自助組織のルーツを探る
自助組織である生活の発見会のルーツを探ってみた。1929年(昭和4年)森田正馬先生のもとで、形外会が始まった。これは森田先生のところで入院治療を受けた人が、月に1回森田先生の家に集まっての懇話会であった。ここでは、神経症のことにこだわらず、人生や日常生活の問題なども話された。この会合は、昭和12年4月まで7年4か月、合計66回開催されている。その内容は森田正馬全集第5巻にすべて収録されている。今読んでもとても参考になる。その後森田先生は昭和13年4月に64歳の若さでご逝去された。形外会の参加者の中に水谷啓二氏がいた。水谷啓二氏は昭和7年から昭和13年まで森田先生のところに居住しながら熱心に森田療法を学ばれた。その後森田関係の図書の執筆活動を続けられていたが、それに飽きたらず、新しい活動を始められた。水谷啓二氏は昭和31年、自宅を開放して、形外会方式での相談会として「啓心会」を始められた。翌昭和32年には、機関紙「生活の発見」誌の発行を開始した。この名付け親は社会運動家永杉喜輔であった。そして昭和34年からは、啓心寮と精神科医の協力のもとに啓心会診療所を始められた。森田先生の入院森田療法とほぼ同様の活動内容である。森田療法で神経症者を救うために、全身全霊を持って打ち込んでいかれた。しかし残念なことに、昭和45年3月58歳という若さで亡くなられた。その後、「生活の発見」誌の同人であった長谷川洋三氏が中心となって再建に立ち上がった。ここでは、生活の発見会を医療の場から切り離し、会員相互の支え合いと森田理論学習の全国展開が決定された。この方針の決定が大きな転換点となった。自助組織としての生活の発見会の誕生は極めて歴史的意義がある。その後、組織は急速に全国に拡大し、 1993年には会員は最大となり6,000人を超えた。発見会活動はどの県でも活発であり、集談会は全国で約120カ所以上であった。生活の発見会は1998年、保健衛生の分野で優れた業績をあげた団体に贈られる「保健文化賞」を受賞している。その後、活動は停滞しているが、それでも会員2000名を超えるようなNPO法人はほとんど存在しない。余談だが、その後の森田療法は、元メンタルヘルス岡本記念財団理事長のご尽力により、中国をはじめとする海外において目覚ましい拡大を遂げている。現在、神経症の治療としては、薬物療法、カウンセリング、認知行動療法を始めとする精神療法が主流である。森田療法はそれらに比べると後塵を拝している、しかし森田療法にはそれらにはない優れた面がある。それは、神経症の治療にとどまらず、神経質性格を持った人がいかに生きていくべきかという生き方モデルを提示している点である。だから生涯学習として森田理論学習を続けている人が多いのである。今後森田療法は、生き方モデルとしての側面を大いに磨き、人のため世のために貢献していくべきだと考える。現在は生まれ変わるための過渡期に当たると考えている。苦しい時期であるが、森田理論は必ず評価される時代が来ると信じている。