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山口小夜の不思議遊戯

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2009年02月01日
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                      大庭源之丞墓所
                       ■第十八章 水争い

  

 【箱根用水にまつわる不思議な話】
  ─大庭源之丞の命日(2月9日)を迎えるにあたり─

 掲載画像、みづらくて恐縮です。1986年の資料です。
 さて、2月9日は深良村の名主、大庭源之丞の命日です。本文中では名主として活躍中ですが、今後は半年くらいで本編が完結し、その余生については書かない予定ですので、来年まで待ってしまうとせっかくの機会を逃してしまうことになります。
 それゆえ、今年の2月9日を迎えるにあたり、今回は特に大庭源之丞について語らせていただければと思います。漢文の多い小難しい内容の日記になってしまうのですが、どうかぜひぜひお読みいただきたく、皆様にお願い申し上げます。

 大庭源之丞のご子孫の方にお会いできたのが昨年の6月のこと
 この直系の方のお名前を、仮にえみさんと呼ばせていただいております。
 えみさんとの最初の出会いは、このブログの私書箱にいただいた一通のメールでした。
 横浜在住の差出人のお名前は「えみ」とだけお知らせいただいていました。
 幾度かのやり取りの後、メールの最後に初めて、苗字を含むお名前が付けられていました。

 私は驚愕し、すぐに返信しました。
 送信を押す指は、震えていたかもしれません。
 「このご本名──もしかして、箱根用水の開削を友野座に掛け合った、深良のむらおさのご子孫の方でしょうか?」
 お返事は、「その通りです。私の先祖は──」

 もう泣いた泣いた。自分でもなぜ泣いているのかわからなかったのですが、胸のうちでは遠い世の死者たちの思い出が蘇り、渦を巻いているかのようでした。それは限りなく懐かしく、涙がとめどもなく溢れました。

 稀有な出会いに恵まれ、さらにメールのやりとりを重ねるうちに、私はこの方から、まさに天啓のようなメッセージをいただいたのです。
 「小夜子さん。権現様は、女人禁制の禁を犯して隧道を抜けた少女に祟ったのではありません。逆に、それほどまでのインパクトをもって、少女に箱根用水の越し方の物語を知ってほしいという──それは啓示だったのではないでしょうか」
 これを拝読したとき、私はあたかも権現様その人からメッセージをいただいたかのように感激したのです。

 さらに、権現様から恵まれた出会いには、後日談があります。
 ここからはまだお話ししたことがなかったかと思いますが、私はもうひとり、箱根用水にまつわる深良村の歴史に深く関わる人と、まるで何かに導かれるようにして巡り合っていたのです。

 えみさんとお会いしてから数日後、母校である聖マグダレナ女子学院のプチ同窓会に呼ばれました。先日の24日にも自宅で集会があったくらいなので、プチ同窓会はそれこそプチプチよくあることなのですが、昨年6月末に集まったメンバーのなかにひとり、めずらしいことに卒業以来、一度も会う機会に恵まれなかった友人が含まれていました。
 白金台の駅で待ち合わせ、当時校長さまだったシスターと歓談していた折、私はふと、自分の近況として「中三の時の“卒業論文”は箱根用水を取り上げたのですが、今もう一度それについて勉強しています」と言ってみました。
 すると、卒業以来初めて会えた友人Sが、
 「うちの父方の直系が深良村に代々住んでいるんだけど」
 と言い出したのです。

 「──箱根用水開削の後、友野さん(←この方も“友野さん”と呼んだ!)が牢屋に入れられて、村もいろいろと沼津代官から目を付けられていたから、それまでの名主さんと交代して、うちが名主をやることになったんだよ」
 「……。」
 地元に息づいた昔語り。口伝されてこなければ知る由もない新事実。
 そのあまりの生々しさに、驚いて声も出ない私。かまわずSは続けます。
 「深良村の名主は、代々大庭さんという人なの。でも、箱根用水の後の何代かは、うちが名主を代わったの。今でもそのときの名主引継書が残ってるよ。古いものだからぼろぼろだけど、今度見に来てよ」
 古いものだからだって? 350年も前の紙束を今も保存しているというのか君のご実家は。
 そして、そんなことも気づかずに、聖マグダレナ女子学院の六年間を過ごしていたのか私は!

 聞けば、大庭家に代わって名主を代行した友人Sのご先祖様は、宝永の大噴火の際、甲斐から避難してきた人々を世話し、行き倒れになった人には、S家の墓所の一角に碑をつくって懇ろに弔ってあげたそうです。代々続く大庭家と同じ、大きな志と広い心を持った人が、深良村にはたくさんたくさん集まっている様子が見えるようです。

 さて、あらためまして、大庭源之丞その人について語らせてください。
 2月9日、大自然と、巨大権力を向こうにまわし、身に余る責務を一身に背負って戦った、心優しい大名主さんのことを思い浮かべていただければさいわいです。

  ───
 
 大庭家は裾野市深良の旧家で、代々名主をつとめていました。
 系図によれば古くは大場と称し、武田氏に仕えて武功があったといいます。士族から離れ、箱根権現のお庭番という役割を自ら任じるにあたり、「大庭」とあらためたということです。
 さて、大庭源之丞が用水開削を企図する折に、浅草の友野与右衛門を頼ったことは、あながち偶然のなせる業ではありませんでした。本文の第六章「江戸幕府」の文中にあるように、友野の系譜も武田氏につながります。源之丞はかつての系譜をたどって、江戸の豪商を訪ねたのではないでしょうか。

