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カテゴリ:旅系
■第三十章 あとりとおふう■ 【久米島旅行記】─終戦記念日に際して─ 先日、夏休みを利用して家族で久米島に行ってまいりました。 毎年、夏休みの旅行の際には、戦跡について考えるようにしているのですが、今回の久米島においては、驚いたことに、地元の方に戦争の記憶を伺っているうち、戦後の日本軍による島民の虐殺という事実を知ることになりました。 多くの日本人が、同じ日本人の兵隊たちに殺されたというのです。 沖縄の終戦は昭和20年6月23日です。この日、沖縄部隊司令官は米軍に降伏しました。この降伏の日から二ヶ月余、沖縄全土を暴風が吹き荒れたのです。暴風の主体は、米兵ではなく、日本兵でした。民間人の蜂起を恐れた日本兵によって、沖縄全土では約千人、小さな久米島だけで20名の人が殺されました。 久米島における虐殺は、本土の終戦よりも更に五日後の8月20日まで続けられました。ここでは特に、本土の終戦後に殺戮された民間人について記しておきたいと思います。 ─昭和45年8月18日の一家三人の虐殺について─ 明勇さんは、当時25歳。防衛召集で海軍守備隊に配属されました。そして6月初め、米兵の捕虜になって収容所に入れられたものの、米軍の久米島攻略に際して道案内として同行、米軍に対し、久米島は無防備の島であることを証明し、島は総攻撃の難を逃れました。 明勇さんは米軍と一緒に久米島に上陸。山中でうろうろしている島民に対し、「米軍は住民に危害を与えないから、抵抗せず、安心して山から下りて帰宅するように」と告げ回ります。そのために、米軍のスパイとして久米島部隊指揮官、鹿山隊長により、明勇さん、その妻、一歳の幼児を虐殺されてしまいます。久米島を米軍の艦砲攻撃から救った義人が、日本軍に殺されてしまったのです。 ─昭和45年8月20日の一家七人の虐殺について─ 谷川さん一家はいわれのないスパイ容疑で殺されました。その日、8月20日は旧盆入りの明るい月夜の晩でした。日暮れ前に村の人が駆け込んできて、「日本兵が殺しに来るから逃げろ」と知らせました。その日はささやかながら、長男一男くんの誕生日を祝っていた谷川さん一家は、驚いて逃げ出しました。 奥さんのうたさんと子供四人が逃げ遅れてしまいました。うたさんが赤ん坊を背負って、一男くんの手を取って逃げようとするところを、日本兵は後ろから日本刀で切りつけました。一男くん、七歳の長女綾子ちゃんと二歳の次女八重子ちゃんのふたりの姉妹も母親の遺体の上に引き据えられて惨殺されました。十歳の一男くんは、学校では級長をつとめる頭のいい子だったそうです。 夜11時過ぎに谷川さんと次夫くんが見つけ出され、谷川さんは首にロープを巻きつけられて数百メートル引きずられて殺されました。更に日本兵たちは、五歳の次夫くんを父親の遺体の上に投げつけ、遺体にしがみついて泣き叫ぶ次夫くんもろとも突き殺しました。 実際には、もっと惨い方法での殺戮があったのですが、ここでは上記のように表現するにとどめます。 戦後のマスコミのインタビューに鹿山隊長はこう答えています。 「われわれ隊は三十名しかいない。相手の島民は一万人いる。地元の住民がはむかってきたら、われわれはひとたまりもない。だから見せしめのためにやった」 虐殺した日本兵は、その後本土に帰還して軍人恩給を受給しています。 久米島のひとびとは、戦後、政府が新しい憲法を制定したときに配布された『新しい憲法の話』という子供向けの冊子を、今でも大切に保管して信じています。 「みなさんの中には、お父さんや兄さんが送り出された人も多いでしょう。ご無事でお帰りになったでしょうか。それともとうとうお帰りにならなかったでしょうか。また、空襲で家やうちの人を亡くされた人も多いでしょう。今やっと戦争は終わりました。二度とこんなおそろしい、悲しい思いをしたくないと思いませんか。 こんな戦争をして、日本の国はどんな利益があったでしょうか。何もありません。ただ、おそろしい、悲しいことが、たくさん起こっただけではありませんか。戦争は人間を滅ぼすことです。世の中の良いものを壊すことです。だから、今度の戦争をしかけた国には、大きな責任があるといわなければなりません。 この前の戦争の後でも、もう戦争は二度とやるまいと、多くの国々ではいろいろ考えましたが、またこんな大戦争を起こしてしまったのは、まことに残念なことではありませんか。 そこで、今度の憲法では、日本の国が、決して二度と戦争をしないように、二つのことを決めました。そのひとつは、兵隊も軍艦も戦闘機も、およそ戦争をするためのものは、いっさい持たないということです。これを戦力の放棄といいます。「放棄」とは、「棄ててしまう」ということです。