許容力が人間関係をよくする
「ベてるの家」の活動に参加している加藤木さんが次のような話をされている。自分のいろんなことが許せなかったんですよね、もうぜんぶ罪、罪悪感が大きすぎて。生きてること自体も存在自体も罪で、生きていること自体でいろいろな人に迷惑かけるし・・・いま、それが全然なくてすむのは、許されたって。いままで過去のことも許されたし、いま自分が起こすいろんなことも許されるって、やっぱ、うん、それは大きい。大きな違いはそこですね。許されているというのは、「そのままでいい」ということであり、「問題だらけ」が当然ということであり、失敗しても「それで順調」ということだ。あなたは病気のあなたのままでいい、北海道の浦河に来たといってもかならずまた問題を起こすだろう。しかし問題があるのが「べてるの家」であり、ここではだれもがそれを当たり前だと思っている、問題を起こしていいのだといわれ、そして実際そうなったときはじめて、加藤木さんはこころの奥深くで、ここでは「すべてが許されている」という思いを持つことができた。こんな自分でも、ここで生きていていいのだという思いを抱くことができた。「ベてるの家」の仲間は、だれもが「そのままでいい」という。いや、ことばでいうより、そういう目で、混乱した自分を穏やかな笑いとともに見ている。問題だらけの、失敗してばかりの自分を。理屈ではないその視線、態度、しぐさに「いいんだよ、それで」というオーラがにじみ出ている。そのやさしさ、ありがたさ。とはいえ、どうもそれは仏の慈悲のようなものではなく、「しょうがない、お互いそうなんだから」という、あきらめにも似た許容であるようだ。そんな、決して高尚とはいいがたい「べてるの家」の人々の空気、態度、ふるまいが、自分たちには好ましい。(治りませんように ベてるの家のいま 斉藤道雄 みすず書房 189ページ)「ベてるの家」で活動している人たちは、みんなが許容の心を持っていて、お互いにどんな問題を起こしても寛大な気持ちで対応できているようですね。私たちは自分の価値観で、たえず相手の考え方や行動の是非善悪の判断をしています。自分の価値観に合わなければ、即座に非難、叱責、否定しています。上から下目線で相手を眺めているのです。こんなことを続けていると、人間関係はいつも対立的になります。人間関係が悪化してしまうとつらい人生が待っています。この呪縛から解き放される日はやってこないのでしょうか。この問題に正面から取り組んでいるのが森田理論だと思います。森田理論では、上から下目線の「かくあるべし」を相手に押し付けるのではなく、悪戦苦闘している相手に寄り添うことを提案しています。これが「ベてるの家」でいう許容にあたります。そのためには、相手の言いたいことを素直に聞くことが肝心だと思います。自分の言いたいことがあっても、まず相手の話をよく聞くことです。この順序を間違えてはいけません。この順序を間違えると、例えば東京から大阪方面の新幹線に乗るべきところを、東北新幹線に飛び乗るようなものです。順序を間違えると、相手は心を貝のように閉ざしてしまいます。その心を再び開かせることは容易ではありません。そして再び心を開くことはないかも知れません。これができれば第一段階の関門は通過できます。ここを無難に通過しても、まだ自分の考えを出すのは早すぎます。相手の話に対して、非難、否定、説教、指示をしてはいけません。私メッセージを活用して、「あなたの話を聞いて、私はこう思いました。それで間違いありませんか」と投げかけることです。相手は自分に寄り添ってくれていると感じるようになります。そこから温かい人間関係が持てるようになります。