鳥取物語 番外編 不二一族物語 第八節●痕跡●
豊が禊をするために風呂を使うその直前──。 田舎道の夜に忽然と出現したパチンコ屋のごとく、相変わらず人生が明るく爆発しているかのような不二屋敷の喧騒に楽しく聞き耳を立てながら、実は、遼がまだ、の~んびりと長風呂に浸かっていたのだった。 湯船に出たり入ったり。 その何度目かの折り、だが突如として湯水に影がさす。 ──ややっ、はるはる。 ──おお。 遼は湯水を気管に吸い込みそうになる。 湯船の底から現われたのは、遼より少し年上くらいの若者だ。どこから浸入したのかは問わないが、顔が・・・・・どう見ても吊り橋の下にいた水中のゴン中山なのであった。 ──カッパじゃねぇか、ひさしぶり。 その顔を認めた遼は、カリンと植物のように痩せた妖しい青年の肩を、懐かしそうにばしばしと叩く。 ──カッパじゃない、水霊だ。 水底から上がる泡のような不明瞭な声で、すかさず訂正が入る。 そいつは水霊(みづち)・・・・・相生村にも度々現われる顔なじみだ。 三十歳前後に見えるが、ほんとはいくつなんだか。不二屋敷の淵に棲んでいて、ご承知のとおり、豊を沢に引きずり込んだカッパとは同一人物。 ──けど、マジひさしぶりだな! どーせわしのことを出立前の禊に入ったゆただと思って出歯亀しに来たんだろーが、それには早すぎたっちゃよ。しかも、朝の行水には遅すぎたってか! 今朝方、ゆたが風呂場でワイセツ目的の神だかに襲われたってとき、てめーいなかっただろ。 げしっ。 遼の手刀が水霊(?)の脳天に炸裂する(←大丈夫か、皿は)。 水霊は、むっと上向きの鼻の穴をふくらませた。 ──農繁期だ。朝から田植えだったんだよ。おれ、田の神だし、他の若いやつらの魂だってあちこちの祭礼に召喚されて水霊塚から留守してたのに、いくら皇子(おうじ)さまの行水シーンが見れるからって朝っぱらから風呂場まで覗きにくるわけいくかい。 仲がいい。 ──ち~っ! 弱気だなミッチー(水霊のことか?)。てめーいっぺんくらいゆたに堂々と告白したことあんのかよ? 遼が冷やかすと、水霊は顔を深緑色にした。 ──あるよ! けど、あの人、ぼんやりさんだし・・・・・、 ──せっかくコクっても、守宿の皇子さまの方がイミわかんねーってか! 浴室に響く遼の大爆笑。他の家族が聞いたら、いったい何をしていることかといぶかしむくらいの。 ──いちいちムカつくやつだな! おれなんか無害もいいとこ。不二屋敷の淵に長年棲み込んで、ほとんど身内だからな。第一、おれたちの誰かがマジであの人の霊力を得ようと手ぇ出してみろ。仲間内の足の引っ張り合いで、そりゃもう泥沼になるってわかりきってるし、へたすりゃ命取りだし、誰にもできるこっちゃねーんだ! ──ちやほやされてんだなぁ、あの王子さまは! 遼の言葉に、腕組みしてしみじみとミッチーは言った。 ──豊ベイベは、不可侵のご神体でいいのさ。 ──寒っ! そーゆーの逆にすげぇいやらしくねぇ? 肩をこする遼に、水霊はますますキレる。 ──県外に行っちまった人は黙っていてほしいだ! ──だいたいおまえ聞いたぞ。コクったっての、ゆたのこと淵に沈めようとしただけじゃねーの! カッパ塚に連れ込まれそうになるたぁ、あいつも難儀なことじゃ。一生キュウリでも食べてろってか。 ──カッパじゃない、水霊だ! それに、あの人は酸っぱいもんが好きだけぇ、わしはもずくきゅうりを作って差し上げようと思っただけだ!(←うそ) ──なんじゃそりゃ! ほとんど‘黄桜’の世界だな。 遼は破顔し、ひらひらと手をふった。 そして、ずぶずぶと水面に顔をうめていく。 ──けどなー。ちやほやされてるだけだと、己の力が測れなくなるってこと。守宿多(すくのおおい)の名は、水戸のご老公さまの印籠とは根本的に違う。