しかし、皆さんは決して心細く思うことはありません。日本は正しいことを、ほかの国より先に行ったのです。世の中に、正しいことぐらい強いものはありません。 もうひとつは、よその国との争いごとが起こったとき、決して戦争によって、相手を負かして、自分の言い分を通そうとしなということを決めたのです。おだやかに相談をして、決まりを付けようというのです。なぜならば、戦をしかけることは、結局、自分の国を滅ぼすようなはめになるからです。また、戦争とまでゆかずとも、国の力で、相手を脅すようなことは、一切しないことに決めたのです。これを戦争の放棄というのです。そうして、よその国と仲良くして、世界中の国が、よい友達になってくれるようにすれば、日本の国は、栄えてゆけるのです。 皆さん、あのおそろしい戦争が、二度と起こらないように、また戦争を二度と起こさないように致しましょう」(原文のまま) こんな海と空が美しい島で、このような悲劇があったことを胸に刻まなければならないと、滞在中はずっと感じておりました。小島よしおの母方のルーツの島は、あれから64年の歳月を経て、今は南の楽園の様相を取り戻しています。 米軍も上陸したアーラ浜の夕日を見たくて、オットの運転するレンタカーで移動していたのですが、道を間違えたことに気づいたオットが、どうしたわけかいきなりバックで方向転換をしようとして、側溝にタイヤを落としてしまった折に、誰もいないかと思われた集落から次々に人々が出てきて、車まで出してロープで引っ張り出そうとしてくださって、さいわいにも、すぐにレンタカーは救出される運びとなりました。いつの間にか、応援の車も五台も集まっておりました。突然の出来事に泣きそうになっていた娘には、「こっちに小学生のお姉ちゃんがいるから、一緒にいなよ」と言ってくださって、ご自分の娘さんと引き合わせてくれました。 見ず知らずの、しかも通りすがりの本土からの旅行者に、ここまでしてくださったご親切のことを忘れません。お名前を──と伺っても、「そんなこといいから」と笑って手を振って、それぞれのお屋敷に立ち去って行かれました。 島の人が今でも大切にしている『新しい憲法の話』の中で繰り返し説かれている、理解し合うということについて、この旅行中に私は実体験として学ばせていただきました。 先日、Kのご両親とお会いした折、広島出身のKのお母様が胎児被爆者であることを伺いました。お母様は乳がんの手術をされており、Kもまた、腫瘍などの身体の不調に苦しんだ人でもありました。 己の不幸をさかしらに振りかざすな、とエボシさまに怒られてしまいそうですが、私の父も長崎で放射能を浴びました。直接被爆したのではないのですが、終戦直後に満州から引き上げてきて、しばらく長崎に留まっていたのです。その後、体調を崩した父は小学生五年生の一年間を病欠したので、楓のように学年がひとつ、遅れています。成人してからは元気そのものだったのですが、56歳で胆管ガンが発見され、三ヶ月近くの入院の末、急逝してしまいました。父の両親である私の祖父母も肺がんで亡くなっており、私自身、今後は検診などをこまめに受けるべしと、肝に銘じているところです。 話は変わるのですが、音から私たちの気づかない情報を得るという特異体質を持つヒカリは、「ヒロシマという響きが怖い」と言います。音に対して敏感なヒカリは、いにしえの日本人が感得していた言霊を感じているのでしょうか。ヒロシマという言葉に、今はどんな「言霊」が籠もっているのでしょうか。 なぜ戦争をしてはいけないかというと、『新しい憲法の話』にもあるとおり、戦争は誰の利益にもならないこと、人間を、国を滅ぼすことのみならず、孫子の代にまで戦禍が及ぶことこそ、私たちが最も戦争を忌避しなければならない理由であるかとも思われます。 誰のための戦争だったのか、そして誰が犠牲になったのか、よく考えなければならない。 愛、燦々とさんも、母方のお血筋が広島に関わったと聞いています。もし、万が一、広島のことで愛、燦々との遺伝子が傷付けられているようなことがあれば、私はさらに深く戦争を憎むだろう。戦争を起こしてはいけない理由は、私たちが大切な人のことを思いやる心の中を探せば、誰しもきっと見つけることができるはずだと思うのです。 いつか訪れる、そのときも笑顔で──■第三十章 あとりとおふう■ ◆応援ありがとうございます! 次回更新は9月1(火)●雁●です。 箱根用水物語の最終章となります。 皆様、これまでの励ましを本当にありがとうございます。 登場人物の全員で、皆様のお越しをお待ち申し上げております。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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