劇「屠畜場の聖ヨハンナ」を観に行きました。夢や希望は叶う?神は存在する?
東京演劇アンサンブルの劇「屠畜場の聖ヨハンナ」を観に行きました。仕事帰りに行ったのですが、会場のブレヒトの芝居小屋のある武蔵関駅は、準急と各駅しか停まらないのに気づかず、急行で高田馬場駅まで行ってしまい、引き返してきました。開演時間にギリギリ間に合って良かった。入間おやこ劇場にきた招待券で観に行ったのに遅れたらまずいものね。前から二列目の低い席だったので、お尻が痛くなってしまったけど。「『屠殺場の聖ヨハンナ』はブレヒトの共産党入党のころの戯曲で、アプトン・シンクレアの小説「ジャングル」に外枠をかりつつ、ブルジョアの冷酷さと巧かつさをあばいたもので、シカゴの屠殺場街をバックに、教会の救世軍の“戦士”であるヨハンナの貧民に対する“救済活動”と労働者に接しての動揺と労働者の味方に徹しきれなかったが故の破滅までの何日かを描いている。」暗いテーマだけど、割と良かったですね。ただ、台詞を忘れて棒立ちになり、楽屋から助け舟が4度くらいあったのにはガッカリ。アドリブでもいいから続ければいいのにとも思ったが、ブレヒトの戯曲の台詞を大事にしてるのかも。だったらちゃんと台詞を覚えて欲しいなあ。まあ、私もパステル音楽館のチャリティコンサートのオペレッタでは台詞を直前まで覚えきれずに苦労しましたが。後でHPを見たら、今日が初日だったのですね。これからは良くなるかな・・・ヨハンナの歌は割ときれいだった。夢の中の群衆のダンスは長過ぎる感じ。次の台詞は本当にその通りだと思った。まさに「衣食足りて礼節を知る」ですよね。「みなさん貧乏人たちは十分に道徳というものを持たないとよく聞かされます、それはそうかもしれません。あの下層階級のスラム街には、不道徳が巣くい革命の温床となっています。でもわたしはみなさんにおききしたいのです。その貧乏人がなにひとつ持っていないのにどうして道徳だけが持てるのですか。みなさん、道徳を買う購買力というものがあるです」ヨハンナは労働者側に立とうとしているのに、意に反して資本家に利用されようとしているのに気づき抵抗する。それでも死後、聖ヨハンナとして偶像化されてしまう。神を弱者の唯一の救いとしたように、犠牲者を崇めることで弱者を慰めようとするのだ。まるで靖国神社の英霊のように?今の日本も、不況の中で格差が広がり、不満を国外に向けるべく愛国心を高めようとしている。またきな臭い不安定な世の中になってきてしまった。この劇の世界大恐慌の時代が過去のこととは思えなかったほど。いろいろ考えさせられました。******************************************翌日、映画「それでも夜は明ける」を観て、またいろいろ考えました。奴隷から解放されて家族に会いたいという希望を胸に耐え忍んだのですよね。その希望が無ければ生き続けることはできなかったかもしれない。でも、この劇で印象的なセリフを思い出しました。「労働者から資本家、下から上につながる道があると思ったら、それは板でシーソーになっていた。下の者が上に行くとシーソーが下がってしまう。だから下が上に来ないように、それも下が多数になって安定するように操作してるのだ」と。上にいく希望を持っていても、上には決して行けないということ・・・?テレビのアメトークで「夢を持つな!夢が叶うと言ってるのは、夢が叶った一握りの人間だけだ。ほとんどの人間は夢は叶わない。」と言ってる芸人が居て、確かにそうかもと納得してしまう自分が悲しい。でも、長女マッキーが教えてもらったブロガー・チキリンも同じようなことを言っていた。過大な夢は抱かず、現状に満足、小さな夢を叶えて満足してる方が心が安定すると。主人に「生徒に希望、夢は持つなと教えるのか?」と言われたけど、過大な夢は持つなと言った方がいいかもしれない。「少年よ大志を抱け」と言うけど、大志のambitiousも英語のニュアンスでは野望に近いらしい。でも、これを読むと野望ではないのかな・・・「Boys,be ambitious! Be ambitious not for money or for selfish aggrandizement, not for that evanescent thing which men call fame. Be ambitious for the attainment of all that a man ought to be.少年よ大志をいだけ!お金のためではなく、私欲のためでもなく、名声という空虚な志(こころざし)のためでもなく、人はいかにあるべきか、その道をまっとうするために大志をいだけ。」 難しい。人は夢や希望を持ってないと生きてはいけないかもしれないけど、それが叶うかどうかは分からない。また、神が居ると信じても本当に居るかどうかは証明できない。神が人間を創造したのではなく、人間が神を創造したのかも。どん底でも希望を持てるように、神を創りあげたのでしょう。神は乗り越えられない試練は与えない。神は人間を愛しているからと。たとえそれでもいいからと信じる者は救われるのかもしれない。この劇の救世軍を観ていると、労働者を絶望することなく働かせるために神を存在させてる?また、映画のように奴隷が現世の苦しみを来世の幸せを願うことで忘れさせるために。植民地にするために宣教師を利用したように、奴隷や労働者にもキリスト教を利用する?「神は自ら助く者を助く」ではなく、「神は神を助く者を助く?」金持ちしか救わないのでは意味がない。貧しい者こそ救われるべきだけど、救われるから貧しさに耐えろというのは逆な気がする。私も一応クリスチャンだから、つい考えてしまうのだけど、あまり考えすぎると嫌になる。幼児洗礼を受けさせた親に反抗したけど、「神が居るかどうかわからないなら、居る方に賭けて信じた方が心の平安が得られる」と言う友の信仰告白を聞いて、私も信仰告白をした。今でも、本当に神が居るかわからないけど、信じることにしよう。この劇や映画を観て、ますます神への疑問・矛盾を感じるけど、自分や人間が信じられないからこそ、何かを信じたいのですよね。盲目的に信じることはしないけど、神に居てほしいと思う。それこそ、大きな夢や希望かもしれないけどね。