柔順と盲従の違いについて
20歳の水谷啓二氏が森田先生のところに入院されていたころのことです。森田先生が、水谷氏に「今ここで三べん回って、わしにおじぎをして見給え」と言われたそうです。女中さんなどみんなが見ている前で、犬のような真似をするのは、いくらなんでも恥ずかしい。しばらくためらったが、私は思い切って、不格好にもぐるぐると三べん回って、先生の前で頭を下げた。森田先生は苦笑いして言われた。「それは柔順ではなくて、盲従というものだ。君は、わしが言ったことを取り違えている。柔順な人は、自分の心に対しても柔順なものだ。君はいま、こんなことをするのは恥ずかしい、という気持ちが起こっただろう。それが君の正直な気持ちだ。そして、その正直な気持ちを押しつぶすようにして、ええい、やっつけろ、という気持ちでぐるぐるまわりをしただろう」まったく図星で、返す言葉もない。「こんな場合、本当に柔順な人であったら、困ってもじもじするか、あるいはそいつはどうもとかいって、頭をかくだろう。いくら柔順に実行すると言っても、ばかげきったことで、先生の言葉に従う必要はない」ここで森田先生は「柔順」と「盲従」の違いについて説明されています。その違いについてもう少し詳しくみてみましょう。人間には様々な感情が湧き上がります。怒り、腹立たしさ、恥ずかしさ、嫉妬、心配、不安、恐怖、不快などです。この例では「恥ずかしい」という感情が湧き上がりました。森田理論ではどんな感情も自然現象なのでそのまま味わうしかないと説明されています。「柔順」というのは、その感情の事実に対して反抗的な態度をとらないことだと思います。「君は今恥ずかしいという感情で一杯なんだね」と寄り添うことが柔順ということになります。「盲従」というのは、好ましくない感情が湧き起こったとき、身体に近づいてきた虫を手で追い払うようなことをしているのです。森田先生は好ましくない感情を押しつぶすようなことをしてはいけないと言われています。どんなに好ましくない感情であっても、反旗を翻してはいけない。恥ずかしいという感情を忌み嫌う、取り除こうとする、逃げ出すというのは間違っているということです。台風がきたときに、柳の木は身が引きちぎれるのではないかと思うほど荒れ狂っています。巨大な松の木は少々の台風に対してはびくともしません。でも台風が通り過ぎた後、柳の木は何ごともなかったかのようにたたずんでいます。時々巨大台風が通り過ぎあと、びくともしないと思われた松の木が倒壊して無残な姿をさらしていることがあります。感情の取り扱い方としては自由が効かないわけですから服従するしかありません。松の木は歯を食いしばって抵抗していたわけですが、その限界を超えた時力尽きたのです。私たちは柳の木から感情への対応方法を学ぶ必要があるようです。これを前提として、次に感情と行動はきちんと区別することが必要になります。感情に対しては完全服従、行動はその時その場でもっとも適切な行動を選択する必要があります。お辞儀の例では、森田先生が理不尽なことを指示して、水谷氏がどんな対応をとるか見ようとしておられるわけですから、「先生、そんな恥ずかしいことは勘弁してくださいよ」と言ってかわしていけばよいのではないでしょうか。森田先生も理不尽でばかげきったことに従う必要はないと言われています。