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高校生時代の恩師である野球部の監督が高校野球連盟(通称:高野連)の関東高校野球連盟の会長に就任した。 来る7月7日にその就任祝いを兼ねて私の先輩(野球部)である大きな割烹料理にて輿水野球の教えの元、部員達OBが勢ぞろいする事となった。 輿水野球の黄金期15期の終盤にあたる13期が私の時代であった。 さて・・本日の地方紙(山梨日々新聞)にはタイムリーにも恩師である輿水氏の記事が載っていた。 恩師は普通の進学高校である母校を野球の強豪高校として長い歴史に一石を投じた敏腕監督であった。 その敏腕と言われるものの実態はいわゆる過酷な練習である。 敏腕などとはかけ離れてる非常にメンタルを重視した練習内要に野球部希望の生徒の家族からも「吉○高校に行くと潰される」と恐れられたほどだ。 紙面にも書かれているように練習を休んだ日は暮れと正月の二日間のみだった記憶があります。 私が高校に進学した年はいわゆる輿水野球が2回目の甲子園に出場した翌年でした。(15年間で3度甲子園へ普通進学高としては驚異) こうやって見ると難関大阪を何年もの連続で勝ち抜いてるPL学園がいかに凄いのかが伺える。 母校は、2年生エース(後の全日本大学大会優勝投手)と2年生の4番打者(後にプロ野球へ)を残しての今シーズンは2年連続を照準に定め、非常に気合が入っており・・私を含め遠方からもココの高校へ甲子園を夢見て入部してきた野球小僧がうじゃうじゃいました。 練習はすでに中学を卒業したばかりの高校にあがる前(春休み)から参加しなければ入部出来ないという・・ま・・なんていうルールなんだ(--; その時点で練習について行けないものは入学する前に退部させられるという・・・なんとも・・恐ろしい・・ところへ入部してしまったものだなぁ・・というのが本音であった。 春休みが終わるとすでに新入部員は1/3に減り・・ 彼らは他の体育部へと流れていった。 入学してからの練習は・・世間で言われていた以上にそれは厳しいという世界をはるかに超え・・毎日が憂鬱の連続でした。 また・・普通進学校という観点からも勉強はしなくてはならず・・高校時代の3年間だけは自分でも良くやった・・と褒めてやりたい。 現在でも大抵の困難ならば・・野球部時代を思い出せばなんなくクリアー出来ます。あのときを思い出せばたいした事は無いって。 ま・・・・私は特別そんなに大変だったわけではないが・・・同じ高校の中でも「特進」と言われる・・いわゆる勉学における超エリート集団でも野球部に入っているやつらがいたが・・・あいつら・・良く体が持ったなぁ・・。 そんな懐かしい思い出を持った「輿水野球」のOBが勢揃いする7月7日が楽しみで仕方ない^^ ちなみに・・おいらは投手だったのだが・・・輿水野球最低の成績だった事は間違いない。。 新チームになった当初、負けなしで秋の新人戦の選抜(春の甲子園大会)に選出出来るかも知れない・・というチーム事情の中、秋の大会ベスト16で2本のホームランを打たれて負けてしまった。。。。 しかも・・翌朝の新聞には「初めてホームランを打った」などと・・相手のチームの9番打者のコメントを見て・・野球を止めようと本気で思った。 その相手チームはその後ミラクル市川と言われ、甲子園でもベスト4まで勝ち進むチームとなった。 甲子園でも3試合連続で延長での逆転勝利を収めたあのチームのきっかけを作ってしまった。。 その後、選抜甲子園へ行けなかった思いをきっかけに・・あきらかにチームはやる気をなくし春、夏の大会は芳しくない成績で私の高校野球生活は終止符を打ちました。。 ・・まさに黄金期の恥部である。 7月7日はOBの中でも特に小さな態度で望みたい。。。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007/06/26 01:47:07 PM
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