであるから、自分は自分の使命に万全を期して生きていくという、真に真摯な美を示しています。今の日本はこの「しほれ」の精神が欠落しているといえます。昔の家庭には貧しい生活を強いられていても、この「しほれ」の姿が感じられました。貧しい食事と衣服、そしてあばら家という生活の中に「しほれ」の美しさが充ち満ちていたと思います。(日常に生かす茶の湯の知恵 福良弘一郎氏著より)『「今」の一時を命の限り咲き誇る、天のみが知る命であり、宿命はひとえに神まかせであるから、自分は自分の使命に万全を期して生きていく』という、真摯な美。その美を全うすべく、祈り働きましょう。こうして、お役に立てる自分を持つことが幸せなのですね。
2008.10.16
昨日は、まぁちゃんの運動会でした。お天気にも恵まれ、暑いくらい。教会付設の小さな幼稚園の運動会は、先生や親、教会員の方々、OBやOG、そして子供たちみんなの手作りの運動会。全15競技中、7競技はまぁちゃん3競技は親が出席という、ほとんど家族の誰かが出ているという全員参加型の運動会でした。我が家では、夫の両親や私の両親、姪、私たち夫婦と、まぁちゃん応援団が7名。それに加えて、いつも朝素敵な挨拶をしてくださる某ストアの警備のお兄さんが、仕事をお休みして参加してくださったり、お師匠様がお仕事の合間を抜け出して見学してくださったりと、多くの方の応援の力に見守られての一日でした。『応援する力って、とっても大きな力だよ。その力は、みんなが持っている力を何倍にも増やしてくれるよ。今日はこんなにたくさんの方々に応援していただけるんだから、その力がみんなを助けてくれるでしょう。がんばろうね!!』との先生の言葉どおり、保護者席に溢れる多くのおじいちゃまおばあちゃまからの声援や、カメラやビデオ片手に走り回るお父さん方や用具係りとして東奔西走するお母さん方からの拍手、その他多くの観客の方々からのがんばれ~!!の力が、トラックで競技する子供たちの周りを風となって寄り添い、すり抜け、天まで昇っていくような、素晴らしい感動と感謝の力を感じました。『誰かが誰かを心から応援する』という優しい気持ちから生まれたこのパワーは、色にすれば虹色。たくさんの優しい光に溢れて、その空気の中では『ありがとう』の心しか生まれてきません。『先生にありがとうございます。』『お客様にありがとうございます。』『天にありがとうございます。』『子供たちにありがとうございます。』この空間に生きとし生けるもの全てに、『みんなありがとうございます。』そう思いながら、何度も涙ぐんだ体育の日。我が人生において、これほどまでに「居ても立っても全てにおいて、無意識の状態から湧き上がってくるような感謝」に溢れた日って今まであったかしら?買出しから始まって3日間かけて準備したお弁当作りも、テーブルや椅子やマットなどあれこれ考えて買い物にいった事も、ここ一月余り『運動会ごっこ』に付き合わされたことも、上手にできないと癇癪を起こし当り散らしたまぁちゃんとの日々も、全てが昇華されて美しい思い出に一瞬にして変わったような気がしました。まぁちゃんが、大きくなるまでにどれだけこの素晴らしい体験を覚えていてくれるかどうかは分からないけれど、まぁちゃんの素晴らしい体験と共に、私にとっても素晴らしい体験。人は何度でも変わることができるって言うけれど、子供の素晴らしい体験によって、私の人生も劇的に変化したような気がします。考え方も、暮らし方も、生きる姿勢そのものも。そして、これからの生き方も全て!秋から冬にかけての実りの行事は、まぁちゃんの幼稚園行事だけでなく、私自身のことに関してもこれからめじろ押し。来年をどんな心で迎えられるのか、今からが楽しみです。
2008.10.14
「お父さんはお客さまからお金を貰って、お家に持って帰ってくるの?」まぁちゃんの素朴な質問に、「そうだよ」と答えた夫。「お友達の○○ちゃんのママはお外で働いているから、やっぱりお客様からお金を貰ってお家に持って帰ってくるんだね。」「そうだね」とこれにも応じる夫。「お母さんは知ってた?」との問いかけに、「知ってるよ」と答えた私。しかし、その後のまぁちゃんと夫の会話にちょっと落ち込んでしまいました。「お母さんは、お仕事してないのにどうしてお客様からお金がもらえることを知ってるの?」「お母さんも昔は働いていたから知っているんだよ」「でも、今は働いていないんだから、駄目だよね」この会話に、ちょっと待った!!と参戦。「お母さんは、まぁちゃんとお父さんのお世話というお仕事してるでしょ?ご飯作ったり掃除や洗濯したり・・・。」これに返ってきた返答は・・・・。「それって、大人の女の人はだれでもしなきゃいけないことなんでしょ?お仕事じゃないじゃない。ねぇ、お父さん?」「そうだよねぇ」の二言・・・・。まぁちゃんは、ずっとお仕事する女の人になるのが夢なのだそうです。夫と娘の会話の結論は、「お母さんはお仕事してなくて、お金をもらえないから、おうちのことをしなくちゃならない・・・・」に落ち着いたようです。ふーん、そうなんだ。「お仕事」って、お金をもらえなきゃ仕事じゃないと思っているんだ・・・。主婦業は、1200万円の価値があるんだからね!そう思いながら怒りを内観していると、ふと別の考えが・・・。夫がどう思おうと、知ったこっちゃ無いけれど・・・・。(夫は、99%無理だと思うけど大器晩成の私が稼げるようになった暁には、紐のようにして生きることが夢なのだそうです。)娘が、家のことに対してマイナスイメージを持っているのは由々しき問題。妻になるかならないか?母になるかならないか?稼いでくるか否か?そんなことは本人の人生次第だけれど・・・・。「生きる力」=「暮らし力」という事に対しては、大事にして欲しい。自分の暮らしを整える力は、どういう生き方をするにしても必ず身につけておいて欲しいことの一つ。「こりゃ、意識改革が必要だ!!」と思った次第です。相手を変えるということは、とっても難しいことだから・・・・。まずは、私の中にそんな偏見のかけらが無いかどうかをチェックして・・・。自分の意識を変えることから創めてみることにいたしましょう。「仕事」って、「事」に仕えるということ。どんな仕事でもその事に仕えるということ、つまりすごく受動的なことだなと文字から感じました。じゃあ、今やっている全てのことを、「仕事」という観点ではなく「学問」という観点から捉えてみたらどうかなぁ?「学問」、学び、問うこと。なんだかとっても能動的な感じがします。どうせなら、今後の人生に用意された道を、常に学び問いながら歩むという能動的な自分でいたい。そう思い、決心した今日の朝。「天は私の進むべき道を、こんな形で指し示して下さったんだ」と、感謝しながらお洗濯物を干しました。早速以前買って、さーっと一通り目を通していた本を引っ張り出して、もう一度学びなおすことにしました。 英国式15分家事術この本に書いてあった、この言葉を思い出したからです。「イギリスの主婦は段取り上手」~中略~ 「家事をいかに効率よく済ませるかは、「いかに楽しく生きるか」を左右する!」この考え方は、私のその後の生き方を変えました。そのために、イギリスの主婦には、この家事を手際よく進め、時間内に済ませる段取りの上手さが身についていたのです。もちろん、それぞれの家庭でやり方はまちまちです。主婦が知恵を駆使して工夫を重ね、手早く済ませるためのに料理や掃除にその手腕を発揮。イギリスで、家事は、「クリエイティブで素敵な仕事」と位置づけられるのは、まさに主婦の力量が家事に歴然と現れてくるからにほかありません。(英国式15分家事術 佐藤よしこ氏著より)家事を家政学としてとらえ、結婚前の女性が主婦として必要な家政学を学ぶために、フィニッシング・スクールに通う習慣があるイギリスでは、きちんと家庭運営や栄養学を含めた料理、フラワーアレンジメント、インテリア、掃除、洋裁といった、ハウスキーピングの全てを、教室での勉強プラス実習を通し、学問として身につけるのだそうです。今の日本は、こういった趣旨の学校はなくなり、結婚してからみようみまねで家事をこなしているのが実情。でも、イギリスだろうが日本だろうがアメリカだろうが、生きていくために家庭を運営していくということはどこにいっても同じこと。だったら、せっかくお手本があるのだから!我が家もこれから、家政学を実行実践することにいたしましょう。クリエイティブで素敵なことをやってるんだから!
2008.10.09
今日はまぁちゃんの幼稚園のプレ運動会でした。(いわゆるリハーサルというやつです)小さな幼稚園ですから、母にもそれぞれに役割が割り振られ、その役を確認する意味でも母と子の運動会。子供たちの本番さながらの動きを見ていると、それぞれの成長が手に取るように感じられ、胸がジンと熱くなる思いがしました。我が子が可愛いと思うのはもちろんですが、全園児30人弱のこの園では、年長さんから2歳児さんまで全ての顔と名前が一致し、それぞれのこれまでの歩みを感じているので、ただの運動会のリハーサルというよりも、30人の我が子を応援する運動会のリハーサルでした。どの子のがんばっている姿を見ても目頭に熱いものがこみ上げてきて、赤組さんも白組さんも、それぞれ一生懸命がんばって!!とこちらも力の限り手をたたきます。本番は汗をぬぐう振りをして目頭を押さえるタオルが大活躍しそうだなぁと感じた一日でした。最初の挨拶をしていた年長さんの女の子の言葉に、「9月に入ってから、みんなで運動会ごっこをしてきました。その成果を見てください」というものがありました。そういえば担任の先生と毎日交換日記をしている連絡帳にも、「毎日子供たちと運動会ごっこをしています。子供の伸びる力を、先生は手助けするだけです」と書いてありました。「運動会ごっこ」9月の始業式のあとから始まった運動会ごっご・・・。どんなことをしているんだろうと、「今日は何をしたの?」とついついたずねてしまう私に・・・。「ぴっ」と笛が鳴ったら立って、「ぴぴっ」と笛が鳴ったら座るんだよ」とか、「お隣さんと手をつないでまっすぐ歩く練習」とか「線があるところに立って、いちについてって言われたらまっすぐ気をつけをして立って、よーいどんって言われたら走るの」とかの返事。そして日常の暮らしの中や園での遊びの中で、今日習ったことを取り入れて遊んでいる様子でした。練習期間は1ヶ月あまりだよね?そう思っていたのですが、今日の一連の流れを見て、子供たちの観察力、洞察力、行動力のすごさを改めて感じました。毎日の遊びの中で、「○○ごっこ」をしながら身につけていくということ。気負うことなく、力むことなく、自然体で、楽しみながら・・・。それって本質が一番よく身に付く方法。大人になるとついついエゴや見栄やプライドが邪魔して、素直にその『事』をあるがままに受け止めて楽しむということが難しくなるけれど・・・。本能のままに楽しみながら、魂のほとばしるようなきらめきを感じながら、命の高揚感を感じながら、ただひたすらにその『事』を楽しみ味わう。そんなこと、ずーっと忘れていたんだなと気付いた今日。子供のころ、おままごとはとっても楽しかったのに、いざ主婦になると全然楽しくない・・・。子供のころ、「○○ごっこ」は晩御飯も忘れるくらい熱中したのに、今ではそんな思いすら忘れている・・・。これじゃ、「大人になるとつまらなそう」と子供たちから言われるのも当たり前。「○○ごっこ」が何よりも楽しかったあの時代の心を取り戻して、「大人ごっこ」を楽しみましょう。楽しい楽しい『大人ごっこ』遊びをすることにいたしましょう。子供の声を聞きながら、悟りを与えていただいたような秋の実りの一日。○○ごっこは、山ほどあるよ~。
2008.10.07
命あるものは必ず、生を受けた瞬間から死に向かっての旅を続ける。その「死」という人生のクライマックスの瞬間に大輪の牡丹の花をさかせるために、今蕾をキシキシと開かせている。それは考え方だったり、思いだったり、生き方だったり・・・・・。家事だったり、育児だったり、仕事だったり・・・・。趣味だったり、学びだったり、人間関係だったり・・・・。それぞれにたくさんのステージを抱えて、それぞれのスピードでキシキシと開いていく花たち。魂の奥底では『この花が開ききったときが、我が今生の終焉のとき』と心底分かっているのだけれど、その瞬間を迎えるまではやはりキシキシを開く果てしない旅を続けているのだと思うようになりました。○月○日までに終わらせて、次からはこっちの仕事に取り掛かろう。○月○日の○○が終わったら、めどが付く。などなど、「一旦ここで終わり」という期限付きの「働くこと」。昨日も、今日も、明日も、あさっても・・・・と連綿と続く行いを、少しずつ微調整しながら良い形にしていく、「ずーっと」の「働くこと」。この2つを上手く絡ませて、日々の営みを続けていく。それは、花開き花散る瞬間まで・・・・。「期限付き」と「期限なし」の2つの仕事のバランスと絡み具合が悪いとき、螺旋の周り具合も悪くって、日々がギクシャクしてしまうような違和感を覚えます。「期限付き」のものばかりだと、日々追い立てられるような気がして、忙しさに心を亡くし、「さぁ急げ、さぁ!さぁ!」と目先のものだけを見てしまうような気がします。「期限なし」のものばかりだと、いついつまでにという追いたてが無い代わりに、だらだらと自分を律することなく、「いつか」という遠くばかりを見て何よりも大切な「時」を無駄にしてしまうような気がします。きりっと引き締まり「時」をすぐ目の前に感じるときと、ずっと遠くをみて「ほっとする」瞬間を味わいながら「永遠」を抱きながら進むとき。その絶妙なバランスがあってこそ、この果てしない旅を上手に歩み進むことができるのかもしれません。緩急があってこそ、人生は愉しい・・・。そう思えるようになって気付いた天からの教え。日々の営みがまた嬉しいものになりました。毎日ほんの少しでも、昨日と違うと嬉しい。今日決めたこの事が、上手にできたら嬉しい。そんな嬉しいを積み重ねて、楽しい時間を増やしましょう。楽しい時間に浸りながら、幸せな一日を過ごしましょう。ほら、今日もキラキラに輝く宝石の一日です。いいかげんに片づけて美しく暮らす『果てしなさの意味』果てしないと思う。終わりが無いのだ。作っては食べ、食べては洗い、洗ってはまた作る。掃いては拭き、拭いては磨き、磨いてはまた掃く。洗っては干し、干してはたたみ、たたんではまた洗う。家の仕事はきりがない。洗濯は好きだけれど、ある日朝から晩まで洗濯機を回していたことがあって、そのあと、すこし嫌になった。もっと簡単に終わらせる方法はないかと考えた。うちは親子三人、黒や紺や茶の濃い色の衣類が多い。だから、そういう色の付いたものと、タオルやシャツなどの白物と、最低2回以上は日々洗濯をする。そこで、白い日と黒い日に分けて、毎日交互に洗えば、一日一回の洗濯で済むと、と思いついた。これはけっこうの発見で、干すのも、たたむのも、結局量は同じなのに、なんだかあっという間に、洗濯が終わるような気がした。忙しいときはとても楽だ。しかし、ひとつ問題があって、かごの中には、毎日半分の洗濯物が残ることになる。なにか宿題が残っているみたいで、すっきりしないのだ。でもこれでいい、と思うことにした。心やかばんに、何か遣り残したものを抱えながら進んでいく。それが日常だ。冷蔵庫を開けて、前の日の残りで済ませる昼ごはんは、不思議に、ちょっとした幸せを感じたりする。みんなの気配がかくれているからだろうか。日々のことは、チェーンのように繋がっていて、時々重たく、気が遠くなる。でも、実はそれが紐でできていて、途中で不意に、結び目がほどけたりする。そんなこともよくあるのだから。幸せは、きっと、完成しないのだ。その、未完であることが、あしたをつれてくるのかもしれない。(いいかげんに片づけて美しく暮らす 岩里 祐穂氏 著より)
2008.10.06
