「物の性を尽くす」ということ
森田先生は、昭和13年4月12日、 64歳で亡くなっられました。昭和6年3月にも大病をされて生死の境をさまよわれました。その時の事を次のように話されています。今度、私の3月の病気の時も、自分は心臓性の喘息であるから、命が危ないと思い、古閑君か佐藤君か、よく覚えていないが、死んだら解剖のことを頼み、また井上君や山野井君や修養のできた人には、危篤の電報を打ち、香取君には電話で、きてもらった。それは私が死ぬる今はの実際の状況を見せて、参考に供したいと考えたからである。つまり、肉体的解剖でも、臨終の心理的状況でも、これを無駄にしないで、有効な実験物として提供したいので、あるいはこれを功利主義と言えるかもしれないと思うのである。 (森田正馬全集第5巻 白揚社 113ページより引用)自分が死んだとき献体をして医学の発展のために役立ててもらいたいというのは、果たして何人おられるだろうか。また、意識が朦朧となり、臨終の時に当たって、その時の様子を、今後の参考のために、弟子たちに見せておきたいという気持ちになるような人がおられるだろうか。私はここに、森田先生の「物の性を尽くす」という考え方が非常によく出ていると思っている。「物の性を尽くす」というのは、一般的には物を粗末にしないで生活すると言う意味に捉えられやすい。以前滋賀県知事が、 「もったいない」運動で県知事に当選したことがあった。森田先生の言われている「物の性を尽くす」と言う意味はそれとは違う。元滋賀県知事のいわれているのは、無駄な出費は拒否するという考え方なのだ。森田先生のいわれているのは、その物の持っている存在価値、性質、潜在能力、資質、性格などを見つけ出して、極限にまで活用し、活かし尽くすということである。これは物だけに限らない。自分や他人を含めた生きとし生けるもの、お金や時間も含まれる。例えばお金でも、 100円を1,000円に、 1,000円の1万円に、そのお金の価値をもっともっと活かして使いなさい、と言われているのである。この「物の性を尽くす」という考え方が、神経症が治るということにどう関係しているのか。神経症に陥っている人は、自分の症状のことばかり頭の中にある。その状態の時は、目の前のなすべきこと、課題、目標の達成は頭の中にはない状態にある。考えることや行動が、ほぼ100%症状をなくすることに片寄っている。神経症から回復する過程においては、その比率が少しずつ下がってくる。反対に、目の前のなすべき事、課題、目標などを考えることが多くなってくる。その時に、ただ単に注意や意識が外向きになってやみくもに行動するだけでは心もとない。その状態はハツカネズミが糸車を回している様に見える。治すことを目的とした行動になっているのだ。神経症の苦しみがなくなると、またもとの木阿弥になる可能性が強い。自分が動き回るのは、そうすることによって症状を取ることが目的となっているのは問題だ。ただ単に治すために行動するのではなく、生活の必要に応じて行動することが大切である。そうすると、行動によって感じが発生して高まり、気づきや発見が生まれてくるようになる。ここが大事なところです。ここでもし「物の性を尽くす」ということを、そこに取り入れるとどうなるか。たとえばパチンコ好きの人がいるとする。1回勝負すると3万円も使うこともあるという。「物の性を尽くす」ことを実践に取り入れている人は、「お金の性を尽くそう」と考えるので、お金の無駄遣いはできなくなると思う。それよりも年間の生活の予算管理を立てたり、家計簿をつけたりして、無駄使いを避けて、出来る限り有効活用を考えるようになるだろう。その工夫が次々に浮かぶことになる。高良武久先生は、 「物の性を尽くす」にあたっては、贅沢三昧の生活を抑制することが大切であると言われている。私もこのことは強調しておきたい。贅沢なものばかりに関心があると、大抵、日常の小さいことに対する喜びがなくなるのです。珍しいもの、刺激のあるものに目が奪われて、そのものの存在価値、潜在能力の発掘には目がゆかなくなるのです。これは森田理論を活用するという点から見ると、とても残念なことです。路傍の草に咲いている花を見ても喜びを感じると言う風になると、見栄えのしない花だけれども、こういう物には、ランの花に及ばない情緒がある。すべてのものは、そのものの個性があって、他のものと比較にならない価値がある、と思えるようになる。その価値を発見し、その価値を評価して、最大限に活かすことを考えるようになる。人間もそうですね。自分の不足している部分にばかり目を向けていると、自分のもともと持っているものについては関心が無くなってくる。自分の持っているものを大事にして、ある点では人に及ばないところがあるけれども、自分自身の値打ちというものは、やはり他人と取り替えることのできないものだという事を自覚し、自分の存在価値、能力、神経質性格を存分に活かしていくことが大切です。それが結局は他人のためになることになり、人間関係は改善してきます。(生活の発見誌 1977年7月号より引用)