ふりかざすだけで誰も彼もがまつろうものだと、あいつ自身が勘違いしてないといいが・・・・・。 遼は水の中で思案げにひとりごち、やがて浮き上がってくると水霊のうすっぺらい肩をいきなり引き寄せて言った。 ──いずれにせよ、だ。今宵の御魂鎮の儀式なんざ、神と人との‘花いちもんめ’に過ぎん。にしても、勝負ならば不二一族が負けることはわしが許さん。不二屋敷の長男が、可愛い弟をタダで神さんなんざにくれてやるわけにいくかっての! そして、今度はその妙に尖ったアオミドロ色の耳に、詳細な様子で何事かを吹き込みはじめた。 ──ええかお主。今度ばかりはゼッタイにぬかるなよ・・・・・。 ─── 拝殿から母が出てゆくかすかな物音を聞きながら、ふたたびひとりにされた豊は、今朝方に父の指名にあった時のことを、思い返すともなく思い返していた。 だが、静寂に守られた深い物思いは、すぐにけたたましい爆音にぶった切られることになった。 ──うーっす、ゆんゆん! 用意でけたか? 円がいきなり襖を開いた。 奥殿を向いて正座をする本人の姿はあるのに、返事がない。 ──ゆったん☆ 左の耳を甘噛みされて、うわ、と首をすくめた。 ──ゆた、なにしとるぅえ? ──いや、ちょっとぼんやりしとった。 ──おまえの‘ぼんやり’はいつも堂にいっとるの! 額を小突いてくる兄を、豊が睨み上げた。 ──まど、いつも言うとるやろが! ノックぐらいしろや、幼稚園で習ったやろ。 ──声はかけたで。ぼんやりしよるおまえが悪いんじゃ。それに襖にどうやってノックせぇっちゅうだ。踏み抜けってか。 言いながら、円は常なるにこにこ顔を貼り付けたまま、豊の正面にいざってきた。 ──おおーっ! 似合うてる似合うてる! やっぱ白装束には黒髪だが! わしなんぞ生来から茶髪だからなぁ、清童だった時分には、それはそれは似合わんかったじぇ! ──だろうよ。おまえの場合、白装束させたら古き良き日の愚連隊だが。 憎まれ口を叩きながら、前髪をいじる。見事な黒髪。光にも透けない。 ──で、なんしてあんたたちがここにおるだ! これを憤らなくてどうする。 周りを囲むように、兄弟姉妹が座り込んでいる。これじゃまるで見世物ではないか。 ──ゆたさん、ごめんな・・・・うちら、野次馬みたいで・・・・。 ──わかっとるなら去れ。 ──しずさんにあそこまで言われて・・・・・・気になるっちゃよ。 ──そんなに気になるならあんたが行け。 ──きれいよ、ゆったん☆ ──二度とその名で呼ぶな。 ──うろ様にも頑張って欲しいだなぁ。 ──そっちを励ますな! 組、和、織、円によるそれぞれの手向けの言葉にそう言い返して、着物の襟を正す。 よし、完了。 確かに極秘にしているとはいえ、自分が守宿であることは厳然たる事実でもある・・・・・・いつまでも守業から逃げているわけにもいかないだろう。 いいかげん、肚を決めるか──。 だが、期せずして、そこまでの決心に完全に水を差すかたちで、静の声が飛んだ。 ──ゆた、首筋のそれ、なに。 静の酷薄そうな切れ長の双眸が、目ざとく弟のうなじに注がれている。第二関節が異様に長い、外科医向きの指がすんなりと伸ばされ、そのうなじを指し示している。 その視線があまりに鋭いので、豊は刃物の切っ先を向けられたかのように、思わず知らず両手を顎の下にあてて首をすくめた。 そういえば、さきほどの禊の折りにも、父の小角さまがなにやらそのあたりをじっと見つめていたような・・・・。それで、なんて言ったんだっけか。髪を伸ばせと──。 あれは、髪を伸ばして何事かを隠せと言っていたのか・・・・・? 豊が恐怖しながら自分の首筋を抱く両手を、すかさず取って指の一本一本をゆっくりとはがしていきながら、円が軽快に言う。 ──まさか、キスマークとかいうんでないやろな? こいつにそがな恵まれたモン・・・・ええっ?! 