『守教 』上下 帚木 蓬生
戦国の世、ザビエルによって日本にキリスト教がもたらされてから約300年、切支丹禁教令(1614)がでてから明治の世になるまで約250年密かに教えを守ってきた村があった。その間、7世代になるという、「7世代後にはパードレが来る」と信じて・・・遠藤周作の『沈黙』はだいぶ前に読んだし、映画も観た。でもこの作品では『沈黙』では描かれなかった長かった江戸時代にも百姓の目を通して代々教えを引き継ぐ姿を現している。江戸時代になってから地方の各村々にも寺が建立されるようになり、百姓も村の旦那寺に属し、寺によって管理される。そして、この小説の舞台の今村の庄屋は寺の住職にお願いに行く。住職は「切支丹の教えはどのようなものか」と尋ねる。「自分を神の手の中の小さな道具にする。私たちはデウス・イエズスの筆先にすぎない。」それを聞いた住職は、「それは仏の教えと瓜ふたつだ。人は仏の小さな道具、小さな筆先、人の行いは大河の一滴。」と言い、「その教えを守りましょう。」と答えた。仏教の教えが末端の百姓までいきわたっていなかった戦国時代、ちょうどいい具合にキリスト教が入ってきて、百姓にも分かりやすかったので、広まってしまった。という訳なんですかね?守教 上 [ 帚木 蓬生 ]守教 下 / 帚木蓬生 【本】【内容情報】(「BOOK」データベースより) 初めてだった。これほどに、自分を認めてくれる教えは。だから、信じることに決めた。百姓たちは、苦しい日々を生き抜くためにキリシタンになった。なにかが変わるかもしれないという、かすかな希望。手作りのロザリオ。村を訪れた宣教師のミサ。ときの権力者たちも、祈ることを奨励した。時代が変わる感触がそのときは、確かにあった。しかしー。感涙の歴史巨編。戦国期から開国まで。無視されてきたキリシタン通史。