自分の部屋がほしいなぁ・・・・。一人でゆっくり手紙を書いたり、落ち着いて本を読んだり、美味しいお茶を頂いたり、お気に入りの音楽に浸ったりする、私だけの空間・・・。私の好きなものに囲まれた空間が欲しい・・・。結婚以来ずーっとそう思っていました。6畳と7畳2間にちょっと広め(4畳)の廊下(食堂代わり)の付いた間取りの小さな我が家では、それはなかなか叶えられないものだと思い込んでいました。ましてや子供が生まれて、日々家の中のスペースが子供のものに占領されてきたここ数年は、お引越ししない限り絶対に無理だと決め付けていました。しかし、固定概念を取り払おう・・・・。そう決心して以来・・・・、この小さな箱の中に自分のスペースを作る仕事を楽しんでいます。まず狭い廊下兼ダイニングのスペースを、効率的に、かつ機能的に整理整頓し、誰かが突然尋ねてきても大丈夫!だという公的な場も兼ね備えた場所にすることから着手することにしました。イメージは・・・・・、茶室とその水屋。道具立て次第で、どんな風にも変化する茶室。見立て次第で、どんなイメージにも変化させられる茶室。そして、機能的で整理整頓され、無駄なものを削ぎ落とされた水屋。そんな部屋をイメージして、この部屋から作り始めることにいたしましょう。残すもの、処分するものを明確に分けて、それに見合った機能的な収納を考えてみる。収納するのは箪笥?収納するのは棚?そんな固定概念も取り払い、後々のメンテナンスも簡単にできる方法を編み出していく。さぁ、どんなお部屋に仕上がるかしら?作る過程が一番愉しい。良いお部屋に仕上がりますようにと、祈りながら働くことにいたしましょう。このお部屋が完成した暁には、隣にある私と子供の寝室兼子供部屋にも、私のスペースも生まれるはずです。公の場を兼ねたリビング兼ダイニングと、私的な空間である寝室兼子供部屋兼セカンドリビング・・・・。この「兼」がたくさん存在するということが、その部屋をどう見立てるか?どう上手に使いこなすかという楽しみが生まれるということ。本棚の整理をしている時に見つけた『日常生活に生かす「茶の湯」の知恵』という本を参考に、せっかく学んだ茶の湯の知識を生かしながらの我が家作り。私にしかできない、私のためのお仕事。出来上がりがとっても楽しみです。
2008.10.04
このところ、「朝」の力の大きさに驚かされてばかりです。季節は秋の夜長に入って、夜更けのしんとした空気と空間にももちろん魅力があるのだけれど・・・。そして去年までだったら、夜更かしはしても早起きは苦手なタイプだったのだけれど・・・・。気持ち次第で心も体も随分変わるんだと実感できたのは、朝の時間の過ごし方。朝を快適に迎えることは、その日一日のエネルギーに違いを感じます。朝を快適に過ごすことは、その日一日のモチベーションに違いを感じます。そして朝を快適にするためには、前の日の夜からの段取り力が物をいいます。一日の家事仕事も、一日の社会的活動も、一日の生活のパターンも、人は3日も繰り返せば、もうそれが昔からやっていたことのように染み付いてしまうそうです。じゃあ、その自分の中にある固定概念を崩すことからはじめてみよう。これが本当にベストパターン?そう問いかけることからやってみよう。家事の手順も、朝の通勤通園の道順も、思考の癖も、リラックスタイムも・・・・、本当にこれがベストパターン?もっとよい方法があるんじゃない?そうやって、明日の朝が快適なように今日の夜から・・・、今日の夜を順調に進めるために今日の昼から、今日の昼を余裕を持って扱うために今日の朝から、そして今日の朝は昨日の夜から繋がっている。そんな当たり前のぐるぐる回る循環だけど、昨日よりも今日、今日よりも明日、明日よりもあさって・・・・、少しずつ違う自分でいるために、『朝』を大切にする気持ちを忘れないでいよう。今日は残りの人生の『朝』の日。一番若い日です。今日の『朝』に、人生の『朝』に、一日一度は意識を乗せてみる。『朝』を迎えたことに感謝しながら。『朝』また朝が来て僕は生きていた夜の間の夢をすっかり忘れて僕は見た柿木の裸の枝が風にゆれ首輪の無い犬が陽だまりに寝そべっているのを百年前ぼくはここにいなかった百年後ぼくはここにはいないだろう当たり前のようなところでいて地上はきっと思いがけない場所なんだいつだったか子宮のなかでぼくは小さな小さな卵だったそれから小さな小さな魚になってそれから小さな小さな鳥になってそれからやっとぼくは人間になった10ヶ月を何千億年もかかって生きてそんなこともぼくら復習しなきゃ今まで予習ばかりしすぎたから今朝一滴の水のすきとおった冷たさがぼくに人間とは何かを教える魚たちと鳥たちとそしてぼくを殺すかもしれないけものとすらその水をわかちあいたい(朝 谷川俊太郎氏著より)
2008.10.03
昨日参加した色彩心理のセミナーで、明らかになった私の深層心理。それは、「私は私のやり方で、自分自身の道を切り開こうとしている。そしてそのことに喜びとやりがいを感じている。」ということ。尊敬する両親は、私に多大な影響を与えてくれました。それは、良きにつけ、悪しきにつけ・・・です。自営業の父からは、仕事とは?経済とは?社会とは?と、父の持つ帝王学をよく聞かされました。それは、社会に出てからの自分のあり方や、あるべき姿をしっかりと見つめ、見つけることができ、大人になってからどれだけ助けられたかしれません。しかし一方で、大人とは、社会人とは、こうあるべきものといった、固定概念を自分で自分に植え付けてしまっていました。専業主婦の母からは、妻として、母として、家事や育児、ご近所さんとのお付き合い等など、家を守る者の務めをしっかりと仕込まれました。それは掃除だったり、お料理のお手伝いだったり、冠婚葬祭への出席だったりと、押し付けがましく○○しなさいと教えられるのではなく、家庭生活の中で自然と学ばせてもらいました。しかしこれもまた一方で、家事の仕方だったり、手順だったり、子育てだったりと、母がやっていたことをそのまま踏襲し、そのやり方が一番だという超えられない枠を無意識のうちに作っていたように思います。それが見えてきたのは、ここ数ヶ月。家事や、暮らし、子育て、思想に至るまで、自分自身を微にいり細にいり見直していた過程で発見しました。もちろん良いところがたくさんだけど、変えてはならないこともたくさんだけど、その一つ一つに「何故そうするの?」と問いかけて過ごした毎日に、自分の中に本当に必要なものや、決して失ってはならない基軸を見つけられたような気がします。お料理の仕方だって、お掃除の仕方だって、子育ての仕方だって、良い所獲りすれば良いんだよね。そして、その基礎の上に「私流」を建てていけば良い。お仕事への姿勢だって、やり方だって、考え方だって、良い所獲りすれば良いんだよ。その基礎があるから、「私流」が構築できる。両親の教えから良い所獲りして、自分で学んだ方法や考え方をプラスして、実践して体験して「私流」を作っていく。お友達や先輩やお師匠さんからの教えを良い所獲りして、自分の中にプラスして、実践して体験して「私流」を作っていく。「大好きな人たちが、私を守り、育て、導き、助けてくれるから、安心して「自分」を出せる環境になりましたね。やりがいを求めて、自分自身の世界で羽ばたく覚悟と自信が持てるようになったんですね。」そんなメッセージを頂いて、心から今までのすべてに感謝できた昨日のワークショップ。「祈り働け」の言葉を胸に、今日の暮らし一つ一つに私流を刻んでいく。新しい月を迎えて本格的に始動し始めたのは、生活暦作り。私の生活暦は、私の暮らしにしか当てはならないもの。リブ・ラブ・サプリ↑の本を参考にして、私の生活暦「わすれなくさ(忘れ無くさ)」を作りましょう。日々の暮らしの一こま一こまを、少しの文字で切り取って・・・・・。これもまた一日の良い所獲り。メモのように書き綴る、生活の草々。ずっと後に見返したとき、どんな気持ちかしら?その拙さに苦笑しながらも、思いついたことに喜びを覚える自分でありたいものです。
2008.10.02
新たな月が始まりました。台風が沿岸を通り過ぎたためか昨日までの雨雲も一気に吹き飛び、今日は快晴。気持ちよい一日目を迎えることができました。朝起きて、心から沸き起こってきた感情は、ひたすらに『嬉しい嬉しい』。素晴らしい朝を迎えることができた喜びに、肌寒さに凍えるようになっていた体も、少しずつ活気を取り戻します。今朝は朝から、お気に入りのお店カンブツ屋+cafe 空豆さんのワークショップに参加しました。沼田塾の沼田みのりさんが講師をされるワークショップで、心と体の架け橋を塗り絵を使ってやってきました。初めに塗ったのは、ネガティブな私をイメージする絵。たくさんの下絵の中から自分でこれと思うものを一枚選び、それに自由に色を付けていきます。私が選んだのは、白紙に雲がたくさん浮かんでいる下絵。その絵を見たとたん、急に海に沈む夕焼け空のイメージが浮かんできました。夕日と共にネガティブな感情を海に溶かして、後には静寂と闇にしてしまいたい・・・、そんな気持ちで塗りだしたました。けれど塗るうちにどんどん心が変化しはじめて、最終的に出来上がったのは、朝日が昇りはじめる空。上のほうはまだまだ夜だけど、少しずつ下のほうから明るくなって、空に浮かぶ雲はその照り返しでオレンジやピンクや黄色に輝く絵が完成しました。塗り進むうちに自分の中のネガティブ感情が昇華され、朝日が昇りはじめる瞬間という絵に自分の今の状態を表しているような気がして、描き終えるころにはスッキリ!!次に、ポジティブなイメージの下絵を選んで、同じように塗り塗りしました。今度選んだのは、ずっと遠くまで続く草原の丘陵地帯の絵。お日様はキラキラと輝き、空は今日のような青空。草原は青々とした草をたたえ、色とりどりの花が咲き乱れる。そんな絵が完成しました。出来上がった絵を元に、色彩心理インストラクターのみのりさんとセッション。この2枚の絵は、様々な問題や苦しみや悲しみの中から自分の足で立ち上がり、自分の目標ややりがい、嬉しい気持ちや元気な気持ち、愛や喜びに満ち溢れた世界に飛び立とうと決めた心を表しているそうです。それを聞いて、とっても嬉しくなりました。まさに、今の私の状態をありのままに表している。頭だけでなく、心も、潜在意識も、すべてこの方向に向かいだしたんだね!この道は、間違っていないんだね!そんな喜びに溢れた気持ちでいっぱいになって、心地よいひと時を過ごさせていただきました。帰りの道は、光溢れる青空。その青空を見ながら歩いていると、大きな手がふわっと抱きしめてくれたような気がして、もうそれだけで万事OKな気持ちです。10月は、収穫祭の月。新しい月のテーマは、『祈り働け』で参りましょう。祈る=愛。働く=傍が楽になること=感謝の気持ちを持つこと。だと私は感じています。愛と感謝の気持ちを忘れずに、日常の細々をお努めさせていただく。そんな気持ちで日々に向かい、ここにその想いを綴ることができたらいいなと思います。新しい月に新しい決心。そうやって迎えることができたことに、まず感謝。「みんな ありがとうございます」を忘れない。
2008.10.01
自分を改めることを楽しもう。そうテーマを決めて、書き綴ってきた1ヶ月あまり。自分を育てる楽しみを、少しずつ見出してきた1ヶ月でもあります。今日は、早くも9月の末日。その好日、お師匠様の一人である古くからのお友達に、PCの買い物に付き合っていただきました。9月の半ばにいきなり壊れた、今までのPC。(文書作成用に使用)そろそろ色々と手がけようと、依頼を頂いていた書類を作成していた最中の出来事でした。最初は、すごくショックだったのですが・・・・。新しい10月は、自分を改めて迎える月。新しい10月は、実りの秋。新しい10月は、新しいことに挑戦する月。自らの新しいスタートを切るにあたり、リニューアルという意味と、自分の腹を据え本気になるためには必要なこと・・・・、そんな自分の内からの声に教えられ、今日新調しました。梱包を開けるのは、明日の早朝。10月1日の朝、新しいスタートを切るつもりです。そして今月は末日までも好日で、大好きなお師匠様と一緒に素敵なお店でランチ。美味しい食事と実りある会話で、豊かなお昼のひと時を過ごすことができました。今月、自分を1ミリ変えることができた自分に、ありがとうございます。今月、私を支え導いててくれた多くの友人、知人、お師匠様に、ありがとうございます。今月、珠玉の教えを頂いた、大切な書物とその著者の方々に、ありがとうございます。そして最後に、今日まで影となり日向となって見守り支え助けてくれた、両親、家族、最愛の娘に、ありがとうございます。そう、心からお礼を述べて、今日の一日を締めくくろうと思います。明日からは、また新しいテーマを自分に与えて学ぶつもり。きっと次も、私を1ミリ変える事ができるはず。とても楽しみです。そして、今月の手帳の余白の欄に書き込んだ、今月の自分に贈る言葉は・・・・。ふっと心がかるくなる禅の言葉『宇宙無双日 乾坤只一人』~天地に我ひとり 自分を持って生きていこう~広大な宇宙にたった一人きりでいる私?いえいえ、これはそんな孤独な存在をイメージする言葉ではありません。宇宙無双日、つまり一つしかない太陽がすべての自然にもたらしているように、自分も慈悲の心をすべてのものに注ぐことができる存在であるはずだ、と捉えるべき言葉なのです。天地の我一人、自信を持って生きなされ、という解釈でも良いでしょう。「只一人」とは、言い換えれば「無位の真人」としてのあなたです。内に仏そのものを抱えているはずのあなたです。仏では恐れ多いというのなら、真理を求める心とか、本来あるべき人間性というものを内に持って生まれてきているはずのあなたです。上手く生きられない、生き方が分からない・・・・。もしそんな風に迷ったときは、自分を見つめなおすことをやめて、無我無心で万物を慈しんでみましょう。空がきれいだ、風がさわやかだ、子供たちの笑顔が素敵だ。そんな風に世界を素直に感じとるだけで、心というのは少しずつ満たされてきます。(ふっと心がかるくなる禅の言葉 永井政之氏監修より) この広大な宇宙に、私という存在は只一人。天から私に与えられた使命もまた、私だけしか叶えられないもの。自信をもって、胸を張って、笑顔を湛えて、素敵な私でまいりましょう。
2008.09.30
「私は、大器晩成だもんね。」これは、いつも自分に言っていること。120歳まで生きようね!と心友のTちゃんと話しているので、それから考えたら今はまだまだひよっ子。しっかり自分作りをする時です。先日近所のコンビニで、万引きをした事で警察に通報されたお子さんのご両親が、そのお店のせいで子供が前科者になったと怒鳴り込んでいくという騒ぎがありました。「お店に商品があるから子供が盗りたくなる。万引きされたくなかったら、商品を置くな。」というのが、その親御さんの主張です。わが子を前科者にはしたくない。でも、曲がりなりにも社会生活を数十年送ってきたからには、きっと善悪の区別はつくはず。なんだかおかしな世の中になったもんだなぁと、聞きながら思った次第でした。独裁国家のように言論の自由が許されない国ではなく、学ぼうと思えばどれだけも手段があり、手に入れられる国に住んでいる私たち。格差社会と言われて久しい昨今、経済的な格差はもちろんですが、本当は一人一人の心の格差が一番大きいことなのかもしれません。「正しい味覚が失われれば、本気で取り戻そうと思っても3世代かかる」と以前料理家の方が仰っていたけれど、同じように自分という基軸を失ってしまったら、生きる基軸を取り戻し整えるために、どれだけの世代が必要になるのかしら?と思ったのと同時に、自分自身を整えることを怠ってはならないと改めて考えさせられました。さて、今日の学びは・・・・。奇蹟は自分で起こす『陰と陽のバランスをとる』世の中には陰と陽があって、プラスとマイナスで物事が成り立っています。飛行機もすごい風圧がなければ、飛び立っていきません。世の中は抵抗があるから物事が成り立っていくのです。大きな事業も、大きな抵抗があるときに大きなことがなされていくといわれています。伸び上がっていくのが陽であるとするならば、それを伸び上がらせまいとする陰という力も必要です。陰と陽のバランスをとっていくことが、この世の中ではとても大切なこととなっていくわけです。~中略~何が良いのか、これこそいいと思うことが、案外そうではないということがけっこうあります。私たちが今、おかれている場の中で、たくさんいいことがあるということに目を向けていくこと、それが私たちを幸せにしてくれる大きな力になります。自分は決して一人では生かされていない。色々な人に生かされているのです。きしきしと 牡丹つぼみを ゆるめつつ 山口青邨(やまぐちせいそん)「きしきし」は一ミリ、また一ミリということです。牡丹はあの素晴らしく大きな牡丹に花開いていく。その牡丹が花開いてゆくには、パッと花開きません。この「きしきしと」という音の中に、静かに少しずつ、少しずつ、つぼみが開いていって、あの大輪の花になるという情緒が歌いこまれています。私たち一人一人の人生がこの大輪の牡丹だとするならば、自分が幸せになり、あなたのそばにいる人が、あなたの存在ゆえに幸せになっていく。あなたが幸せの発信地になっていく。その小さい努力が「きしきしと」ということです。あなたというつぼみが花開いて、大輪の花になるときは、死ぬときです。人生を完結させて、素晴らしい花になっていく。あなたの後から続いてくる人に、思い出の中に種を残していって、その人たちがまたその種を生かしていく。私たちは大輪の花を死ぬときに開かせるために、つぼみを今一瞬一瞬、きしきしと小さい音を立てながら、少しずつ花を開かせていきます。小さいことから花は開いていくのです。一度に大事を望まないでください。幸せは方向を一ミリ変えるだけです。(奇蹟は自分で起こす 鈴木秀子氏著より)私が、「我が人生は成った」と感じるときは、きっと死ぬ瞬間。その種子を残した後続のたちがまたその種を生かしたいと思ってくださるような、大輪の花を大きく開かせることができたなら、きっと本望。一歩一歩は小さな努力。「きしきしと」積み重ねて、幸せになっていく努力。まずは今日!、時は今!ですね。
