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■第六章 江戸幕府■ 【与一の語ること─後編─】(前回より続いております) 友野与一。 歴史に埋もれたはずのこの少年の生涯を、私は不思議な縁で知ることになるのです──。 時は変わって平成の世。 私は大学院生になっていました。高校も卒業し、静岡という土地とのご縁も薄れ始めていました。ある時、私は静岡の何処かに、仲間達のグループでドライブしに行くことになりました。 この日は晴天でしたが、目的地(それは忘れた)があったのになかなかたどり着けず、私たちは近くにたまたま見つけた小さくはないお寺の境内に車を停めて、いったん休憩することにしました。 吸い込まれるように──などという自覚はその時はありませんでした。 私はつい歴代のお坊さんたちが眠っているとおぼしき丸い塔のあるお墓の方に足を向けていました。古い古いお墓が並んでいます。その列のさらに奥まったところに、なかば崩れかけた塔頭があるのを、私は見つけました。 無縁墓か──ひと目で思ってしまう、それほどの破れよう。 石にかろうじて刻まれた文字を見るともなしに見た私は、自分の目が動かなくなるのをはっきりと感じました。 寛文□□年□□延宝□□□□□友野与一郎水仁□□… 深良用水の開削は寛文年間のことです。 そして、友野与一郎とは、友野座のひとり息子、与一。 至極当然のように私は思い当たりました。 長崎に流されたはずの少年の墓が、なぜ静岡にあるのか。 彼は静岡に戻ってきたのか──もしそうならば、手足の指が失われ、額に烙印を持つ者が自力で戻ったとは考えにくい。彼の身を憐れんだ誰かが戻したというのか? 中学生の折に読んだ古文書によると、友野が沼津で斬首された後、与一は両手両足の指を切られ、額に焼印を押されて母親のりつとともに長崎に流された後、あとを見ないとされています。 友野が斬首に至るまでには、キリシタンバテレンの法を使ったやら、天狗の呪法を使ったやら、およそいいがかりとしかいいようのない理由をつけられたのですが、これはとりもなおさず与一に関わる嫌疑であるわけです。 けれども、与一は当時前髪おろしであって元服していなかったため、かろうじて斬首はまぬがれました。工事ではのべ八十万もの人間を動員した少年を殺すことを、地元の民の一揆を恐れた幕府が躊躇したとも伝えられています。 長崎に流されたはずの少年の墓が、なぜ静岡にあるのか。 彼は静岡に戻ってきたのか──もしそうならば、手足の指が失われ、額に烙印を持つ者が自力で戻ったとは考えにくい。彼の身を憐れんだ誰かが戻したというのか? 私はこのお寺のことを、俄然調べてみる気になりました。 見れば、臨済宗のお寺です。静岡に臨済宗──私はなんとなく違和感を感じました。 そして、すぐさまご住職をつかまえて、お寺の沿革を尋ねました。すると、ご住職は大変に不思議なことを言い出したのです。 「たしかに、この寺は今は臨済宗ですが、江戸時代初期までは曹洞宗だったのです。曹洞宗だった頃の僧侶が、手足を切られた隠れキリシタンの者をかくまっていた咎でいったん廃寺にされたのです。それから七十三年後に別の宗派である臨済宗が新たに開寺して、今日に至っています──」 手足を切られた隠れキリシタンをかくまった…。 この時の私の驚愕が、皆さまにはおわかりいただけるでしょうか。 しかし、私は別のことにも思い至っていました。 七十三年も時を経て、誰も所以を知らなくなった頃、なおも宗派を変えて改開しなければならなかったほど、このことは当時は大事件──言ってみればスキャンダルだったのだ…。 「かくまわれていたキリシタンのお墓は、あちらですね」 私はご住職にかの破れ墓を指しました。ご住職はいぶかしみ、 「キリシタンの墓はここにはないと思います。なぜならその咎でここは廃寺になったわけですから…当時かくまった僧侶とそのキリシタンは江戸の品川に引いていかれ、同日、高輪の札所で火刑に処されて死んだと伝えられています」 それでも、誰かがまたこの寺に与一の墓を作ったのだ──私は震撼しました。 