 過去帳等により調査したところ、大庭家の歴代は次の通りです。

 初代 謐峯道靖居士 永禄二年 六月二十九日歿 大庭但馬父

 二代 君心宗応庵主 元和八年 九月十五日歿 大庭但馬

 三代 心巖長応上座 寛永八年 十一月十九日歿 大庭庄三郎父

 四代 山室玄高上座 承応二年 十二月二十九日歿 大庭弾右衛門事

 五代 任王一運上座 元禄十五年 二月九日歿 大庭源之助父

 六代 大嶽清意上座 寛保三年 四月一日歿 大庭源之助事八十七歳

 七代 天想離外上座 延享元年 七月十三日歿 大庭源之丞繁成事


 箱根用水を発起し、友野与右衛門に協力して周旋奔走した源之丞は、上の歴代のうち誰にあたるのでしょうか。
 
 六代清意は源之助といい、その歿年から推して、明暦三年(1657)の生まれであるから、箱根用水開削の寛文6年(1666)には数え年で十歳に過ぎません。おそらく、本文の第一章で大庭家が蒲生の一党に襲われた折、折り重なって寝ていた十人ばかりの子どもたちの中にいたひとりでしょう。
 つまり、与右衛門たちと協力した御発起源之丞は、五代の任王一運上座の源之丞であることは明らかです。大庭家は長寿の家系であるので、源之丞も七十歳以上で歿したとすれば、寛文年間には30代のまことに頼もしい名主振りを想像することができます。戒名もまた、よく回天の業に奔走した人柄を偲ばせるものがあります。

 その後、七代源之丞繁成は宝永年間から深良村の名主をつとめていましたが、深良上原の志村氏所蔵の古文書の中に、一通の名主引継書があるのが見つかりました。
 この奥書には次のように記されていたのです。
 
 右御用御書付御帳面、此度貴殿、倅源之丞跡名主役被 仰付候ニ付、
 只今迄名主役ニ付申候 諸帳面並御書付不残相渡シ候様、綾部平蔵殿ヨリ
 被仰越候間、右目録之通相渡シ申候 以上
 享保十九甲寅六月 深良村 
          源之丞父 
          清意 印

 この文章は、名主源之丞の跡を、源蔵(志村氏)が仰せ付けられたことについて、源之丞の父清意(源之助)から引継書を渡したものです。このような事務引継ぎをするについては、あるよんどころない事情によって、繁成が他国に出なければならないはめに陥ったからです。
 この「あるよんどころない事情」については、与右衛門亡き後の箱根用水の命運と強く結びついていることが考えられますが、これについては追々考察をしていくことに致しましょう。戒名に「離外」とあるのも、他出したことを暗示しています。

 さて、杉並木に囲まれた大庭家の墓地の中に、一段高くしつらえた墓壇があり、数基の石碑が並んでいます。その碑のひとつに、笠石のある古い墓碑があります。それが源之丞の墓で、350年近い風雪によって、表面も風化され、刻まれた文字もさだかではありませんが、次のように読み取ることができます。

 正面には、

 任王一運  上座 
 ■一性圓通一切性 靈覚
 月林妙珂  大姉

 裏面には、

 元禄十六年 末ノ三月八日
 一普現一切水  孝子施主
 元禄十五年 午ノ二月九日

 と刻まれています。
 源之助が老後清意と称したように、もし源之丞が生前受戒していたとすれば「一運」と名乗ったでしょう。裏面は正面に対応して見なければならないので、一運の歿年は元禄十五年二月九日で、妻(←本編ではおいねさん)の歿年は翌年の三月八日となります。

 用水完成後の源之丞の事蹟については、延宝七年(1679)から富沢村の勘兵衛とともに、湖から木瀬川落合までの諸役普請触役を仰せつかった(宝永三年訴状控)とある以外には伝えられていません。
 裾野市久根の古い道の端に、木立に囲まれて古びた庚申塔があります。
 風化した文字の跡をたどれば、正面は七言四句の偈で、

 誓願信心徹上天 三尸穏正得安全
 庚申妙相端然現 騰古輝今渡世縁

 とわずかに読み取れます。
 側面には庚申の功徳を述べたかと思われる文字が書き連ねられ、その下の部分に建碑の世話人と思われる人々の名が刻まれています。
 碑の右側面の左の端に、他の同姓の人々とともに、「大場(ママ)源之丞」とかすかに読むことができます。
 建碑のときは、裏面に「寛文拾庚戌天■秋六日」と記されています。
 この年の春、ようやく箱根の隧道も貫通することができたので、久しぶりに晴れやかな気分になって、まだ庚申の年には早いが、村人たちとともに碑を建てて、そのご利益を念じたものであると考えられます。
 けれども、今はその碑のあることさえ、忘れられていることでしょう。

 
 思い出す者があれば、思い出してほしい──■第十八章 水争い


 ◆応援ありがとうございます!
  次回更新は2月15日(日)●消えたものたち●です。
  本文も十九章を迎え、残り十章あまりとなりました。
  次章より、物語は「転」に突入してまいります。

 ◆2月4日(水)日本テレビ夜7時58分~「日本史サスペンス劇場」
  お時間があれば、見てください☆

 ◆2月1日ですね。桜よ、咲け──



 





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最終更新日  2009年02月14日 12時14分37秒
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