2008.09.29
先日お知り合いになったあるお師匠さまから、自分の人生を成功させるためのコツを教えていただきました。「人生を成功させるコツ」それはいろいろあるけれど・・・。そして、多くの方が多くの訓話なり著書の中で述べられているけれど・・・・。師が送ってくださったメールに書かれていたことが、今年私が多くの方や書物などから教えを頂いて、日々実践していることにピッタリとあっていて、一年も後半に差し迫ってきた今、「それでOK」と天から認めていただけたような気がして、とても嬉しいプレゼントとなりました。それは・・・。1 ワクワクすることに近づく。2 受け取ることの抵抗をなくす。3 日常に起こるシンクロを意識する。4 人生の起こるプラスの部分もマイナスの部分も心から味わう。5 すべてに感謝する。これを日常的に行うことが大切なのだそうです。毎日の暮らしの中で、1~5までに意識を置く時間を必ず作る。やっとそうやって暮らせるようになったこのごろ、自分自身が生まれ変わったような気がしています。目からうろこというけれど、本当に目の前の視界が一段とクリアになって、物事の本質に近いところを見ることができるようになってきたというか・・・・。それがとても楽しくて、また出会うことや人が与えてくださることも本質的な教えが多くて、日々学ぶこと、日々真似ぶこと、日々生き暮らすことが、とても有意義なものになりました。瞬間瞬間の輝きが、すべてダイアモンドのように光に輝いて見えます。ありがたいなぁ。ありがたいなぁ。ありがとうございます。ありがとうございます。一日に何度も心に唱えるこの言葉。もうそれだけで、おなかいっぱいになるように思えます。今日も朝から、今週一週間食卓を賑わしてくれる食材たちの下ごしらえや、常備菜作り。これらの食材が私の手元に届けられた事にも感謝。自分の手で何かを作り出すことが出切る事にも感謝。ガスや冷蔵庫、水や器、調味料やレシピ本など等、私の手仕事を手伝ってくれる物にも感謝。そして、こんな細々を楽しめる自分と、その時間に感謝。そうやって、楽しいという気持ちと感謝に溢れた『良い気』で台所を包み込んで、調理する幸せ。ありがたいなぁ。ありがたいなぁ。ありがとうございます。ありがとうございます。もう、それ以外にはありません。これらの食べ物が、私自身や大切な人たちの良き血となり良き肉となりますように。そう願わずにはいられませんでした。今朝学んだ本の一章もそんな事が書かれていました。奇蹟は自分で起こす『楽しい心で過ごす』私たちが「最上のわざ」を目指そうとするとき、世の中にまた違った意味で大きく貢献できます。では、「最上のわざ」とは何でしょうか。自分はいったい何をしたらいいのでしょうか。何をすれば心満たされ、充足して生き甲斐を感じるのでしょうか。「楽しい心で年をとり」これが一番先に出てきます。何もしなくて良いのです。一生あなたが楽しい心で過ごしたならば、もうあなたの人生は大成功、そして人類に大きく貢献していきます。だから楽しい心で日々を重ねていくことが大切です。どうしたら楽しい心を続けることができるでしょうか。自分が意識しなくても、生きていく上でストレスが起こってきます。そうすると緊張して体が硬直してきます。しかし日常生活で、何かほのぼのと体が楽になっていると感じるときがあります。リラックスして、アルファー波が出て、楽しいと感じている時間、その感覚、心と体の感覚を覚えておきます。楽しい感覚というのを、自分の日常生活の中でよく覚えておいて、そういう状態に自分を持っていく。何気ない楽しい時間を日中でもなるべく長く持つ、そういうことが自分の人生における「最上のわざ」になっていきます。悩むことが好きな人もいますが、悩みが起こったら、苦しいことがあって当たり前、この苦しみは必ず良いことに繋がっていくんだと頭で自分に言い聞かせます。そして、楽しい時間に作り変えようと考えます。感情はどんなに混乱していても、沈んでいても、悲しくても、憤っていても、頭で考えることができます。私たちは頭と心と体があります。その3つを調和させ統合させながら、素晴らしい働きをするものに魂があります。私たちの中には素晴らしい魂という輝きがあって、いざというときには魂が輝いて、深い知恵と力を与えてくれます。すべての人の中に魂はあります。魂の無い人はいません。魂というのは素晴らしい輝きのものです。ですから私たちが日常で「最上のわざ」をなすということは、行動にも考えにも、それから感情にも、魂の輝きを反映させて光らせることです。そうすると、周りの人はあなたと一緒にいるだけで、別に何を話すわけでもないけれども、とても一緒にいるのが幸せだと感じます。あなたが、幸せの発信地になっていきます。(奇蹟は自分で起こす 鈴木秀子氏著より)目指すは『森のイスキア』を主催されている佐藤初女さんのような生き方。私は何をするのでもない。ただ、そこに共にいるだけで周りの人が幸せを感じるような、そんな人になる事が目標。今はまだ、やっと自分の行くべき道が見え始めたばかりの、ヨチヨチ歩きの初心者マークだけれど、これからの人生は日々愉しい心で過ごす事を心がけて・・・・・。愛と感謝と楽しみと幸せ。文字で綴るだけでも、喜びに溢れます。そんな人生を過ごす楽しみ。一瞬一瞬に喜びの「気」を張り巡らせて。これからの毎日は、喜びの日々。
2008.09.28
なんだか肩がこっているなぁとか、なんとなく腰がおもいなぁと思うとき、自分では知らず知らずのうちに意外と体がリキんでいることがあります。緊張する事や人に出合ったり、逆に気が抜けて変な姿勢をとることで思いもかけない所に無理をかけていたり・・・。体は心の代弁者ですから、そのときの心の有り様が素直に現れてくるような気がします。リラックスすることって、心や体や魂のどの部分にも大切なんだと感じる今日この頃です。上手にリラックスするために、香りや音楽、照明などなど、色々と実験している毎日。一歩外に出れば、例え子供でもそれなりに緊張を強いられる社会。せめて家の中だけは・・・と思い、インテリアや室礼などにも随分気を配るようになりました。そのきっかけになったのが、下の本の一章を読んでからです。奇蹟は自分で起こす『リラックスすることから始まる』自分らしく生きることを一切してこなかった人も、癌になってみて、はじめて本物の自分を生きることがこの世に生まれてきた使命だと分かったのです。人間の幸せというものは、自分の中の本物を生き抜くことです。もちろんそれは自分勝手に生きることではありません。自分の中の深い深いところに耳を傾けて、そうして「あなたが大きくなったら何になりたいの。もっと何年か先にはどういう生き方をしたいの。そうして今はどういう生き方をしたいの。」という小さな子供の呼びかけに自分でしっかり答えを出し、その答えに向かって生き続ける事、それが人生を豊かにしていくことだろうと思います。自分が頑固になったり、一生懸命に頑張りすぎたりすると、自分を窮屈にして、本物の自分を生きることができなくなります。本物の自分を生きることは、リラックスすることから始まります。今の社会は緊張を強いる事がいっぱいあります。いろいろ事件は起こるし、しなければならないことも山積みしているし、病気にもなれば、様々な問題も起こります。でも、そういった条件に関係なく、病気であっても、家族に病人がいても、それでも幸せになる事ができます。まず最初に、自分で自分をリラックスさせる、その方法を身に付けることから始めていきます。今は宇宙の気がとってもいい方向に向かっていますので、運気の良い波動に後押しされて、まずリラックスすること。そして自分はこういう人になりたいんだという意識をはっきり持つこと。体がリラックスして安定していると、感情エネルギーもそこへ向かっていくようになります。いろんな紆余曲折があるから、すぐには見えないかもしれませんが、自然に自分がビジョンを描いたようになっていきます。ですから、そういったビジョンを持つということは、とても大切なことなのです。(奇蹟は自分で起こす 鈴木秀子氏著より)本を最初に読んだときには、ただ漠然と通り過ぎた章だったのですが、今朝改めて読み直しました。 一昨日、昨日と、これからの自分の人生の一翼を担うようなセミナーを受けてきて、リラックスすること、そしてその場所を作ることの大切さを学んできました。『小さな子供が聞くように、「あなたが大きくなったらどうなりたいの。もっと何年か先にはどういう生き方をしたいの。そして今はどういう生き方をしたいの。」という呼びかけに自分でしっかり答えを出し、答えに向かって生き続ける事が大切』これは昨日のセミナーで、答えを出しその生き方に向かって歩くことを決め、自分自身にも宣言したことです。自分の人生を幸せに生きるために、リラックスしてね。宇宙の大きな良い波動に身を任せて・・・・。私の中の本物の人生を生きる喜び。この道を信じて歩むことにいたしましょう。
2008.09.27
自分を肯定することができる人に育てる。これが、まぁちゃんの幼稚園の育児目標です。そういえば数々の子育て本にも自己肯定感が大事ですと書いてありますし、セラピストとして学び始めてからは余計にそう思います。子育ての本を読むときは、「わが子」を育てるための得る知識と共に、「己」を育てる為の知識を得るつもりで読んでいます。両親は私のことを丁寧に育ててくれたけれど、両親だって人間です。100%ということはありえない。その足りなかったと思う部分を、自らで補い、自らで癒し、自らで育てる・・・。そんな意識の元に、書物を紐解き、訓話に耳を傾けております。では、自分を好きになるためにはどうしたらよいか?ありのままの自分でいいんだよと受け入れるためにはどうしたらよいか?という私の質問に対し、今日の答えはこの本にありました。奇蹟は自分で起こす『見えない世界の幸せ』私たちは、目に見える外の世界で、物事が思い通りにスムーズにはかどり、体も健康で、周りに人たちもみんなと良い人なら、もちろん都合が良いし、幸せで生き易いのです。けれども、それとは違う幸せが、私たちにはあります。そして、心をよく整えておくと、周りの状態も違ってきます。かなり住み易くなります。いつも完全ということは人間にはありません。けれども苦しみが少なくなってきます。私たちにとっての秘密というのは、目に見える世界だけ上手く行けばよいということではありません。心でしか見えない、とても大切な事があるということを覚えておくことです。「ぼくの秘密が聞きたいかい?ちっとも難しいことじゃないんだよ。この世には、目に見えなくて心でしか見えない、とても大切なことがあるってことなんだよ。サン=テグジュペリ」~中略~私たちは人間関係の中で生きていますから、どうしたら自分が輝く灯台になれるか、なるべく良い環境で生きられるかということを考えます。私たちはどのようにしたら自分を輝かせることができるでしょう。どのようにしたら自分にしかない、ユニークな宝石の輝きを放つことができるでしょうか。~中略~人間として、私たちがすべき第一の務めは、自分を好きになることです。特に子供が自分を好きになるように育て援助するためには、子供をまず好いてあげることです。「あなたのこと大好き」と、子供に感じとらせてあげることです。そして、名前を丁寧に呼んであげることです。その子供の名前について、楽しいことを語ってあげることです。もし何かしてもらったら、大人がその子供に感謝してあげることです。そうすると、子どもは自分が好きになっていきます。あなたは自分自身が好きでしょうか。自分自身を嫌いという人がいたら、今日から変えてください。自分自身が嫌いだと、人生が辛くなります。自分自身が嫌いだと、人間関係が悪くなります。ともかく自分を好きになることです。自分を好きになると、自分を甘やかせているのとは違うということが、だんだん分かってきます。自分を好きなると自分を大切にします。失敗しても、この失敗から何を学ぼうかと自分と相談するようになります。あなたは自分の名前がとっても好きでしょうか。自分の名前を好きになってください。自分は嫌いだ、自分の名前はこんな名前でなければ良かったと言わないで、自分の名前は良い名前だということを感じとってください。親はこの子が幸せになるようにと念じて、さんざん考えて、一番良い名前を付けているのです。(奇蹟は自分で起こす 鈴木秀子氏著より)まぁちゃんの名前を考えていたとき、ありったけの時間を使いました。自分の持てる知識を総動員して、朝から晩まで幾日間も・・・・。幸せになりますように。喜びに溢れた人生でありますように。真理を追究していく力をもてますように。などなどいろいろ考えて、付けた名前の意味は、あるがままをよろこぶ子でありますように、というものです。そして、私の名前も、誰かの名前も、みんなその親御さんがありったけの知恵と知識を絞って付けられた名前。様々な願いを込めて付けられた、大切な名前。私の名前は、両親それぞれから一文字ずつを与えられた人生最初の贈り物。私の名前を大切にしましょう。私の名前を大好きになりましょう。私の名前は本当に良い名前だと自信を持ちましょう。私が私を心から好きになったとき、私は私の中の小さな子供を抱きしめることができる。そして、私の周りの大切な人の心にそっと寄り添うことができる・・・・。私を見て、私を好きになって、私を愛して、私を大事にして・・・。みんな、本当はそう思っているんだもの。
2008.09.25