罪人に処されたために、友野座の墓はもとよりありません。 しかし、友野とその息子を、水神のような信心でもって見上げていた当時の駿東の衆が、その命あるかぎり、友野座の末裔を守ろうとしたのではないか…。 不二の麓に、いわれなき仕置きを受けた与一を長崎から戻し、灯台もと暗しと言わんばかりの隠すに最適な場所、仏閣にかくまい、それをすすんで許容した僧侶すらいた。不幸にもそれが明るみになり、与一が品川で処刑された後も、誰かが、いや皆してひっそりとその菩提を弔ったのではないか──今は誰も知る人もいないままに。 浅草に生まれ、父とともに駿東に赴き、江戸で捕らえられ、長崎に流され、さらに駿府に匿われ、最期に品川で処刑される──長かった旅が終わろうとしたその時、十七歳になっていた与一は何を見たのか。身体を焼く熱風と焔、いっときの苦しみ、懐かしい人の顔、父と母の、友の顔、見ることのなかった恋人、得ることのなかったわが子の顔…。 一介のキリシタンとして死んでいく者を見物する人々の中には、「その昔、水神と崇められた友野与一とはこの人のことだ」と胸の内で叫んでいる者もあっただろう。 帰宅の後、私は単独で史料を集め始めました。 郷土史家の知遇を得たこともさいわいし、不思議なことに、ひとつ史料を見い出すと、まるで仲間を呼ぶかのように次々と古文書が見つかっていきました。 そのひとつ、『駿河志料』によると、この廃寺について── 「洞家禅寺なるが、何れなる由にかありけん済家に転じ…」とあり、 『駿府政事録』には「寛文七年九月十三日、今日与一郎、関東より捕らえらる。両手の指を切断、焼印を額に押す。この者を助けた者は罰せられるとの制令を添え、これを長崎に追放す。彦坂九兵衛これを承る…延宝元年正月十七日、駿府の僧、件の与一郎を匿い処罰さる」 また、『修訂駿河国新風土記』の著者新庄通雄は深良用水の通水から百年後、十八世紀の駿府の国学者ですが、彼はその中でこの寺のことを、 「寺之事、もとは曹禅師の末寺なり。いつより今の宗になりしや…」と記し、 「通雄(作者)案ずるに、駿府政事録(前述の書)に記載さる与一郎なる一件が関わるかと──」と推測しています。 一旦廃寺になったこのお寺が再興されるのは、七十三年後です。 禁制のキリシタンを匿うことはお上に逆らうこと。与一がキリシタンであったかどうかは疑いがあるとはいえ、その嫌疑をかけられて仕置きにあった者を、宗教的にも敵対する仏僧が匿った──この奇怪な出来事を記憶する人々がこの世からいなくなるまで、七十三年もの“時”を要したのです。 それでも風聞は息づきます。宗旨替えは再興の条件だったのでしょうか。 一説によると、この駿府の僧は、その昔、箱根権現の稚児職にあった者だったとも伝えられています。 私は今、歴史小説とは、招魂と鎮魂の業であると感じています。 私が抱える史実は、いわば歴史の暗部。 闇に葬られた魂たちは、いつか召喚されることを願って生者を呼ぶのか── 誰にも記録されずに消えた命のために、小さく、静かな声で歌う鎮魂歌でありたい。 ご期待ください。 今年も夏が巡ってきます。 物語が私に降りてくる夏が。 ■第六章 江戸幕府■ ◆応援ありがとうございます! 次回更新は、8月1日(金)●矢倉沢●です。 物語の要が、深良の里にぞくぞくと集まってまいります。 ◆山渡る人々と唯一接触できるすべを持つ兄貴連とともに、来週木曜日より 山に入ります。深山を流れる渓流で、自炊の生活が始まります。 山の中で、ウライ(梁:やな)を仕掛けて鮎を採っているものを見かけたら、 それが私たちですv 本日は我がソウルメイト、カーチンさんのお誕生日です☆ おめでとうございます!!! 皆さまも、どうぞよい夏休みの始まりを── お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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