円の大げさな声に、静は我が意を得たりというふうに、薄い唇を歪ませて笑った。 ──すでに【うろ様】に喰われちゃった、とか。それは、その時に与えられた鬱血の痕なのかな? 指摘された豊は、あわてて首をぶんぶん左右にふった。自分で自分の首筋が見られないだけに、原因不明の焦りだけがつのる。 ──ち、違うっちゃ。昨日の晩は暑くてよう眠れんで・・・・それで朝になってから水浴びしようと風呂に行ったとき、ちょっと貧血起こして・・・・きっとその時どこかにぶつけたんじゃ。 その言い訳に、円が面白そうに顔をのぞきこんでくる。 ──晩に暑くて眠られんで、朝風呂入って貧血だ? おまえ、欲求不満じゃないんか? ──欲求不満? わしが? ああ、そうか・・・・・・そうなのかも。 静の双眸がすうっと細められ、今回ばかりはやけに素直に認める弟の様子を、睫毛の奥からじっと伺っている。 ──かぁいそーになー。十五いうたら、まだまだその手の欲求なんぞはこれからだが。それを希求するは、もう暴力的と言ってもいいくらいなエネルギーっちゃぞ。 円がしたり顔でうなずきながら、弟の頭をなでなでする。 ──おまえはただの耳年魔だからなー。本を読むだけじゃ、生身の身体は満足せんでー。『サンダカン八番娼館』やら『チャタレイ夫人の恋人』やら・・・・。そういや、最近枕の下にあったのは『遊仙窟』やったな(←なぜ知っている)。あれ、どう? 使える? 豊の耳朶に小さく開けられた穴に、月石で出来た勾玉の耳飾りを丁寧に引っ掛けてやりながら、円が屈託なく訊ねる。 耳を片方ずつ差し出しながら、豊も小首を傾げた。 ──使えんわ。目ぇ凝らして読んでも、その部分はたったの三行っちゃが。なんしてやろ? 唐王朝では発禁本だったちゅうに。今度原典講読に挑戦してみようと思っとるが・・・・。 ──いったい何に使えるだの使えんだの言っているんだバカ者! 言葉を慎んで会話しろ。 年頃の兄弟同士の忌憚のない応酬に、すかさず静の叱正が入る。 ──だいたいゆた、おまえはこれから神子(みこ)として捧げられるだぞ。よくそんな余裕かましてられるな。今頃は禊の後、ひとりで自分の越し方行く末を瞑目しているのが道理っちゃが! どこで瞑目ができるというのだ、この状況で。 ──今朝方、父さまには何と言われてきただ。わしに言うてみぃ、今ここで! 我を忘れ、静も思いっきりなまっている。 だが、兄に頭ごなしに叱られて、豊は先ほどの物思いに引き戻される。 彼が父の指名を直接に受けたいきさつとは、実はこういうことなのであった──。--------------------------------------------------------------------- あの。すんごいくだらないお話をしてもいいですか? 連日お風呂のことを書いていて(笑)、思い出したんです。 ご承知のとおり、豊は国立大に行った某お兄さんにめちゃめちゃしごかれて勉強していたために、中学とかの英語は楽勝だったのです。 で、英語の試験に、「接頭語enは中にという意味がある。cf.enter,entrance,etc. inも同様で中にという意味である。cf.include,information,etc. では、ふたつのものを合わせるという意味を持つconを使って単語を作りなさい」 という問題が出たときに、もはや豊は点数なぞどうでもいい位置にいたわけで、その回答欄に堂々と「conyoku」(混浴)と書いたそうです・・・・以上。 明日は●指名●です。 お父さんも大変だなぁ・・・・・。 私も妹も父と娘という立場だったので、父と息子という関係にはとても興味があります。 タイムスリップして、不二屋敷の東端の部屋に集まりなんせ。 ◆お読みいただけたら人気blogランキングへ 1日1クリック有効となります。ありがとうございます。励みになります!