今日は、朝からまぁちゃんの幼稚園では「英語で遊ぼう」の時間。園児のお母様が、得意の英語を生かしてボランティアで講師を務めて下さいます。ありがたいこと。感謝して、レッスン楽しんできてね。そう思いながらの「いってらっしゃい」セレモニー。今日は、幼稚園が終わったらそのお母様がご自宅で開かれている英語塾にも行くので、登園後もうダッシュで家事をこなさなくては!と大忙しの午前中でした。あれもこれもと、やることがたくさん。だからこそ、「生きてる実感も沸くってもんだ~♪」と、こまねずみのように走り回る自分に惚れ直したりして・・・・。やっぱり、自分が素敵と思えるのって良いなぁと、一人悦に入っております。今日のお勉強も、『愛と受容について』。昨日の続きのお勉強。テキストも、↓の本。あなたはいつも守られている『相手がいないと生きられないのは、本当の愛ではありません』の続きです。日々の訓練の中で、特に私が注目しているのは、「聞く」姿勢です。聞き方は、話しての心を大いに左右します。聞き方次第で、相手は傷つきもするし、心癒されて前向きになることも出来ます。どう聞くかによって、互いの心が離れるときもあるし、ぐっと距離感が縮まる場合もあります。相手を癒し、二人の距離を近くする利き方のポイントは、相手の言うことを肯定も否定もせず、ありのまま受け入れて聞くということです。この「受容」という聞き方を、専門的には「アクティブ・リスニング」と言います。「アクティブ・リスニング」は、批判しない、同情しない、教えようとしない、評価しない、ほめようとしない、すべてが受容の聞き方です。例えば、「会社が倒産しそうですね」と言ったとき、「何でそんなことになったのかしら」「早く次の就職先を見つけなきゃ」というのは、受容の聞き方ではありません。批判や評価が伴う返答は、相手に「受け入れられなかった」という印象を与えるため、心を閉じさせてしまいます。「がんばって」「やるべきだ」「気をつけなきゃ」「賛成できない」なども、非受容の聞き方です。逆に受容の聞き方をすれば、相手の反応は変わります。ただ「そうなの」「なるほど」「辛いんですね」とあいづちだけを打つ。あるいは、「あなたはどう思う?」「もっと話して」と相手の話を促すのもアクティブ・リスニングのコツで、これによって相手は心を開きやすくなるのです。肯定も否定もしないという聞き方は、相手を自由な気持ちにさせます。そして、開かれた心の扉を長く開けておくことが出来れば、その人自身が自分で問題を解決する方向へ自然と導くことができるのです。みなさんも、自分の悩み、心のうちをただ聞いてもらい、胸がすっきりしたり、前向きな気持ちになった経験があるのではないですか?慰めの言葉や励ましの言葉よりも、ただ受け入れてくれたことで、癒されたのではないでしょうか。そして、人は誰でも、聞くことで自らを癒す能力を持っているのです。ありのままを受容することは、受容する側の成長=自立を促します。人を受け入れられるか、受け入れられないかの能力は、その人の心の状態に大きくかかわるからです。「人は、他者との意思の伝達が図れる限りにおいてしか、自分自身とも通じ合うことは出来ない」とは、「若きバルク」などの詩集で知られる、フランスの代表的知性派詩人ポール・ヴァレリー(1871-1945)の言葉ですが、ありのままを受容する聞き方をしていると、相手も自分の本音をどんどん語るようになります。すると、聞き手は相手の本質に触れたように感じ、相手に対するこれまでとは違った深い敬意が自然と湧き起こってきます。こうして、両者の間に深いつながりができていくのです。それができれば、互いのいい音色を引き出せる夫婦関係も築けるというわけですね。(あなたはいつも守られている 鈴木秀子氏著より)私自身、以前は話しながら考えをまとめるということがよくありました。(最近は、フィンランド・メソッドで「アヤトゥス・カルタ」(thinking map)というものを教わり、自分の思考解析に使うようになって、自分と対話するようになりましたが・・・。)聞くって、本当に難しいこと。でも、今朝の幼稚園の英語のレッスンを思ったとき、ふと「アクティブ・リスニング」は、ちょうどまだ拙い語学しか持たない人間が、初対面の外国人と会話する時と似ているなと思いました。拙い語学力で読解するために「相手の話の1~10まできちんと聞く」だろうし、たくさんの言葉を持たないために「必要最低限の相槌や返答」になるだろう。自分が!自分が!としゃしゃり出て『自分』を話すことも出来ないし、でも相手に行為を持っている貰うためにはやはり笑顔が必要。きっと、相手をしっかり見ることも忘れないだろうなぁ。実は、これはワンネスのメンタルセラピーの基本でもあります。この基本を忘れずに、仕事に、家庭に、交友関係に生かしていく事が大切。ついつい、「我も我も」と出て行かないように。静かな笑顔を湛え、相手を見て、相手の話に耳を傾け、適度に相槌を打つ。そんな聞き方がいつも私と共にあるように。受容の心を忘れない・・・。
2008.09.22
自分を変えよう!そう決意して一ヶ月余り。自分の中にピンときた「何か」を元に、手持ちの本や資料を紐解き今の自分に必要だと思われる言葉や、お友達から教えていただいた話を元に自分自身を内観することを深めたこの一ヶ月。随分、今の自分が何を求めていて、今の自分に何が必要なのかが、見えてくるようになりました。自分の中にある物を整理整頓する。その大切さを、身をもって経験しました。まずはテーマを決めて、各31回続けてみよう。最初はそんな軽い気持ちで始めた事だけど、自分でも思いがけないくらいの効果が出て驚いています。このテーマでは、残りあと5回。次に掘り下げたいテーマも、しっかり見えてきました。学べるってありがたいことです。今朝得た学びは、「あなたはいつも守られている」(鈴木秀子氏著)からです。あなたはいつも守られている「愛と受容」が、私が生きるためのテーマ。その本質を理解するために、今学びの時を与えてくださっている。得られる試練の数々も、『愛』と『受容』を考えさせられるもの。そして、自分の中の『愛』と『受容』の容量を試されるもの。じゃあ、愛って何?そんな質問をして、得た答えがこの本にありました。『相手がいないと生きられないのは、本当の愛ではありません』自立するのは結構難しいことだ、と日ごろから感じている方がいらっしゃるかもしれません。確かに、精神的に自立しているつもりでも、あるいは自立に向かおうとしている人でも、つい誰かに「依存」してしまうということは誰しも少なからずあります。例えば、もっとも依存しやすいのが夫婦や恋人関係です。非常に仲の良い夫婦であっても、「その人がいないと生きていかれない」という思いが強すぎると、執着と依存になってしまいます。実際、夫婦の一方が亡くなった後自殺する方も少なくないし、とたんに元気を無くして病んでしまうケースは多くあります。最愛の人を亡くせば辛いのは当然ですが、だからこそ、健康なうちに「人間は一人一人別である」ということ、「互いに自立してこそ相手も輝く」のだということを自覚し、自立関係を築いていく必要があるのです。相手がいないと生きられないというのは、本当の愛とは違います。愛の中には「自立」ということも含まれます。夫婦の愛でいえば、お互いの自立を助け、一緒にいるときに共に「愛のソナタ」を奏でられるような関係になる事が望ましいでしょう。お互いが自立したところで、助けられたり助けたり、頼られたり頼ったりして、喜びが広がっていく関係です。たとえ「生涯共に過ごす」と誓い合った関係でも、個々に性格も違えば、育った環境も違います。まさにお互いが違う楽器です。その楽器は、ソロで弾いても美しいし、ソナタ(2重奏としてのソナタ)で弾いても美しい。もし、一方が故障したら、もう一方も使えなくなってしまうような関係になれば、依存になります。一方が故障したら、もう一方がソロで癒せる、それこそが、自立した夫婦関係と言えるでしょう。では、ソナタも奏でられるけど、ソロも素晴らしい、という関係になるためにはどうしたらいいでしょう?それには、もちろん訓練が必要です。具体的には、互いにありのままをさらけ出せる関係になるためのコミュニケーションの訓練です。例えば、夫の会社が倒産しそうになったり、今リストラの対象になって非常に危機感を感じているとしましょう。そんなとき、夫が「妻に言ったら心配かけて悪いな」とか「もっとがんばれと発破をかけられるのではないか」と気をもんで言えなくなってしまうのは、自立した関係とは言えません。弱い部分も包み隠さず話が出来、妻のほうは「危機的な状況ではあるけれど、一緒に乗り切って行きましょう」と相手の立場を受け入れ、互いに話し合って新しい方向性を見出していけるようになったときこそ、自立関係が成就したといえます。そこで、日ごろから自分の弱い部分も含めて話し合う訓練をすることがとても大切なのです。(あなたはとても守られている 鈴木秀子氏著より)ここで言う自立とは、経済的なことではありません。内面的な自立です。内面的な自立とは、「規律を守りながら、自由を人間らしく楽しめること」です。もっとも、心満たすものは何かを知り、そこに向かう道に外れていないかどうかを規律に基づいてチェックできることこそ、本当の意味での「自立」です。今後生きていくに当たって、さまざまなグループに所属することになると思います。今は、『家庭』だったり『家族』だったり、『母』だったり、『一人の人間』だったり、『女性』だったり、『仕事人』だったり・・・。そのどのグループにおいても『本物の愛』で人間関係を結ぶことができるように、まだまだ道のりは長いけど、やりがい学びがいのあるすばらしい道。一生かけて学ぶ道。『愛』が溢れる人を目指して。
2008.09.21
運動会が終わったら、バザーの準備。バザーが終わったら、クリスマス劇の準備。まぁちゃんの幼稚園の2学期は、行事がめじろ押しでやってきます。まぁちゃんが初めての体験の連続を、日々ドキドキわくわくしながらも、園生活を満喫して送ってくれていることが、私にとっても大きな喜び。「まぁちゃんが、2学期の様々な行事を乗り越えた後、どんなに成長した姿を見せてくれるか?とても楽しみです。」「初めての大きな行事である運動会が終わった後、まぁちゃんはぐーんと成長しているはずです。私も楽しみにしています。」これは、幼稚園の先生からの連絡帳に書かれていた言葉。小さな幼稚園の恩恵を受け、先生と私の毎日の交換日記はすでに2冊目も半ば。「不安なこと、疑問、日常のこと、どんなことでもお書きください」と言われて始めた4月から、毎日毎日その日思ったことや家庭での表情、疑問や質問、そして感謝の言葉を綴ってきました。それに対する先生のお答えは、教師歴数十年の蓄積の元に、いつも的確で励まされる素晴らしい言葉が散りばめられています。改めて読み返してみると、子供の日常を書いていたつもりが、実は親の私が育てて頂いていると思います。ありがたいなぁ。初めての子供が初めての体験をするときは、親の私も「親として初めての体験」。いい親に見られたいとか、良い人に見られたいとか、好かれる人になりたいな等をついつい考えてしまい、ちょっと自意識過剰な私。そんな自分を抱えつつ、昨夜一人で瞑想内観しているときにすっと与えられたメッセージは、『○○を成功したいと願う自分』に囚われているという事。今、新しいことにチャレンジするに当たり、『私の理想(ビジョン)を叶えたい』『私の掲げる理想(ビジョン)が天の思し召しにに適ったものならば、必ずそれは実現される』というワンネスの理論を常に心に抱きます。でもそれと同時に、『成功』の二文字にこだわる自分が心の中に居たことに気付きました。『事が成る』かどうかは、後からついてくるもの。成功か失敗か・・・、それに拘っていては、そこに囚われてしまう。そう気付いて手近にあった本を開くと、次の章に至りました。『人生に成功も失敗も無いのです。』どんな人の人生にも、嫌なこと、辛いこと、苦しいことが起こります。「自分が挫折するなどありえない事」と思っていても、思いがけない形で挫折を経験する事があります。しかし、挫折は、決して人生にとってマイナスになるものではありません。むしろ大切な事に気付くきっかけを与えてくれるのです。私たちの多くは、目に見える「ドゥーイングの世界」を中心に生きています。しかし、ドゥーイングの世界に偏りすぎると、地位や学歴などに固執し、競争ばかりして過ごすことになります。そして、目に見える世界に執着すればするほど、様々な苦しみが起こってきます。見た目は華やかであっても、根の部分を切り捨てた切花のように、その根底には虚しさがつきまといます。しかし、人はどん底まで追い詰められ、人生最大の挫折を経験したことで、初めて目に見えない「ビーイングの世界」、つまり本来のありのままの自分や存在というものに気付くことができ、世間体や見栄に囚われていた人生を潔く捨て去ることができるのです。私は、シスターとして日ごろから多くの方々に接していますが、このように、社会的にも地位が高くドゥーイングの世界ではすべてよく見える人が、大きな苦悩を抱えて相談に見えることがよくあります。そのつどに、人の内面は、表面的なものだけでは想像がつかないものだとつくづく思います。しかし、目に見える世界と見えないビーイングの世界との結びつきを知り、命が与えられた尊さを自覚すると、みなさん大きく変わられます。本来の人間らしさを取り戻すと言えばいいでしょうか?ですから、表面的には「失敗・挫折」に思えることが、実は「人間復活のためのチャンス」なのです。そして、人間復活のチャンスという方向に発想を変えれば、失敗も、挫折も、困難も、とても意味のあることだとわかります。自分の人生に起こることは必然であり、無駄なことは何一つありません。そして、人生には余計な回り道というものもありません。嫌なことや苦しいことは、私たちが自分自身を大きくするために引き寄せたものであり、それを乗り越えたときに一回りも二回りも大きく成長できるのです。「危機こそチャンス」とよく言いますが、まさにその言葉どおりで、自分自身を大きくするためにどんな人にも苦しみがあるのです。失敗こそ、人間が本当に新しく蘇り、大きくなっていくためのステップだと言うことです。また、難問にぶつかったとたん、それを自分のチャンスと考えてみると、苦しいこともストレスも半減します。苦しみが苦しみでなくなるのです。人間は、自分に都合のいいことは成功、都合の悪いことは失敗という風に捉えますが、実は成功・失敗という区切りは無くて、すべては、そこから何かを学んで成長するために起こっているのです。自分にとって都合の悪いことが無ければ、本当の意味での知恵を深めることもできるかもしれません。そして、苦しみをチャンスに変え、成長につなげる上で、欠かせないものがビジョンです。自分が何を望み、どんな方向に行きたいのかの指標があれば、そこに向かうための過程で出逢う困難も、苦しみも、「自分の行くべきところに進むために必要なもの」、まさに危機こそチャンスと捉えることが出来るでしょう。(あなたはいつも守られている 鈴木秀子氏著より)苦難も困難も試練も、すべてはチャンス!ビジョンを掲げ、今日もまた歩むことにいたしましょう。どんな事が目の前に現れようとも、すべては必要なこと。
2008.09.20
今朝は台風も過ぎ去り、青空の爽快さのもと幼稚園へと向かいました。気圧の関係なのか、湿度の関係なのか、はたまた気のせいか、台風や雨、寒い時は怪我の古傷で全身が痛みます。以前だったらきっとそれだけでナーバスになっていたところ・・・。でも、意外とすんなり乗り越えられて、よしよし私も成長したなぁと思いながらの通園の道。大好きな師の一人からメールを頂きました。朝だし、何かしら?そう思って、歩きながらメールを開くと、「咲き出しました」のタイトルが。お花が大好きなわが師は、お庭にたくさんのお花を育てていらっしゃり、折に触れ贈り物を下さいます。今回のお花のお写真は、「彼岸花」と「しゅうめい菊」。コメントに、「楚々として可愛らしい誰かさんみたいです」の文字が。誰かに見つけてもらえなくてもいいよ。誰かに品評してもらえなくてもいいよ。例え道端に打ち捨てられていようとも、誰も名前を知らない雑草だとしても、小さな花は私だけの花。この地球上に2つと同じものが無い、『佑啓』という名の花。薔薇じゃなくても、蘭じゃなくてもいい。お花屋さんを美しく飾る花じゃなくてもいい。私が道端に花開くことを楽しむことができれば、それだけで十分です。でも、「私がそこにあることを愛しく思う」ためには、まだまだ日々努力が必要。そう思って歩いてきた毎日。人知れず(だと思っていた)生えていた草花の成長を傍らからそっと見守り、花が開くのを楽しみして、花が咲いたと喜んでくださる方がいらっしゃる・・・・。今朝は、頂いたメールに自分を重ねて、朝から上機嫌の私でした。「しゅうめい菊」のような・・・・。世の中様々な贈り物があるし、送る方法もたくさんだけど。「見守っているよ」そんな、メッセージがこもった優しい贈り物は、ダイレクトに魂に響きます。これでいいのかな?この道で間違ってないかしら?人間だから、折に触れ通る「選択の道」。どの道に進もうと、どのように歩もうと、それはすべて自分が選び、種を蒔き、自らが刈り取らなくてはならない道だけど。時に現れる迷いのトンネル。「花が咲いたよ」の贈り物は、そのトンネルの出口に射す一筋の光明に見えました。私もいつかこんな素敵な贈り物を、さりげなく差し上げることが出来る人になれますように。そのためにも、まだ歩ける、まだ進める。そう思えた今朝のひと時。楚々とした花たちに力を頂いて、可憐に進めますように。素敵な贈り物、ありがとうございました。
2008.09.19
