子供の人格や存在価値を認めるとは!
森田理論学習をしていると、 「まるごとの相手を受け入れる」という話を聞く。この点に関して、高垣忠一郎氏が次のように説明されている。まるごとの相手の存在を肯定するということは、 「相手のここがイヤだから」 「あそこが気に入らないから」という理由で、相手の丸ごとの存在や人格そのものを拒否しないことです。他者は自分とは異質な存在で、時に違和感を感じ、 「虫の好かない」ところがあるのが普通です。だからといって、それを拡大して相手の人格攻撃や存在否定をしないということなのです。考え方や性格の違いがあっても、そうだからといって相手のすべてを否定してはいけません。相手を丸ごと受け入れるということは、相手のすべてを好きになるということでもありません。それは凡人にはとても無理なことです。嫌いな部分がたくさんあっても全然構わない。相手に何か違和感や不満を感じるところがあっても、相手が今ここに生きて存在していることを受け入れる態度を維持していればよい。親子関係で言うならば、自分の期待通りに我が子が反応してくれるとは限りません。それは、我が子は自分とは異質な心や感受性を持って生きている「他者」だからです。高垣氏は、我が子に対して異質性や違和感を感じることはたくさんあるといわれます。でも私は、いつも丸ごとの我が子の存在そのものを肯定し、愛しているのです。それは私が「他者」である我が子の中にある異質性を受け入れる努力をしてきたからです。そういう努力なしに相手の丸ごとを受け入れるということは出来ません。子供を丸ごと受け入れるという事は、子供のすべてを好きになるということではありません。また、子供を丸ごと「よし」と評価することでもありません。いろいろと気に入らないところがあっても、子供の存在を拒否しないで「ゆるす」ということなのです。(生きづらい時代と自己肯定感 高垣忠一郎 新日本出版社 参照)子供の存在を拒否しないということは、基本的には生命体としての子供の存在を尊重していることです。子供の存在を尊重していると、イライラしたり不満なことがあるからといって、すぐに子供の人格否定するような言動はしなくなります。あるいは、子供を見放して放任してしまうこともありません。健やかな成長を願って、たとえいがみ合うことがあっても、基本的には温かく見守っているといってよいと思います。根本的なところで、親の大きな包容力を感じることのできる子供は信頼感と安心感があります。でも、時として危険な行動や他人様に迷惑になるような行動をとった場合は、親は毅然とした態度で注意する必要があります。子供の何でもなんでも許すということではないのだ。そうでないとただの過保護になってしまう。むしろ、子供を愛しているからこそ、止むに已まれぬ行動をとる必要がある場合がある。親が自分の意思を貫き通したからといって、子供の根本的な人格や存在を否定したことにはならない。これは「かくあるべし」の押し付けではない。子供の将来のことを考えての「しつけ」である。「しつけ」は親の不快な気分を子供にぶっつけるものであってはならない。でも立派な大人になるために必要不可欠なものである。そういう「しつけ」をされた子供は、大人になって親に感謝するようになると思う。親子の関係は、大きな波風が立っても、子供の人格や存在の肯定があれば大丈夫なのではなかろうか。これは森田でいうと子供の現実、現状をありのままに認めて許すということだと思う。