是非善悪の価値判断をしないということ
帚木蓬生氏の言葉です。「考える」行為は、なぜか実を結びません。5分以上考えると、脳が傷むからでしょう。反対に、いくら見つめても、脳は傷みません。傷むどころか澄んでくるのです。見つめる対象は、外界である場合がほとんどです。しかし、動物と違って、人間は自分の心の動きも見つめられます。自分が怒っている。悲しんでいる。ドキドキしている、緊張している、怖がっている、頭の中が真っ白だ、といった状態を、人は見つめられるのです。自分を見つめるのは、人の特権かもしれません。特権ですから、大いに発揮してしかるべきです。ところが、ここに「考える」が入り込むと、事情がややこしくなります。たとえば、人前で緊張しているので、恥ずかしい、こんなのでは人から笑われてします、緊張しないようにしようと考え始めると、事態は複雑化します。人前で軽くスピーチをするとき、自分は緊張する、これは、自分を見つめる行為であり、自然な成り行きです。にもかかわらず、緊張してはいけない、恥ずかしい、人に笑われる、何とかせねばならない、と考えるのは、よけいな心配です。堂々巡りの心配の挙句、生じる結果は2つです。ひとつが回避行動で、人前でのスピーチを避けるようになります。この回避行動は、それだけで終わらないのが特徴です。回避行動は次の回避行動を呼び、回避しなければならない場面が、ねずみ算式に増えていきます。もうひとつの結末は、緊張を鎮めようとして、ますます緊張してしまう事態です。声がふるえるのを抑制すれば、ますます声は上ずってきます。緊張する場面は、当然緊張する。恥ずかしいことは、当然恥ずかしい。この「当然」に、よけいな「考え」がはいり込むと、森田正馬のいう「悪智」になります。不可能な事態をひたすら考えていると、身動きがとれなくなります。それでは、どうしたらよいのでしょうか。見つめよ、逃げるな、です。逃げず、緊張しながら、スピーチをすればいいのです。頭が真白になったり、声が上ずったり、声がふるえたり、顔が赤くなったりするかもしれません。それはそれで、そんな自分を見つめればいいのです。あれこれと考える必要は一切ありません。この「見つめる」をつきつめていくと、ハラハラドキドキを「味わう」次元にまで達せられます。足がふるえている自分を味わうのです。声がふるえている自分を味わうのです。情けないとか、人に笑われるとか、「考える」必要は全くありません。(生きる力 森田正馬の15の提言 帚木蓬生 朝日新聞出版 34ページから38ページ要旨引用)