今日は朝から、天気予報とにらめっこ。台風の行方が気になります。まずは、家族それぞれに元気に登園、出勤してもらい、家事をバンバンこなします。風があるので、洗濯物を午前中のうちに取り込めるように干して・・・とか、ベランダの整理とか、片付け物などなど、考え付く限りの家事を一人の時間に急ピッチで終わらせ、雨が降るだろう午後からは、お勉強タイムに当てたいと目論んでおります。BGMにはお気に入りの曲。お気に入りの香りを部屋に燻らせて。自分で立てたカリキュラムに沿って、集中して楽しむ数時間。週に一度の楽しみです。「求めよ、さらば与えられん」の教え通り、自分のビジョンを掲げて歩き始めた刹那から、様々な教えが降り注ぐようにやってきます。時に本だったり、時に訓話だったり、時に会話の中だったり、時に体験の中にと・・・。そして、その教えを自分の中に落とし込むための数時間。むさぼる様に過ごしたい至福の時間でもあります。今朝読んだ『菜根譚に学ぶ人間学』(境野勝吾氏著)の一章には、次のようなことが書かれていました。『菜根譚を日本で有名にした五島慶太(東急の創始者)氏は、70歳の後半に、「『菜根譚』は50歳前後に読むより、青年時代からこれを読ませておかなくては駄目だ。おれみたいに55歳で気がついたものは良いけれども、気がつかない者はそのまま、ただ稼ぐだけで死んでしまう」と言いました。50代までは稼いでいいのです。預金のゼロの数が増えるのは、快楽です。ところが、人によっては65歳とか70歳になると、ゼロの数が増えても使えないではないですか。金を使うには体力がいります。お金を使うには、儲けるのと同じくらいの体力と能力と勇気が必要です。若いうちから無欲で稼がない人はだめなのです。若いうちに稼がない人は、一生「菜根譚」など読まないし、読んでもその良さは分かりません。若いうちにバンバン稼いで、稼いで、働いて、働いて、動いて、動いて、動き回った人が、ふと「稼ぎとは何か、動くとは何か、人生とは何か」と思うことがあります。動き回ってみないと、静かにしているありがたさは分からない。五島さんはそういうことで、若いころから「菜根譚」を中心にして東洋思想を勉強する癖を付けておきなさいといいました。なぜなら、55歳くらいになって、幸運にも自分のように勉強する人はいいけれど、うっかりすると、東洋の素晴らしい思想にも触れないで一生を終わってしまうことになる。そうなったら大変なことだ。「これを読まずして人生を終わってはならない」五島慶太はそれほど、「菜根譚」にほれ込んでいたわけです。』今日は、私の残りの人生で一番若い日。人生120年を考えたら、まだまだ青二才です。貪欲になって、学び、稼ぎ、働き、動き、生命力溢れる生き方をする。残りまだまだ何十年。でも、生まれてから死ぬまで、どんなにがんばっても120年。うかうかしていると、あっという間に終わってしまいます。「私」というこの身は、二度とは得られないもの。だったら、この人生を満喫して終わらねば。さぁ、まだまだやることはたーくさん!今日もゆっくり穏やかに、一日を走り抜けましょう。
2008.09.18
大掃除ならぬ大捨事。今朝から読み始めた「菜根譚」の本に触発され、今まで以上に暮らしをスリム化しようと決心しました。菜根譚に学ぶ人間学「菜根譚」は、洪自誠(1573-1619)という人が書いた、東洋思想の宝だけが詰まっている本です。この書名は、「人、常に菜根を咬みうれば、すなわち百事をなすべし」という言葉から取ったものだそうです。意味は、「私たちは菜っ葉と大根だけを食べても生活できるという覚悟をすれば、何でも出来る」ということです。つまり質素な生活をしてもいい、貧乏になっても構わないという覚悟さえできれば、「百事」色々なことが平気でできるということです。私たちは、肉を食いたいとか、牛乳も飲みたいとか。家もちょっと大きいのに住みたいとかあるではありませんか。そういう贅沢な生活を望んでしまうと、やりたいことが何も出来なくなってしまう。質素倹約をして、どんな貧しい生活でも我慢できれば、やりたいことは何でもできるのだということです。(「菜根譚に学ぶ人間学」 境野勝吾氏著より)自分のビジョンを掲げること。そして、ビジョンで我が人生の道を照らして進む。そう決めたとき、心がふっと軽くなりました。やりたいことはまだまだ山ほどある。そのためには、それなりに資金も必要。そして、天は機会を与えてくださり、お仕事のチャンスも頂いた。自分が創意工夫して作り出していく新しい道を、確実に自らの物にするためにも、まずは今まで自分の中にあった余分な我欲を捨て去ることにいたしましょう。今まで自分に抱え込んでいた、余分な見栄やプライドを捨て去ることにいたしましょう。その決意を形にするためにも、心の大捨事。そして、暮らしの物の大捨事。暮らしは私の心を表すもの。その器の中を、シンプルにしよう。必要なものを必要なだけ。それは、暮らしも私自身にも言えること。やりたいことをやりつくすためにも、まずは心構えから。「人様に迷惑をおかけしない限り、どんなことをしても生きていける」そう腹を括ったとき、初めて前に足を出せるのかもしれません。修行僧のように貪欲に学ぶ頭を持って私のビジョンを形にするために、さぁ始めましょう!大捨事。「愛」に溢れる澄み渡った秋空のような透明な心と、茶室のように無駄のない暮らしを目指して。
2008.09.17
『逃げないもんね』これは、毎朝私が私に言う言葉。『苦手なことから逃げずに、チャレンジすることを学んでいます。』これは、幼稚園の連絡帳に先生が書いてくださった言葉。運動が苦手なまぁちゃんは、運動会の練習が苦痛なようで・・・・。でも、『苦手なこと、大変なことから絶対に逃げない。』それを、私も背中で教えるね。そう誓って始めた幼稚園ライフ。この4月からは、自分の夢を実現することと、自分の家族の笑顔を守ること、両親の力になることも同時進行なため、時にすべてを投げ出してしまいたくなったこともあったけれど。『逃げない』そう心に決めたからには、様々な創意工夫をして乗り越える。そうして過ごした半年余り。あんなに気負っていた3月には、きっと思いもよらなかったような形でなんとか乗り越えてきている。『案ずるより生むが安し』って本当だなあと実感する毎日です。そして、この秋からはまた一つ、別の顔を持つことに・・・・。ワンネスだったり、アロマだったり、お掃除講座だったりと、学ぶ楽しみを与えてくれたそれぞれが、私の中で一つになって新しい仕事のチャンスを与えてくれそうです。『未来の自分は、大器晩成な私。』未来のビジョンに向かう最初の一歩を、踏み出すことができそうです。今日の学びはこの本から。あなたはいつも守られている『逃げ』という悪循環を断ち切るここでみなさんに問いたいのですが、自分のビジョン、自分にとっての一番の快感、本当に心満たすもの、それは何か心得ているでしょうか。また、あなたにとっていちばんの苦痛とはなんでしょうか。自分にとって「一番の快楽」「心底満足できる目標」を知っている人間は、道に迷うことがありません。たとえ遠回りしたとしても、快感に通じる目標に向かって前進し、成長し続けることができるのです。人生を出来るだけ楽しく、自由に、快適に歩きたい。それは誰もが望んでいることです。そして望みをかなえるための第一歩は、まず自分を深く満たす目標を自覚することなのです。自分は何を望み、どんな方向に行きたいのかを見極め、自分で望んで決断し、軌道修正していけば、どんでん返しで痛い目にあうこともありません。目先の快楽に向かおうとする自分にブレーキをかけられる人は、本当の意味で自立している人です。自由を謳歌できる人です。また、それが出来るということは、自分を大切にしていることの証でもあります。自分を自分らしく育てていくことが出来れば、他の人も大切にしたいという思いが自然に芽生え、共に成長していくための基盤を確立することもできるでしょう。「自立」とは、高いビジョンに向かって進んでいくために、目先の快楽を規制しながら、真の自由を楽しむことです。人間は、誰もたった一人の孤独では愉しく生きられません。何らかの人間関係のつながりの中生きていかねばなりません。そこで、自分も良く、相手にも良く、幸せがみなに連鎖していくような生き方が強く求められます。そして、幸せの連鎖をもたらすことができるのは、内面的に自立した人間だけです。自立できて初めて、「人から大切にされ、認められ、自分も他の人も大切にしたい」という人間の根源的な一番の要求を満たすことができるからです。人は辛くなったとき、上手くいかないとき、つい目先の快楽に逃げたがります。しかし、逃げは逃げで何の解決ももたらしません。一時の気晴らしにしか過ぎません。その快感はまた次の気晴らしに向かわせます。さらに、一時の気晴らしはだんだんエスカレートしていきます。逃げの連鎖が起こると、人間関係も悪循環をたどります。逃げの悪循環を断ち切り、ブレーキをかけてくれるのは、やはり自分を深く満たしてくれる快感、ビジョンに基づく規律なのです。( あなたはいつも守られている 鈴木秀子氏著より)
2008.09.16
地球環境の温暖化のせいか、アメリカでは台風で大変なことになっていますね。被害が最小限に治まりますように、心よりお祈りいたします。そして、こちらも台風接近中。だんだんと勢力が小さくなりつつあるものの、昔台風で実家が大打撃を受け、死ぬほど怖い目にあったトラウマか、「台風」と聞くとなんだか胸がドキドキし、落ち着かなくなってしまいます。接近するにつれ、眩暈がしたり吐き気がしたりと、明らかに異常をきたしてしまいます。なので、一日中台風が気になるし、だんだんドキドキしつつある今日この頃です。温暖化は子供たちの暮らしにも影響を与えていて、姪が通うマンモス幼稚園では、『温暖化の影響による高温化のため、子供たちの体調を考慮して、運動会自体の時間短縮の要望が出ています。そのため、競技時間の短縮や競技数の削減をしております。どうぞご理解ください。』と通達があったそうです。確かに、爽やかな秋風の元体を精一杯動かして・・・という具合とは程遠い現実。子供たちも大変だなと、改めてエコを考える日となりました。ただ、そんなナーバスな状態の中でも、最近は『LUCKY☆HAPPY』がたくさん口をついて出るようになりました。なんだか、合言葉のようになりつつある『LUCKY☆HAPPY』。ありがたいことです。昨日の一日も、まさにそんな日。もちろん、今日もだけどね。昨日は、お散歩がてらまぁちゃんとお買い物。敬老の日のプレゼントをまぁちゃんから渡してもらおうと、小さなプレゼントを買い求めに行きました。お目当ては、いつも行く器屋さんの『晴る』さん。ここで、いつものように美味しいお茶を頂いて、オーナーのYさんの『和み』の雰囲気に浸った後、マイ箸を2膳買い求めました。このお箸は、作家さんが手作りされているもので、一膳ずつ表情が違う手にしっくりとなじむお箸です。以前、大好きな友にプレゼントしたところとても喜んでいただいたし、まぁちゃんが幼稚園へ持って行っているカトラリーセットも、こちらで作っていただいたもの。そんなお箸をぜひ両親にもと思い、このお店の雰囲気とオーナーのYさんの御心も一緒にパッケージしてもらって、プレゼントにしました。次に、これまたお気に入りの『乾物+カフェ ソラマメ』さんへ。こちらのオーナーのFさんとは、波動がとても似ているのか、求めている方向性がいつも同じ。「誰かの居場所になれる自分を作る」ことが生きる理想の私と、「誰かの居場所になるために」カフェを開いた彼女とは、いつも意気投合してお話に花が咲きます。今回は、こちらで開かれるセミナーのことを知り、さっそくその場で申し込み。まぁちゃんには美味しいりんごジュースでくつろいでもらって、セラピストの話で盛り上がりました。不思議と、どん底にいた時が私と一致していて、なおかつそのどん底への思いも、どん底にいたときの思いも、今の心境も一致する彼女とは、これからもますますご縁が深まりそうな予感です。お店を後にするときも、とっても『LUCKY☆HAPPY』な気持ち。心が弾むような気持ちでいられるって、数年前までは考えられなかったこと。運が上を向いているんだなって、心から感じられます。そして、その心地よさはお金では買えないすばらしい価値。最後に、いつもの『えこる』さんへ。頼まれものの洗剤をお届けに行きました。『えこる』さんには、金曜日に突然壊れてしまった資料作成に使用していたパソコンの話も聞いてもらって、アドバイスをしていただいてと、またまたパワーを頂いた時間でした。その帰りに、えこるさんとは同じ店舗の中にあるお洋服屋さんのK子さんとおしゃべり。この方は、きっと「姉」ってこんな感じなんだろうなと、心から素直に頭を垂れて話を聞ける素敵な女性です。ひょんなことからいろいろとお話を聞いていただいて、その後の私を応援してくださる方。出逢いから半年たって、一皮の1/4くらい向けたかな?と言っていただきました。「自分を変える」という事が大事だと力説される彼女からは、「内面」を磨き変える事と、「外面」を大切にする事の大事さを、いつも教えて頂きます。どんなにすばらしい内面だって、まずは初めの30秒でひきつける「外見」がなければ、見向きもされない。そのためには、着るものだったり、お化粧だったり、髪型だったり、第一印象で惹きつけるパワーが必要なんだよ!と、スタイリストさんのようにコーディネートを教えてくださいます。値段が高いものが良い物じゃない、着る人を素敵に見せてくれる素材や、コーディネート、色使い、小物使い等など、着まわしの工夫次第で少ない数でもどれだけでも美しくなれる。そうご指導いただいて、この夏から実践中。確かに、自分の内面に手をかけることはとても大事なことだけど、毎日見る自分の外見に手をかける事は、その内面にさらに自信を持たせてくるようです。そういえば、ずっと昔町の占い師さんに、「あなたは自分の内面同様、外見も磨き続けなさい」と言われたことを思い出しました。そして、帰り際の一言に、また内面へのエッセンス。「あなたは、変わってきたよ。でも、それは自分だけじゃない、周りの力でもあるんだよ。」そう、これは決して忘れてはならないこと。本当にありがたいことです。今までの『わが人生のどん底』に居たときは、こんな素晴らしい出逢いはなかった。引き寄せるものは、当たり前だけどマイナス因子のものが多かった。でも、多くの方々のお力やお導きを借りて、今はあのころからは考えられないくらいすばらしい出逢いの数々がある。人との出逢いの数だけ、幸せの種もまたたくさん。『LUCKY☆HAPPY』ついてる!ついてる!日々、運気上昇中。今日も一日ありがとうございます。また、明日もありがとうございまず。
2008.09.14
三笠フーズのお米事件・・・。どんどん波紋が広がって、幼い子供の健康までも脅かすことになりつつあります。最初のきっかけは何だったのか?お金儲けに走った結果が、『他人』はどうなっても構わないという事だったのか・・・・。ニュースや新聞で記事を目にするたびに、『命の軽さ』を見せ付けられるようで、いたたまれない気持ちになってしまいます。安ければ何でもいい。確かにこんなにも不景気が続くと、そう言いたくもなります。でも「安さ」の裏側で苦しむ人たちがいることを考えると、『物の価値』って何だろうと改めて考えてしまいます。今は問題視されている中国産野菜も、あの裏側では安い労働力で使える他国の人々から搾取することで、「安さ」という利益を得ていた。そしてその対極にある国内の農家の方々は、手塩にかけて育てた野菜を正当に評価されず、苦しむ現実があった。100円ショップが繁盛している裏側で、派遣社員や契約社員として安い賃金で働かされ、能力やその人財としての価値を、正当に評価されず泣く多くの方々が存在する。「もののかち」って何だろう。そう考えるとき、生きるために手にする「品々」を選ぶ目と手に責任を!と、改めて思うのです。手元に置く「禅に学ぶ人生の90の知恵」という本に、お金持ちになる方法が書かれていました。「天から盗める」人が一番多くの金を持つ「列子」の「天瑞編」に、金持ちになる秘訣が説かれた章があります。”斎の国氏は大金持ちで、宋の向氏は貧乏でした。向氏は、国氏の家を訪ねて問いました。「どうしたら金持ちになれますか」「うまく盗むのだ。私は盗み始めて1年で食えるようになり、2年で楽になり、3年で財産を築いた。それ以後は、人々に施しをするほどになった。」向氏は、「盗む」という言葉を鵜呑みにして、他家に忍び込み、手当たり次第に盗みを働きました。するとたちまち捕まって、せっかく持っていたわずかな財まで没収されてしまいました。向氏は、国氏に騙されたと思い、文句を言いに行きました。国氏が尋ねました。「どんな盗み方をしたのかね」向氏がありのままを話しました。「それは盗み方を間違えている。正しい盗み方を教えてあげよう。天には四季があり、地には五穀、草木がある。私は、その天の時、地の利を盗んで、穀物を植え、野菜を育て、垣根を作り、家を建てた。また、鳥や獣を獲ったり、魚や貝を採った。これが正しい盗みだ。穀物、野菜、鳥獣、魚貝は、みな天が作ったもので人間が作ったものではない。私は天から盗んだから罪にはならないのだ。ところが、あなたが盗んだ金銀財宝は人が集めたもので、天が与えたものではない。あなたは人間のものを盗んだから、罰せられたのだ。」現代にも通ずる面白い話です。他の人が上手くやって儲けたアイデアを盗み、まねをして金持ちになろうとすると上手くいきません。目を宇宙に転じてみれば、新たなるヒントは満ち満ちています。そして何よりも、生まれたときに天から頂いた、自分のうちに備わっている知恵と才覚を使って天地にあるものを生かすことです。これが正しい盗みです。斎の開祖・太公望は、”天下は一人の天下にあらず、天下の天下なり”と言っています。どんなに優れた人も、世の中のアイデアも、財も、人民も、自然も、独り占めにすることはできません。禅語に、”家貧にして未だこれ貧ならず、道貧にして人を愁殺(悲しませる)す”とあります。(禅に学ぶ人生の90の知恵 公方俊良氏著より)お金はあっても邪魔にはならなしとよく言います。衣食足りて礼節を知るとも・・・。私の暮らしに必要なお金は、必要な物を必要なだけ得ることができ、長く使える良いものを得ることができ、礼節を欠くことなく、学びにかけるお金を惜しむことのないくらいあればいいなと願っています。生まれたときに天から頂いた、知恵と才覚を潤沢に使い、天地にあるものを頂いて、それを財に変えていく。1年目には食べることが出来るようになり、2年で楽になり、3年で財を築き、それ以降は人に施しができるようになる事を目指して・・・・。そんな生き方ができるように、まずは日々精進。小さな一歩が未来を変える。地道な努力が何よりも尊いのです。
