嫌疑恐怖について その1
生活の発見誌4月号から高良武久先生のお話です。学校の先生がここに入院していたけれど、その人は学校で時計がなくなったときに、自分が疑われたような気がして、非常にいやな思いをして、それから時計を自分で持つことも苦痛になったというんだね。時計っていうと、すぐにそれを連想するから。我々はそういうとき、疑われちゃ困るという気持ちが起こるけれどね、どこに重点を置くかというと、「自分は時計を盗んでいない」という事実に重点を置くわけだね。他人がどう思うかってことは、これは二の次なんだよね。そういうふうに嫌疑をかけられることを恐怖するのを、嫌疑恐怖というんだけれど、そういう人は、他人がどういうふうに思うかってことに重点を置くんだな。自分が実際そういう悪いことはしなかった、ということに重点を置かないでね。実質に重点を置くか、あるいは仮の自分、見せかけの自分に重点を置くかで、大変違うんだね。それを極端に言えば、自分は貧乏であっても困らないけれど、人から貧乏だと思われるのがいやだ。自分は気が変であってもかまわないけれど、人から気が変だと思われるのはいやだ。極端に言えば、そうなんですね。自分の実質を良くすれば、次第に人も自分の実質を認めてくれて、大体正当な評価をしてくれるようになるんだけどね。他人の思惑というものを、ある程度気にしなければ、人間はエチケットも守れないね。人が自分をどう思うかということを、ある程度気にするということが必要なことなんだけれども、人の思惑ばかりを非常に重大視するようになると、これはマイナスになるね。我々が服装を整えたりするってこともね、自分として気持ちがいいということの他に、他人から見ていやに思われないようにしたいという気持ちがあるわけです。だから他人の思惑というものは、対人関係においていつも、我々が意識しなくてもあるんだな。だけど、そればかりを意識してもしなくてもあるんだな。だけど、そればかりを意識しだしてくるとね、自分が非常に束縛される。こうやったら人がどう思うだろうか、こういうふうなことを言ったら人が自分に対してどう思うだろうか、どう反応するだろうか、ということをいつも問題にするから、ぎこちなくなるね。自分の起居動作、言葉というものをいつも意識しなくちゃならないからね。つまり、人からどう見られるかという「見せかけの自分」というものに非常に重点を置いている生活態度だね。対人恐怖症の人は人の思惑がとても気になります。「見せかけの自分」ではなく、「実質の自分」に重点をおいて生活するためにはどんなことを心かけていけばよいのでしょうか。長くなりますので明日の投稿課題といたします。出雲大社