神経症を完全には治さない
神経症になると生きることがつらい。なんとかしてこの心の苦しみを無くしたい。みんなそう考えます。雲ひとつない真っ青な秋空のような状態を求めます。こういう治り方は問題があります。つまり、治り過ぎ症候群です。私の知り合いにもいます。森田の第一段階の治り方で森田卒業と考えている人です。蟻地獄の底から地上に這い出し、生活が元通りにできるようになった。苦しくても、「なすべき」方向に舵を切ってゆけるようになり、以前よりも成果が上がるようになった。人からも評価されて、自信もでてきた。そんな自分の体験を絶対的なものだと思い、人にアドバイスをするような人です。本人は間違っていない。正しいことをしているのだと思っているのかもしれません。でもまだまだ悩みを持って苦しんでいる人から見ると、尊大で鼻持ちならない人に見えてしまうのです。つまり、悩みの最中の人に共感的受容の気持ちがなく、自分の考えを一方的に押し付ける。自分が治ったということを誇らしげに自慢しているように見えるのです。悩みの最中の人から見ると、以前症状に振り回されながらも、けなげに生きていたころの状態がよほど思いやりがあり、魅力的に見えてしまうのです。「過ぎたるは及ばざるよりもなお悪し」と聞いたことがあります。苦しんでいる人は不安や恐怖、不快な感情をすべて取り去りたい。たとえて言えば、無菌状態にしたいと思っておられると思うのです。苦しみの最中におられるときは無理もありません。でも無菌状態にして、集中治療室に入っていつまでも生活できるわけではありません。外に出たとき、無菌状態では抵抗力がなくて、すぐに悪い細菌が忍び込んできて体全体がやられてしまいます。ですから神経症を直すのもほどほどにしなさいということを言いたいわけです。強迫行為の人は、確認行為をして時間のロスがあったけれども、最終的には電車に乗って会社に行けた。不安神経症の人は、特急電車には乗れないけれども、各駅停車で目的地には行けた。対人恐怖の人は、ビクビクハラハラしたけれども、時間をかけて準備をしてプレゼンができた。このような状態の治り方を目指してくださいということです。多少は気になる部分、治らない部分をそのまま残しておいてくださいということです。その段階で治りましたと高らかに宣言をしてくださいということです。スッキリしない。まだ不安がある。苦しい。なんとかまだまだよくなりたい。無理もない考え方です。こんなふうには考えられませんか。曲がりなりにも目的は達成している。ということは、ほどほどには治っているのだ。それで十分だ。なんとか社会生活を送れる。社会に適応できて自立して生きていける。そこを神経症治療の最終目標にされてはどうですか。完全に治すと、課題、問題点、改善点、目的、目標はなくなります。実はこのことが一番問題なのです。当然森田理論学習には用がなくなります。完全に治っていないからこそ、生涯学習として森田を学び続ける意欲がわいてくるのです。なんでもできるように思えますが、実際には生きる目的を失ってしまう。生きがいを無くしてしまう。私もまだ完全には治っていない。2分や3分はまだスッキリしないところがある。その状態でも治りましたと言っているわけです。それは100%治すということは、それなりの弊害があるという事例を見てきたからそう思えるようになったのです。だからあえて、スッキリしない部分を残しておこう。いやそうしなければならないのだと固く言い聞かせているのです。