2008.09.13
昨日は、久々に親友とお昼をご一緒させていただきました。きっと彼女とは赤い糸で結ばれた仲だと、『私は』思っております。出逢うまではお互いまったく共通点のなかった二人ですが、出逢って2年近くたった今では、私にとってはなくてはならない人。彼女との距離感は心地よく、彼女との会話はいつも心弾み、彼女との時間はあっという間に過ぎていきます。そして何より、彼女の口唇からもたらされる言葉は、「今の私に一番必要な言葉」。同じ言葉を他の誰から聞いても、彼女の言葉のように私の心に染み渡り、癒し、教え導いてくれる事はないでしょう。時に親友、時に師匠と、彼女はいつでもタイムリーに私を励まし力づけてくれます。昨日は、その彼女との久々の時間。お互い時間の波を駆けずり回るかのように忙しい日々を送っているので、メールや電話でお話するひと時はあっても、なかなかお顔を見ながらお話する時間が持てないのです。でも、昨日は至福のひと時。他愛のないお話をして共に過ごす時間が、最高の癒しをプレゼントしてくれました。日々の暮らしにどんな事があっても、こうして心通わせる時間が持てるから、また明日もがんばれるのね!と思いながらの帰り道でした。そして今朝開いた本の一節は・・・・。「小さいことからすべては始まる」行く先々で愛を振りまきなさい。まず自分の家から始め、子供たちに、伴侶に、そして隣人に愛を与えなさい。あなたに会いにくる人を幸せな気分にして帰しなさい。神の優しさをあなたが身をもって示しなさい。あなたの表情に、まなざしに、笑顔に、心を込めたあいさつに。 マザー・テレサマザーテレサは、愛とは、何か大きなことをすることではないと言っています。たとえ何億円も被災地に寄付できなくても、私たちの衣類を送るとか、自分にできることをすればよいのです。小さいことからすべては始まります。いちばん身近な家族を大切にしてください。家族というのは結構わずらわしいこともあるものです。けれども身内から始めてください。人間関係は家族から始まりますけれども、それより前に、もっとも近い人間関係はあなたとあなたです。自分と自分との人間関係、これから始まります。ですから自分の事を責めて、「あれも悪い、これも悪い、もっと完璧でなければ、もっとこうしなければ」と自分を苛まないでください。自分を責めるということは、自分に対して怒りをもつこと、自分の罪悪感をあげつらうことになります。まず自分を許すことが大事です。そして自分に優しくしてあげることです。神様の優しさを自分にも示してあげてください。神様は上にいて、「あなたは悪いことをしたから悪い、あなたは良いことをしたからご褒美をあげる」というでしょうか。そういうのは神様ではありません。神様というのは、「あなたは今のあなたのままでいいのですよ」と言って、あなたを愛で包んでくださったり、あなたがより人間らしく成長するように助けてくださる方です。神様でさえあなたを裁かないのに、どうしてあなたは自分を裁くのですか。夜、寝る前に、「こういうことがよかったね、こういうことが楽しかったね」と、必ず3分だけ書いてください。自分に神様の優しさを示してください。あなたが自分自身に優しさを示し、自分を大切に扱えるようになる時に、あなたは他の人に優しさを示し、他の人を大切にできるようになります。あなたが接する人に、あなたのまなざしに優しい愛をこめることができるようになり、あなたの微笑から、あなたに近づく人は生きる喜び、生きる勇気を得ていくでしょう。(奇蹟は自分で起こす 鈴木秀子氏著より)自分をいたわる・・・。これは、昨日も言われたこと。そう、自分を愛することができればこそ、人を愛することが出来るというのは、禅語にも述べられていること。以前、学んだはずなのに・・・。学んで、実践して、体験して、何かを得て、ほんの少し成長して。また学んで、実践して、体験して、何かを得て、先よりももう少し成長して。人の成長は、その繰り返しなのかもしれません。体験や実践を得ることで、今まで持っていた知識や新しく得た知識の一滴が心の奥底魂までも染み渡り、『自分』というものを少しずつ形作る要素のなるのでしょう。必要なことは、何度も何度も目の前に訪れる・・・。そう、今の私には、「私を愛すること」がいちばん必要なこと。難なくそれを身に付けられたら、もっともっと『愛』を溢れさせることができるでしょう。そしたら、『人を愛すること』がもっと上手にできるようになるかしら。
2008.09.12
昨夜は眠る前に、『明日朝4時に起床できますように』とお願いして床につきました。午後10時にお布団に入ってから、感謝のメッセージを心の中で呟くことや瞑想する時間などを過ごして、おそらくは午後11時ころに眠りについたはずです。そして今朝は、午前4時きっかりにすっと目が覚めました。成功成功!ここ何日か自分自身を甘やかし、起床時間が遅くなっていたのだけれど・・・・。さすがに、朝の登園時間までに3時間45分あると、気持ちの余裕も違います。朝ごはんを作って、お弁当作って、お掃除洗濯を済ませて、勉強して、読書して、瞑想して・・・・、家族が目を覚ましたら、一緒に朝食をとって、後片付け、お見送り、洗濯物干し・・・。そして、ゆったりとした気持ちで朝の登園。片道35分の道のりも、穏やかな気持ちで歩くことができました。朝から良い気分だから、ゆったりとした気持ちで過ごせる。ゆったりとしているから、色々なことがこなせる。滞りなくこなせるから、家族にも笑顔で接することができる・・・。私が家族にできる小さなプレゼントは、朝の穏やかな空気と和やかな雰囲気の中での食事。そして、気持ちの余裕と笑顔です。ほんとに小さなことだけど、やはり時間に余裕がないと出来ないこと。朝の起床時間、明日も守ろうっと!と心に決めた朝でした。今朝お勉強の時に開いた本は、ここ数日常に傍らにおいているいつもの「鈴木秀子氏」の本です。奇蹟は自分で起こすその中の一章を読み深めました。『3つの価値』人間は3つの価値を作り出して生きています。一番最初は、創造することが出来るということです。クリエーションです。私たちは何かを作り出しています。例えば、あなたが誰かに微笑みかけることで、あなたの微笑を見た人が快い感じを味わうとすれば、あなたはその喜びを創り出しているのかもしれません。ちょっとしたお料理を作ってあげることで、みんなを食べさせて元気にしてあげます。あなたのしていることは、いつもすべて創造に繋がっています。それは、あなたに価値があることです。誰でも何かをしています。それが第一の価値です。二番目の価値は、体験する価値です。私たちは花が美しいと思える、誰かがしみじみと話して、一緒に生きているのはいいなと思える、そんな体験ができるという価値を持っています。人間というのは、自分で体験することができるからこそ価値があるのです。三番目は、態度という価値です。人間は態度で価値をつくりだすことができます。私たちの内には、3つの価値をつくり出すことができる力があります。第一は、何かをしてあげる、何かができる、つくり出す、行動する、価値です。第二は、何かを体験する、感動を体験する価値。いいものを味わえる、感動を味わう、あるいは嫌な感情を味わう、自然に触れてみる、そういった体験する力があるということです。第三は、自分の態度を変えることで、自分自身や周囲をすばらしいものに変えていくことができる。V・E・フランクル(精神科医)は、この3つの価値を人が生きている意味があることとしてあげ、その哲学を打ち立てました。この生きる意味を信じるとき、私たちは生きつづけられます。この章を読んでから、今日は朝の家事に取り掛かりました。家事をこなしながら、この「3つの価値」をしみじみと味わいました。今日も私の命があるということだけで、希望がある。そして、この3つの価値を駆使することで、私が生きている意味がある。この「希望と価値」を信じることで、私は今日も生きつづけられる。
2008.09.11
三位一体とか。三つの矢とか。『3』という数字には、いろいろな逸話があります。私たちワンネス・セラピストも、「心」「魂」「体」の三つの調和をとることを、日々心がけております。そして、いろいろな話をするときも、何かを考えるときも、いつも心にあるのは「3」というキーワード。今日は、朝から爽快なお天気で、お洗濯物も良く乾くでしょう。急遽おうちで過ごす予定になったので、お布団を干しましょうか。いつもは出来ないところに、しっかり手を入れて掃除してみようかしら?なんて、自分の気を盛り立てるようにいろいろと考えてはみたものの、今朝はどうしても朝から不調。不調の原因は夫の休暇。『今月も週休3日ですか?』と皮肉を言いたくなるほど、自分の心が泡立っている。あなたが休みを取ることで、私は予定が全て変更!生活リズムや、パターンはぐちゃぐちゃ!!そう心が叫んでいる・・・。でも、この状態は、本来何かを学ぶべきために与えられた試練。試練と呼ぶには小さすぎるものかもしれないけれど・・・。ストレスを感じるとき。悲しみを感じるとき。辛さを感じるとき。そんなときは、必ず「奇蹟は自分で起こす」という著書の中で、鈴木秀子氏が述べている一言を思い出すのです。奇蹟は自分で起こす『苦しみは、あなたの幸せと成長のため』苦しみは意味があって起こってきます。あなたの幸せと成長を促すために、あなたが自分で引き寄せています。だからそれを無駄にしないでください。生かしてください。苦しいときは、3つのことを心に留めておいてください。一つは苦しみには必ず意味があるということ。二つ目に、苦しみを乗り越える大きな力があなたの中に与えられているということです。三つ目は、この苦しみの最中にあっても大宇宙はあなたの味方であり、あなたにはたくさんの味方がいるということを覚えておいてください。今、私自身の苦しみは、自分の思うとおりに生きられない苦しみ。でも、それは自分自身でいつの間にか身に着けてしまった足かせ手かせによるものも大きい。いい子でありたい。良い母でありたい。よき嫁、よき妻でありたい。そんな思いが、いつの間にか強力な手かせ足かせとなって、時に私を苦しめる。さて、この目に見えぬがんじからめの縄たちを見つけたからには、不要なものは一つずつ切り離して、なおかつ自ら作り出した苦しみは取り除き、本来試練のために与えられた苦しみのみに眼差しを向けてみることにいたしましょう。事の本質、心の叫び、そんな小さな訴えの周りを、頑丈に囲ったエゴちゃんたちを片付けていったら、本当の意味と乗り越える力、そして大宇宙からのメッセージが聞こえてくるはず。苦しみを与えられる3つの意味を噛み締めながら、それを乗り越える方法を探ってみましょう。探究心は、生きる力の源です。
2008.09.10
自分に種を蒔いていたんだ!最近、そう思うことがよくあります。昨日セラピスト仲間であるTさんとも、その話をしました。彼女も私も、ここのところ本やCDの発掘発見が続いております。いつ買ったんだっけ?と記憶も曖昧な位、ずっと以前に買っていた本やCDたち。引き出しの中や、本棚の奥など、色々なところから出てくるそれらの本達は、全て「今」私達が理想とし学び、行動しているセラピストとしての日常や心構え考え方に、深く影響するような物達なのです。買ったときには、ただ手に入れただけで満足してそのままにしていたそれらの物達が、理想に向けて歩き始めた私達の前に突如として姿を見せてくれるようになりました。(それまで、放っておいたということでもありますが・・・。)買った当時、何も学びを深めていないときならば、きっと読んだり聴いたりしても深い感銘は受けなかったはず。ただ、ふーんという具合で終わったはずの物達。それらが、「今」出逢うべくして、次々とタイムリーに姿を現してくれるのです。言うなれば、ずーっと昔に蒔いてそのまま忘れ去っていた種たちが、ポツポツポツと芽吹きだしたような感じです。(整理整頓が行き届かなかった・・・、ということは抜きにしてね)一つ一つの内容が、学び実践しだした今だからこそ、荒地に染み渡る水のように魂を潤してくれる。そんな感動に日々出逢っております。毎日手にする「鈴木秀子氏」の著作の数々も、今まで読んでいたのとは違う目線で捉えらるようになった気がします。その中で、昨晩の学びの時に目にした章は・・・・。奇蹟は自分で起こす「春の使いになって」 金子みすずひばり 聞き聞き つんでたら、にぎりきれなくなりました。もって帰ればしおれます、しおれりゃ、だれかがすてましょう。きのうのように、ごみ箱へ。わたしはかえるみちみちで、花のないとこみつけては、はらり、はらりと、まきました。春のつかいのするように。 私達は日常生活の中で、いいものがあるとつい自分のものにしたくなります。しれが満足感に繋がっていきます。でも欲を出すと花が手に握れないほどいっぱいになって、萎れて役に立たなくなります。ゴミ箱に捨てなければなりません。人間の幸せというのは、八分ぐらい満たされて、もうちょっとあればいいな、もうちょっとお金があったらいいな、もうちょっとうちの子がこうなればいいな、というくらいが一番幸せだといわれます。私達はひばりを聞きながら、幸せの花を摘みます。摘んできてそれに執着しない。いいなぁと思ったら、道々にそれを蒔いて行きます。でも花が咲くのはいつか分かりません。あなたが花をそこに捨てたお陰で、種になって花が咲きましたよとお礼を言ってくれる人はいません。春の使いがすることは誰も知らないけれど、必要なところに種を落としていくのです。そして時期がくれば、芽が出て花が咲く。あなたには直接、返ってこないかもしれません。でもそこを通る人は心穏やかになります。大宇宙は循環していますから、私達の人間関係もみんな循環していきます。今ではないかもしれません。子供の代かもしれません。しかし、自分が落としたものは必ず循環して、どこかで実になって、また戻ってきます。私達は春の使いになって、すぐに実りを求めず、ちょっとエネルギーがあるときには、人に優しい言葉をかけたり、どの人の中にも良き事を見出すような目を育てることです。ゆとりがあるときにはそれができるのです。(奇蹟は自分で起こす 鈴木秀子氏著より)今、私の周りで芽を出している小さな知恵の葉たちは、私がずっと以前に未来の自分のために蒔いていた小さな種たち。今度は、その実りを自分の血とし肉として、春の使いになる事にいたしましょう。笑顔だったり、言葉だったり、しぐさだったり、はたまたセラピストとしての仕事だったり・・・家庭人としての諸々だったり、そんな私が出来る小さな種まきを、心を込めてやりましょう。たくさんの方々の心に、小さな種を蒔くことができますように。
2008.09.09
