マクドナルドの創業者は52才で1号店を開いた。
〓マイケル・キートン、マクドナルド創業者の伝記映画に主演交渉《やり遂げろ〓この世界で継続ほど価値のあるものはない。才能は違う。才能があっても失敗している人はたくさんいる。天才も違う。恵まれなかった天才はことわざになるほどこの世界にいる。教育も違う。世界には教育を受けた落伍者があふれている。信念と継続だけが全能である。》俳優のマイケル・キートンが、米ハンバーガーチェーン「マクドナルド」の創業者レイ・クロックを題材にした映画「ザ・ファウンダー(原題)」に主演する交渉を進めていることがわかった。米ハリウッド・レポーター誌によれば、キートンはジョン・リー・ハンコック監督(「ウォルト・ディズニーの約束」「しあわせの隠れ場所」)と1月12日に面会後、クロック役のオファーを受けたという。製作を手がける米フィルムネイションは、トム・ハンクスにアプローチしていたが、合意には至らなかったようだ。同作は、1950年代、米イリノイ州出身のセールスマンだったクロックが、南カリフォルニアでスピーディなサービスが売りのハンバーガー店を経営するマック&ディック・マクドナルド兄弟と出会い、やがて巨大ファストフード帝国「マクドナルド」を築き上げていく過程を描く。「レスラー」のロバート・D・シーゲルが脚本を執筆した。キートンは、主演作「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」で、ゴールデングローブ賞映画部門の主演男優賞(コメディ/ミュージカル)などを受賞し、今年の賞レースをにぎわせている。〓〓〓〓〓マクドナルド・システムの創業者、レイ・クロック〓レイモンド・アルバート・クロック(Raymond Albert Kroc,19xxx-xxx-xxxxx)は、チェコ系の両親の家庭で、イリノイ州シカゴ西郊のオークパークに生まれる。高校中退後、第一次世界大戦中に15歳で救急車ドライバーの訓練を受け衛生隊に所属、この同じ衛生隊には1才年上のウォルト・ディズニーもいた〓終戦後はピアニスト、紙コップのセールスマン、ジャズ演奏家、バンドメンバーなど職を転々とした。 1941年には5種類のミルクセーキを同時に作る機械「マルチミキサー」の独占販売者となり、国中を旅してまわった。1954年、カリフォルニア州サンバーナーディーノで1940年に最初のマクドナルドを開いたマクドナルド兄弟と出会う。マクドナルド兄弟は、1937年に、アメリカ東部のニューハンプシャー州から移住し、カリフォルニア州パサデナでドライブイン・レストランを開店した。当初はホットドッグ屋だった。 1948年に一度閉店をし、改めてスピーディーなサービスシステム、工場式のハンバーガー製造法、セルフサービスの仕組みなどを考案した上で、1948年12月にカリフォルニア州サンバーナディーノで始めたハンバーガーのドライブインストアで再オープン。これが現在のマクドナルドの原点となった。クロックはこの効率化された調理システムに興味を持ち、兄弟と交渉してフランチャイズ権を獲得、1955年4月にイリノイ州デスプレーンズに最初のフランチャイズ店を出店した。 1955年3月、52歳の時にマクドナルドシステム会社を設立(1960年にマクドナルドコーポレーションに社名変更)。レイ・クロックは、最初はミキサーを売りに兄弟の店にやってきただけだったが、セルフサービスの同店は客席の回転率が大変高く、相当数の人数の客を次々とさばいていた。すっかり感心したクロックは、ミキサーのメンテナンスで次にやってきたとき、システムをフランチャイズ形式にして、システムそのものを売る商売を始めてはどうかと勧めた。兄弟は「自分達の為にこの店をやっているだけで、フランチャイズをするつもりは無い」と消極的だったが、結局「兄弟はこの店以外干渉しない」「クロックはこの店には干渉しない」「マクドナルドという名とシステムは、クロックが事業に使う」で合意。兄弟が要求した契約金もかなり高かったものの、クロックの野望は第一歩を踏み出す事が出来た。クロックはマクドナルドを売り込むために熱心に働き、この当時(1955年)、開業目前だったディズニーランドの中にマクドナルドの食堂を入れるよう、かつての戦友ウォルト・ディズニーにも直接会って積極的に売り込んだ。この試みは失敗したが、クロックは故郷のイリノイ州デスプレーンズにもどり、最初のフランチャイズ店を出店、たちまち大成功する。1961年にはマクドナルド兄弟から商権を270万ドルで買収した。裕福になり余分な仕事をしなくてもよいと計算した兄弟は、兄の引退も理由となって、270万ドルでマクドナルドの全権利をクロックに売り渡すことで合意した。当時のクロックにとっては余りにも高額だったが、投資者をかき集めて支払った。投資者の中にはプリンストン大学も含まれていた。この契約で兄弟は、自分たちの店を "The Big M"(ザ・ビッグM)という名前に変えて続けてもよいことになっていた。しかし、兄弟の店は閉店して現存しない。1965年に株式公開、1984年までには世界34か国で8300店舗を開いた。1955年から1968年までマクドナルド社長、1968年から1977年まで会長、1977年から1984年まで上級会長を務め、生涯で5億ドルの富を築いた。〓職権は仕事とともにあるべきだ。たしかに間違った決断もおかしてしまうだろうが、それが人々を企業とともに成長させる唯一の方法なのだ。抑え付けようとすれば、息が詰まってしまい、良い人材は他へ流れていくだろう。〓Kakkaコメント〓セルフサービスの食堂という発想は、おそらく第一次世界大戦で、はじめてヨーロッパ大陸に大量の兵士を送り込んだアメリカ軍がつくり出したものだ。荒野の野戦病院で、アメリカ軍部当局はボーイスカウトのようなキャンプ・イベントをやり、アメリカの食べ物を持ち込み、兵士たちがホームシックにならないように努力した。それを経験したクロックとウォルト・ディズニーは、実は同じアイデアをもっていたのだ。いまは普通になったセルフサービスのレストランは、ディズニーランドも同じシステムを導入した。大きな違いは、テイクアウトを前提にしていないだけのこと。しかし、二人の偉大な戦友が協力しなかったのは一つの奇跡だった。もしいっしょにやっていたら、世界のマクドナルドは、ディズニーランド内のハンバーガー店ひとつで終わっていただろうから。