最近お気に入りの禅語は、「明珠在掌」。なんだか文字を見るだけで、パァッとそこかしこに光がはじける様に感じます。明珠とは、透明で曇りのない珠玉のこと。(禅語では、仏性や仏心を明珠になぞらえます。)掌とは、手のひらのこと。つまり「あなた自身が尊い宝物を持っている。自分の中の仏性に目覚めて生きよ。」という意味です。私たちワンネス・セラピーのセラピストは、今目の前に対峙する大切なあなたや、ここに居る自分自身の中に、それぞれの内なる清らかな姿を見出すことからはじめます。つまり、私自身にもあなた自身にも、その内側に尊い宝物が光っていて、その本来の美しい姿を出すことが大事だと教えられます。その大事な初心を忘れないためにも、心に「明珠在掌」を刻みたいのかもしれません。禅語の「明珠在掌」は、↓のような意味になります。私たちは、自分が持っている美しい宝物に気付かず、外ばかり見てもがいたり、苦しんだり、泣いたりしてはいないでしょうか。でも、だれでも「明珠」、つまり仏の心を持って生まれているのだから、自ら気付いてそれを磨けば、きっと明るい輝きを放つというのがこの禅語です。「明珠」はあなただけの個性や能力と置き換えることもできます。それに気付き、信じて、磨きましょう。 (ふっと心がかるくなる禅の言葉 永井政之監修より)ふっと心がかるくなる禅の言葉そう、これは自分自身を励ます言葉でもあります。ついつい流されてしまいそうになるとき、挫けそうになるとき、自分を信じてあげられなく成りそうなとき・・・、この「明珠在掌」を心で唱え、じっと手のひらを見つめていると、そこに気が満ちて、またしっかり磨いてみようと思えるのです。同じような事を、啓蒙する鈴木秀子氏は、↓の本で次のように述べられています。奇蹟は自分で起こす「内なる仏性を輝かせる。」その人の中にあるダイアモンドにあなたの眼差しを注ぎ続けると、中から光が溢れてきます。あなたの眼差しが外側の岩石を通り越して、通路を作ります。すると、その人の内側から光が溢れてきます。仏教では、一人一人の中に仏性があるといわれます。一人一人の中に神がおわす、といいます。人間は神の命を分け与えられていますから、神の命が一人一人に宿っています。それは宝物であり、光であって、一人一人を内から輝かせています。それが人間の本質です。一人一人宝石の光を輝かせながら、赤ちゃんは生まれてきます。しかし成長するにつれ自分を守るために、自分の周りに岩石のような殻をつけ始めます。人目を恐れたり、自分を責めたり、もっと良く完璧にと叱咤激励したりしながら岩石の殻を強めていきます。岩石の中には光がありますが、なかなか出てこられません。頑張りなさい、しっかりしなさいというと、ますます殻を硬くします。こうした現実の中で、あなたの周りの人に生き生きしてもらうためには、その人の良さを慈しみの眼差しでじっと見つめます。岩石を通り越して、その人の中にあるダイアモンドにあなたの眼差しを注ぎ続けると、中から光が溢れてきます。あなたの眼差しが岩石を通り越して、通路を作ってくれるからです。そうすると、その人の内側から光が溢れてきます。(奇蹟は自分で起こす 幸せになる1ミリの法則 鈴木 秀子氏著より)これは、セラピストとして仕事をするときや、自分自身を見つめるときの眼差し、心持ちが書かれています。この二つの教えを頂いて、自分がどう私と対峙するのか?自分がどうあなたと対峙するのか?が分かった気がいたします。私の眼差しの先で、誰かの光が溢れてくれたら、もうそれだけで今日一日を励んだ甲斐があるというもの。それは、あなただったり、わたしだったり、はたまた知らない方や通りすがりの方だったり・・・・。そこかしこに明珠の光が溢れるようになったら、この世はなんと美しい世界になることでしょう!誰にでも必ず隠れている珠鉱脈を探して、今日から発掘を楽しみましょう。何にもまして尊い宝は、そこここに溢れています。
2008.09.08
先日伯父が、硫黄島で戦死した祖父の手紙の一文を送ってくれました。この一文は、硫黄島で「生」の極限に追い詰められ、「死」への断崖絶壁に立つ祖父からの手紙の中にあったものです。 「人間が偉いか、駄目な人間かが別れるところには、ただ自己の理想のため雑念を廃して努力するとこにあります。」どんな理想を思い描き、その理想のために沸き起こってくる雑念を廃して、ひたすらにひたむきに努力することが出来るか?ただそれのみが、「生きていく意味」なのかもしれません。ちなみに私の生きるための理想は、「誰かの居場所でいられる自分になること」。掃除学、アロマテラピー、ワンネス整体、暮らし等など、私を幸せに育ててくれるすべてのことがこの理想の山を登るために必要な道具たち。どんな高い山だろうと、まずはこれらの「道具」を使って一歩ずつ歩み進めていく。もっと高いところまで登ったならば、また違う道具が必要になってくるかもしれないけれど、そのときにはまた必要なものが必要なだけ与えれるはず。山登りや修行など、人生は辛いものに例えられがちだけれど、私がこれから先も登り続けるこの山は、例え苦しい坂道でもその傍らには花や鳥が楽しませてくれ、清流が喉を潤してくれる。雪だろうが、嵐だろうが、その身を暖め、守り支えてくれる、友や家族という大きな力がいつも側にいてくれる。ゆっくりでもいい。1ミリずつでもいい。自分の山を登り続ける力を、いつも持ち続けていたいと思うのです。そして、この山を登る原動力になるのが「祈り働け」という言葉です。「祈り」には感謝と愛が含まれます。祖母の遺言の「みんなありがとうございます」を忘れずに、全ての事に感謝と愛の祈りを捧げ、全ての事にありがとうございますの気持ちを贈る。私の出来るささやかなギフト。「働け」は、生きていく力。周りの人が楽に動けるように、傍が楽になるように・・・・、はたらく。こうして、誰かが楽に、楽しくなるような何かを、自分ができることに感謝して。そういう自分に喜んで・・・・。働かせていただく。全てが、「ありがとうございます」の輪を循環して、「あるがままの自分」を上に向けて押し上げてくれる力。「理想の自分」に近づくために、「今あるがまま」の自分を少しずつ大きくし、力を付けよう。愛と感謝と喜びである「祈り働け」を魂に強く抱き、天職として与えられたのであろう「魂の豊かさを創り伝える私」、「暮らしの楽しさを生み出し伝える私」「全てが一つに繋がる道を歩み照らし出す私」という3つの道具を駆使して、理想の山を少しずつ登る。道は果てしなく遠いけれど、空は抜けるように青く、風は爽やかに心地よく、日差しは柔らかに包み込み、せせらぎは澄み渡る音を奏でる。たとえどんな試練に向かおうとも、私の魂は揺るがない。
2008.09.06
去年の今頃は、まぁちゃんの幼稚園探しに躍起になっていました。正確に言うと一昨年の今頃もなんですが・・・。ただ一昨年の場合は、早生まれのまぁちゃんが余りにも幼く感じて、紆余曲折の後生まれた我が子を少しでも長く手元に置いておきたくて・・・・、翌年入園の2年保育でもいいか・・・という想いがあったためか探す情熱もいまいちで、結果よい幼稚園とめぐり合うことが出来なかったんだと、今になって思います。これが、吉と出るか凶と出るかはまだ分かりませんが、何事もご縁と機の熟しがあるので・・・。そして、去年はさすがにちょっと焦った幼稚園探し・・・。色々な幼稚園の話を聞いたり、見に行ったりで、情報だけは山のようにある中、どうして今の園を選んだのかというと・・・・。一つ目は、本人がここが好き!と言ったこと。二つ目は、園児と先生や保護者やボランティアの方々との係わり合いや信頼関係が、とっても大きく、美しく、清清しく思えたこと。そして、最大のポイントの三つ目は「祈り」があること。幼稚園は教会系のため、何かをするときには必ず「お祈り」をしてから行動に移ります。それから、初めて幼稚園見学に行った際、先生が仰った一言にノックアウトされてしまいました。「お名前を書いていただいてもよろしいですか?出来れば、お子様お母様のお名前を・・・。」と言われ、きっと見学者名簿にでもされるんだろう位に思って「はい」とお返事した後、「ではお願いします」と出された用紙に住所氏名を記入していると、先生が次の一言を仰いました。「今日ご縁を頂いたまあちゃんと佑啓さんの事をお守りくださいと、教会員の方々にも祈って頂くために、この名簿を教会にも見せて構いませんか?」この一言が、たとえ毎日送り迎えが必要だとしても、お弁当を作る手間がかかろうとも、無認可だろうとも、園児の数が少ない小さな幼稚園だろうとも、ここに決めた!にさせてくれました。たった一時間弱滞在し、園を見せて頂いただけの者達のために、「祈り」を捧げて下さるなんて!!もうそれだけで、感激して涙が出そうな一言!そうして、まぁちゃんは今通っている園に、入園することになったのです。「祈り」この言葉に、とても強く、えも言えぬ程の美しい言霊を感じていました。この言葉との出会いは、「トラピスチヌ修道院」に掲げられた「祈り働け」の文字。もちろん、それまでにも「祈り」という文字は色々なところで目にしていたはずなのに、この時くらい「祈り」と「働け」という文字が魅惑的に見えたことはありませんでした。その後、私の精神を司るキーワードとして、常々に私を導いてくれた「祈り働け」の文字に更なる意味付けをしてくれたのが、鈴木秀子先生の著書の数々です。中でも、幼稚園選びをしていた時に読んでいた↓の本に、ちょうど「祈り」の事が書いてありました。奇蹟は自分で起こすこの著書の中で、彼女は次のように述べられています。私たちは価値を創造することができます。私たちができる一番大きな価値あること、それは祈ることです。祈りは一つも無駄にはなりません。祈りは大宇宙の波動に乗って伝わっていきます。人間が極限状態に陥ったとき、多くの人は力萎えて死んでいきます。けれどもそのような状態になっても死なない人は、「きっと誰かが自分のために祈り続けていてくれる」と確信している人たちだそうです。その人たちは、今は孤独ですべてを剥ぎ取られ、死に追いられているけれども、自分は孤独ではないと感じていました。亡くなった父母や身内の人たち、あるいは地上で生きているかどうかも分からない人たちが自分と繋がっていて、祈り続けていてくれる、ということを確信していた人たちでした。この地上の目に見える世界ではなく、心の深い所で人間として命が繋がっている、みんな共に命が繋がり、お互いに助け合っている・・・・。ということを確信するとき、人は生き続けられるといいます。私たちの存在は波動として、お互いにいろいろな影響を与え合っています。この言葉で、私の中の「祈り働け」が肉付けされました。何故祈るのか?に対して、答えが降ってきたのです。同じころ、『ワンネス』とも出逢いました。そこでセラピストになるべく学び進めていくうちに、私の中の「祈り働け」に骨格ができました。そうして出会った幼稚園だったから、あの一言に胸を打たれ、今日に至っているんだと、昨晩の瞑想中に閃いた事。日課の夜の瞑想は、その間中心の中で、今日の出会いや嬉しかったこと、大切な方々などに「ありがとうございます」と感謝を述べ、明日の息災を祈ります。色々な方との出逢いが増え、色々な事への興味が増していく中、瞑想の時間もどんどん長くなりつつありますが、それもまた楽しい時間。人々に感謝できる自分で居られる事に「感謝」して。今日もまたささやかな「祈り」を捧げることにいたしましょう。
2008.09.05
昨日は、まぁちゃんの幼稚園の始園式。子供と共に、新しい節目を喜びたい・・・。まぁちゃんの通う幼稚園は、その趣旨の元共に過ごす時間を設けていただいております。入園以来、様々な行事の中で我が子の姿を垣間見るとき、その成長を喜ぶ自分がいると共に、また別の目がいくつか自分の中にある事に気付きました。一つ目は、自分を見る自分の目。二つ目は、自分がどう他人に写っているのか気にする目。三つ目は、他人が我が子をどう見ているか気にする目。四つ目は、我が子の中に自分を見る目。そんなたくさんの目を持って、我が子の後姿を見ている自分に気付き、ちょっと自己嫌悪です。自分を見る目と、自分が他人にどう見られているかを気にする目は、まだ自分に関わることだから良しとしましょう。これを気にしすぎても問題だけど、気にしないと野放図になってしまいそうですから。でも、他人が我が子をどう見るかという目は、ちょっと問題。自分が我が子をどう見るか?ならば、優しい子とか我慢強い子等など、少なからず「○○の子になってほしい」という願望がありますから、その自分の願いに沿った子育てをして、出来る限りその想いを受け取って成長してほしいなと思っています。自分が・・・ならば、その裏に自分自身という責任が発生するし、その結果はすべて自分が刈り取るもの。でも他人が・・・というのは、私の「人の目を気にする」エゴでしかない。私の「○○の子」という願望の中に、「他人様に迷惑をかけない子」という物があります。、その目的に沿ってきちんと善悪を教え導く子育てをしていれば、本来「他人の目」は気にならないはず。もしも我が子がご迷惑をおかけしているということが分かったら、その相手に対してきちんと誤りその後の修正ができるはず・・・・だと頭では思っているのに・・・・。何もする前から、なんとなく牽制している自分を発見。これでは、まぁちゃんの心のフィールドはどんどん狭くなってしまいます・・・。のびのびさせるためにも(子供らしい子というのも願望の一つですから・・・)、もっと私が大らかでなくっちゃ!と、今日からの私のあり方を再度認識させられた日でもありました。そして、一番厄介なのが「我が子の中に自分を見る目」です。まぁちゃんが無事この世に生れ落ちた瞬間に感じた事を、4年半も経つと時々忘れてしまいます。『胎内にいた時はまさに一心同体だったけれど、身二つになった瞬間から私の我が子は別の人格。』そう思って育てよう!と心に決めたはずなのに、成長と共についつい我が子の中に自分を見つけてしまう事が、私自身を無分別にしてしまうのかもしれません。この子の中には、私とは違う何かがある・・・と思えるときは、まだ自分と自分とは異なる存在である我が子との距離感は、上手に保てます。違う何かを持つことが、親にとっても嬉しい事であればなおさらです。そして、この子の中は、親が持つ○○の片鱗(自分に自信があるもの)を受け継いできてくれている、そう思えるときもやはり嬉しく感じます。うーん、文字にすると勝手な親だ・・・。ただ子供の中に、自分が持つ嫌な部分を見たとき、もしくは自分は気付いていなかった自分の嫌な部分を見せ付けられたとき、ついつい自分のコンプレックスを目の前に引き出されたような気がして、とたんにナーバスな気分になってしまいます。いやぁ・・・、ほんととんでもない親だ・・・。でもね。考えてみたら、そんな嫌な自分も自分であることには変わりないし、本来は受け入れてあげるべき自分であるわけです。どんな部分を持つ我が子を責めることなく、自分が嫌いな自分も自分が好きな自分も全て認めて、我が子の事とともに自分も受け入れる・・・・ことにしよう。そう決めたとたんに頭の中に浮かんできたのは、「インナーチャイルドセラピー!」という言葉。セラピストとしてはとっても馴染み深いセラピーを、自分自身にやることにしましょう。これから度々行事で一緒になる事が多くなる我が子の後ろ姿を見ながら、きっと私の「インナーチャイルド」ちゃん達も癒されるかしら?そして、そんな私の後姿を見ながら、まぁちゃんは何かを観じてくれるといいな。敬に居て簡を行う(人に優しく 自分に厳しく)を心に掲げ、実りの秋を進みましょう。(敬に居て簡を行う・・・・正しいと思ったことを貫くのはいいけれど、その尺度を他人に押し付けてはならない。人付き合いの第一歩は、相手を思いやる気持ちから・・・・論語より)
2008.09.04
私の、朝の起床時間は、4時!そう心に決めて日々取り組んでいるものの、子供が夜中に目を覚ましたとか、ついつい読書に明け暮れたとか、秋に向けて手芸で心を落ち着かせ・・・なんてことをやっていると、夜はあっという間に更けていき、そして翌朝の目覚めに差し障り・・・・。もともと寝るのが大好きな私・・・。ちょっとでも遅くなってしまうと、翌朝の目覚めにすぐ響いてしまいます。ただこれまでの私と違うのは、どんなに遅く眠っても翌朝5時までには目が覚めること。去年の今頃の私だったら、考えられないことです。そして、おととしの私だったら、きっと思いつきもしなかったこと。もちろん幼稚園のお弁当作りという仕事もあるにはあるのですが、それよりも「自分のやりたい学び」が目の前で手招きして起床するのを手伝ってくれているようです。ちょうど昨晩寝る前に開いた「論語」の本の一ページに、今の私の状態が書かれてありました。ほっとする論語70お友達と一緒に4月にお習字を始めて、自分自身の励ましにするために買った本ですが、今はお習字のためというよりも日々の教えを得るために活躍してくれています。「性は相近し、習いは相通し ~習慣が人を作る~」やろうと思ってもなかなか出来なかったことが、習慣にしてしまうといつの間にか身についている。山男は目覚まし時計を使わず、起きようと思った時間ぴったりにパッと目を覚ます。山から下りてきても彼に目覚ましは不要だ。人間は元々体内時計を持っている。太古から人間に組み込まれているこの能力を、時計に頼らない事を習慣にしたお陰で山男は自ら引き出した。起きようと意識して起きるのではなく、体が無意識の内に彼を起こす。人間には生まれる前からよく生きるための能力が色々と備わっていて、引き出されるのを待っている。習慣によって第二の天性はパッと目覚める。(ほっとする論語 杉谷みどり 氏著より)確かに、過去には考えられなかった早起きが習慣づくことで簡単にできるようになりました。習慣づけるためには最初が苦しいけれど、それを超えてしまうと無意識の中で出来るようになりました。自動車や自転車の運転しかり、料理や掃除などの家事しかり・・・・、頭で考えて動くのではなく、無意識に腹の部分で考えて動いている・・・・。そんなことがたくさんあります。人は3割程度の能力しか使っていないとのこと。ということは、あと7割も眠れる獅子として自分の中の檻に閉じ込めてしまっている。わー!なんてもったいないんでしょう!引き出されるのを待っている能力を早く目覚めさせて、第二の天性を花開かせたいなぁ。一に習慣、二に習慣、三四はなくて五に習慣。さぁ、励みますわよ。
2008.09.02
「大丈夫!大丈夫!」これは、私自身を励ます言葉。私が新しい何かに向かい合うとき、私が苦手な何かに向かい合うとき・・・・。「大丈夫!大丈夫!」そうおまじないの様に唱えて、自分自身を励まし、力づけ、奮い立たせていた言葉。このおまじないは、私自身には絶大な効果を発揮して・・・・・。今まで何度と無くやってきたいろんな試練を乗り越えるときもそっと背中を押してくれたし、新しいことにチャレンジするときも逸る心をコントロールしてくれた。そんな効果絶大なこのおまじない・・・・。誰にでも効きそうな気がして、ついつい多用していました。一番の被害者は、我が愛娘。彼女が何かにチャレンジするとき・・・・。彼女が恐怖や後悔の念に襲われているとき・・・・。ついつい口にしていた「大丈夫!大丈夫!」。でもこのおまじないは「言っている本人」、もしくは「その時と場を共有する者」以外には効かないおまじない。口癖のように言っていたこのおまじないの効果が無いこと、いや逆効果にすらなることを指摘していただいたのは幼稚園の先生。『「大丈夫!」と太鼓判を押されても、本人は大丈夫じゃないから不安になったり恐れたりしり込みしたりしているんです。同じ場所同じ時を共有して、その気持ちを共に分かち合える事ができないなら、決して安易に「大丈夫!」なんて使うべきじゃない。声をかけてあげるなら、「○○はできたんだってね。すごいね。」とか「○○できるようにがんばろうね」とか、「応援してるからね」というような言葉にしてください。』そうご指摘を頂いて、はっと我に返りました。確かにそう・・・。「大丈夫!」そう笑顔で私が言うたびに、まぁちゃんの顔は曇っていっていた。「大丈夫だから!」そう追い討ちをかけるたびに、まぁちゃんの顔は泣き顔になった。言葉はとっても繊細なもの。時には刃以上に心に突き刺さる。たとえ「良かれ」と口にしたことでも、それがどれだけのガラスの破片になって人々の心を傷つけることになるか・・・・。今、知ることができてよかったと思います。ついつい人は、大人目線、優位目線で話がち・・・・。どんなときも同じ目線にいるために、今日得た教訓は天からのメッセージ。「大丈夫」を多用しない・・・。そう心に決めた今日は、またひとつ歩みを進めた日でもあります。「大丈夫」は、私だけのおまじない。さて、あなたにはどんなおまじないを差し上げましょう?とっておきの言葉を捜してプレゼントできたら、それだけで心が近づける気がします。
2008.09.01
ここ数日自分を見つめる日々をすごし、細胞とともに意識も魂も少しずつ生まれ変わって再生している気がします。身も心も生まれ変わった気分で・・・・。よくそんな表現をしますが、頭だけではなくそれが心身で理解できるような気がします。頭、心(魂)、体のすべてに、自分の理想を刻み込んで暮らす。これが染み渡ったときには、きっと目の前の風景がまったく違うものに変わっているはず・・・。そんな、未来の自分を喜びながら、今の自分を慈しむ。毎日が満たされたものになりそうです。私の基軸を作る言葉は2つ。ひとつは「みんな ありがとう」。これは、祖母の遺言です。この言葉にありがとうセラピーの教えを加え、「みんな ありがとうございます」を常に心に唱えるようにしています。時間があるとき、食事を作る時、歩いている時、とにかく心で唱えるのは「みんな ありがとうございます」。目の前の人や事やもの、未来、過去、大切な人々、自分自身等など、そのすべてにありがとうございますを唱える。それだけで、自分の心持が随分優しくなるような気がします。そして、ふたつ目は「自灯明 法灯明」(自分とその信じるものをよりどころとして)「闇の中で前を照らす明かりが無くなったらどうしますか。進むのをやめる?後戻りする?そんなときは自分自身を灯明だと思って進めば良いのです。自分の生き方、自分の存在こそ前を照らすヘッドライトだと思えばよい。自分を信じて前に進みましょう。それが「自灯明」です。だれも足下を照らしてくれないからといって、泣き言をいっている余裕はありません。もし道を踏み外したら、誰のせいでもなく、あなた自身の責任です。「自灯明」は、依頼心を捨てることの厳しさを教える言葉でもあるのです。自分を灯明にする自信など無い、という人の支えになるのが「法灯明」。仏法つまり仏の教えが灯りとなってあなたの足下を照らすでしょう。自灯明で道に迷ったときも、自分が信じるものをよりどころとして、「法灯明」で進めるはずです。闇の中で途方にくれて時間を無駄にするより、一歩ずつでも自分自身を灯りとして進むことです。(ふっと心が軽くなる禅の言葉 永井政之氏監修より)この2つの言葉を基軸にして、自分の道を進むのだ!!「信念を持て」と昔よく言われていたけれど・・・・。今は、信念を持つことの大切さがとってもよく分かります。「今」を「信じる」「心」を持って、それを支える言葉を掲げ、自らの道を進みましょう。開拓の喜びを持つことが生きる喜びにつながるとは、この歳になって初めて知ったこと。これから先の一瞬一瞬は、そのすべてが開拓者。人生を豊かで実り多い土地にするために、精一杯開墾いたしましょう。死の瞬間は、収穫の喜びで満たされますように。
2008.08.30
昨日、自分がシフトチェンジするのを感じた。今日は、朝の新聞とともに配達された一冊のフリーの情報誌の中に、一つの道を見つけた。私自身が、大きな転換期を迎えていると感じる今、速さは加速度的に増して行き、見える風景はどんどんと変化して行く。それって何なんだろう?そう思いながら眠りについた昨晩。そして、今日の答え。見えない大いなる力が、私の質問に回答してくださった気分で、とっても気持ちの良い朝を迎えました。その答えとは・・・・。『運命のレールを変える女、変えない女』運命は思い通りになるものだが、思い通りにならないと思い込んでいる人がなんと多いことか。例えば、あなたは列車で、運命のレールを走っていると想像してみるがいい。いつもと同じレールを走っているということは、周りの景色も変わらず、出逢う人のレベルもいつも一緒。さて、仕事もマンネリになり、新しい出逢いを望むべきもないと、仕事を変えたり、環境を変えようと思い悩む時期が誰にでもあるだろう。つまり、レールを変えなければと焦ってしまう状況。ところが、レールを変えるということは、貴方が思っていることとまったく違うもの。貴方の心のあり様を変えなければ、職場が変わろうと、環境が変わろうと、いわゆる景色や出逢う人のレベルは何一つ変わらないし、同じレールを走り続けるだけ。だからこそ、現状のまま、レールを変える方法を知ることが先決だ。それには、心の容量を変えることができなければ、永遠に新しいレールに乗り換えることができないと、気づくことから。これもまた、心の容量はいつでも変えることができるが、変えることができないと思い込んでいることに問題がある。心の容量は感謝によって増えていき、大きくなっていく。運命の人に出逢えない貴方は、今の現状に感謝していないのかも知れない。「ありがとう」の言葉をあまり使っていないのかもしれない。本当の「ありがとう」は、貴方が何かを得したから口に出す言葉ではなく、今の貴方の存在自体に感謝の気持ちを持つこと。例えば、嫌なことや不利益になることがあったとしよう。それもこれも、自分に何か大切なことを気付かせるために起こっている出来事。貴方の成長の糧になることばかり。つまり、そういう時こそ、「ありがとう」を心の中で呟くべきなのだ。その時、レールのポイントが切り替わる音が聞こえ、貴方は違うレールを走ることになる。(リセット9月号 エッセイ赤い糸 風水師 バンコラン藤崎氏 著 より)去年の後半から、大きなうねりを感じていました。良い仲間に出会い、良い教えを頂き、支えられ、助けられ、今に至っています。もちろん、ここ一年の間、精神的にも肉体的にもアップダウンがあったことは確か。良いときは、まるで雲の上を歩くような感じで何事も楽しく、悪いときはとことん落ち込む・・・・。そんな日々をすごして一年。この8月半ば過ぎから、自分自身のレールの切り替わる音を聞いたような気がしました。ここ一年、自分自身が歩き、紡ぎ、作り出してきた「日々の暮らし」が、同じものを見ても今までとは違った風景に見えるような気がする・・・・、そう感じ始めて・・・。シフトが変わって同じ道を楽に上がれるような気がしてきました。状況が加速度的に変化して行く。自分が加速度的に変わっていく。その答えは、シフトチェンジとレールチェンジ。今までの自分とは違う。今までの場所とは違う。心の容量も変化して、運命も変化して。この先は、まだまだ厳しい山道なのかもしれないけれど、シフトチェンジ、レールチェンジして、レベルアップした私なら、また乗り越えられる山道!どうせ登るからには、世界一高い山の頂を人生のゴールにしてみましょう。そして、どのポイントを通過するときでも、すがすがしい風と、心地よい光と、美味しい空気と、やさしい木陰と、穏やかな湖面を常に観じていましょう。ほ~ら、全身全霊が心地よい。
2008.08.29
結婚して10年あまり・・・。私の10年は、自分探しの10年でもありました。独身時代はそれなりに人生を謳歌していたし、社会人としてもそれなりに評価されていた結婚までの年月。親にも大事に育ててもらって、大きく自分の羽を伸ばし羽ばたくことができた日々。そんな毎日から一変しての結婚生活は、私自身のそれまでの「自己」をとことん否定され、「私」を見つめ直し、問い直すという渦の中に強制的に放り込まれた毎日でした。地方出身の義両親は、それぞれが男尊女卑の強いところで育ちました。そんな親元で育った夫は、今の人には珍しいくらい強い男尊女卑の持ち主です。もちろん結婚前にはそんな片鱗さえ感じないほど、私自身が盲目になっていたんでしょうが・・・・。「お前に何ができる!」「女は子供を生む道具」「(私は2人姉妹なので)女しか産めない親は、行いが悪い人間だ」「女はどうせ人にくれてやる物だから、片手間に育てられた物。そんな不出来な物を貰ってやったんだからありがたく思え!」「自分は生きているだけで社会的価値がある。お前など虫けらと同じくらいの価値しかないんだ!」などなど、夫や親族から連日のように「私」の「存在」を否定され続け、「女」という部分を貶され続けました。ここで文字にして、自分でもよくここまで言われて一緒にいたなぁと感心しますが・・・。ただ今にして思えば、この10年は今までの奢り高ぶった「私」を完全に駆逐し、新たな私を構築する10年でもありました。こんな事がなかったら、人のやさしさなんて気づかなかっただろうし・・・・。こんな事がなかったら、セラピストになりたいなんて願望も持たなかっただろうし・・・・。こんな事がなかったら、「感謝」と「愛」についてなんて考えることなかっただろうし・・・・。「今」の「私」はもちろんゴールではないけれど、ゴールまでの「今」という通過点にいる「私」という存在はそれなりに満足できるものになりつつあります。一昔前に私が思い込んでいた『「自分」に対する評価』は、今の私にとっては何の価値もないもの。もちろん過去があるから現在の自分があるわけですが、過去の自分が創造もできなかった自分になっている現在、ありとあらゆるものへの見方ががらりと転換したのを感じます。20世紀は物質の世紀。物を作り求め消費する時代だったと言われています。21世紀は精神の世紀。精神の充実を求め、自己の霊性を高めることが必要な時代だそうです。そんな時代の転換期に、物質や経済至上主義の中で育ってきた自分とその価値観を悉く粉砕し、精神の充実と人としてのあり方や生き方を求めることに喜びを感じる「私」に上手にシフトチェンジできたことは、今思えばありがたいことです。変化や挑戦が人一倍嫌いな夫との関係は、今も10年前とは変化しているように思えません。毎日顔を合わせていれば、まだまだやも多々あるけれど・・・・。ここは「私は私」と割り切って、私の人生を謳歌し全うし、生まれてきた使命を果たすためにこの命を捧げる事にいたしましょう。シフトチェンジ!心を上手に操って、人生の道を賢く走って行きましょう!「私の道」は、ぐんぐん前へと伸びている。そして、もう私は停まらない、停まれない。
2008.08.28
まぁちゃんが寝てから夫が帰宅するまでの1時間、昨夜の読書タイムでした。本棚から一冊取り出し、椅子に深く腰をかけ、まぁちゃんの寝室から聞こえてくるリラクゼーションミュージックをBGMにして、大好きなアロマの香りを炊いて、私だけの瞬間に落ちるひと時。物理的には我が家を一歩も出ることはないし、いつもの部屋でいつもの家具に囲まれての読書タイムなのですが、心は大海原か大宇宙を漂っているような超リラックス状態です。1時間余りのその状態の中で、心に留まった一説は・・・・。世界一簡単に幸せになれる「ありがとう」の魔法「運命と宿命は違う」人間にだけ「運命」があります。「命を運ぶ」という力を授かっています。動物たちは「宿命」しか持っていません。運命と宿命は同じようなものだと思うかもしれませんが、まったく違うものです。運命とは、その字のごとく主体的に命を運ぶことです。しかし、宿命とは、その命に宿った「本能」という設計図のとおりに生きているということです。自分の命を運ぶことを自覚し、命の運び方次第で自分の人生を意図的に、自由に変えられるのは人間だけなのです。ほかの動物にはなく、人間にだけ、自由に人生を変えられるために与えられた道具が3つあります。それは、笑うことすなわち「笑顔」、呼吸を整えることすなわち「呼吸法」、そして言葉(イメージ)です。この3つの道具は、ほかの動物は持っていません。まず、笑う動物はいません。呼吸は他の動物もしていますが、呼吸を自覚して呼吸をコントロールすることはできません。人間は、ヨガや瞑想で行っているように、呼吸をコントロールできます。また、息を吐いて、吸ってというふうに、腹式呼吸や丹田呼吸法という形で自分の呼吸をコントロールすることができるのです。また、人間は自分で考え、さまざまな人生観を持つことができます。どういう生き方をすべきか考えて、自分の生き方を自由に選べるのです。あるいは、どんな人生にしたいかを自分で決め、意図的に意欲的に生きることができます。その道具として、言葉とイメージがあるのです。(世界一簡単に幸せになれる「ありがとう」の魔法 野坂 礼子氏著より)笑顔が与える力の大きさは、計り知れないものです。笑顔をいつも心がけるだけで、そこがぱっと花開いたように明るくなります。もちろん最初は作り笑いでもOK。鏡を前に魅力的な笑顔研究をすることで、そしていつもその顔を作る訓練を続けることで、いつの間にかその魅力的な笑顔は自分の顔になってしまいます。口角や、表情筋、目に意識をこらして・・・、はい!笑って~~!そして呼吸法。リラックスするときの深い呼吸、気持ちが落ち着かないときの浅い呼吸・・・・。呼吸に意識を向けると、自分の心理状態が手に取るようにわかります。もちろん、相手もね・・・。ワンネスを学びはじめて以来、瞑想は私の暮らしの一部になりました。方法や手順は今回は割愛して・・・。瞑想で呼吸をコントロールし、(地球や宇宙からの)愛を吸って、(頂いた大いなる力に対しての)感謝の気持ちを吐く・・・ということを心がけるようになってから、心身ともにしなやかになりました。そして、3つめの道具である言葉やイメージ。いわゆる「引き寄せの法則」といわれるように、良いイメージや良い言葉を使うことで、良い事や良い人や良い時と出会えるようです。自らの生きる理想をしっかり掲げて、人間だけが持っている3つの道具を駆使しながら、自らの人生を意図的に意欲的に生きていく・・・。さぁ、楽しみ!!自灯明 法灯明で生きてみることにいたしましょう。
2008.08.27