『三島由紀夫』佐藤秀明
山中湖にある「三島由紀夫文学館」に三島の“遺書”が展示されている。昭和19年、19歳で徴兵検査に合格。昭和20年2月入営通知が届き、本籍地である兵庫県へ出立する。遺書はこの時に書かれたものと思われる。整然としたきれいな字だ。この時代の青年がみな死を覚悟して戦地に赴くことが当たり前の時代だった。三島もこの時に死を覚悟したと思われる。しかし、入隊検査で熱を出し、右肺浸潤の診断で「即日帰郷」となる。この事について三島が後年語った記録はないが、「ひめゆり学徒隊」で生き残った人たち、戦友を失い復員した元軍人たちが、多くを語らぬように、「生き残ってしまった罪悪感」を抱えていたのではないかと思う。著者は現在「三島由紀夫文学館」館長である。文学館が出来た経緯が書かれている。「1996年三島の未発表原稿が大量に見つかった。それが山中湖村に譲渡されることになり、村が三島由紀夫文学館を建設し運営することになった。いくつかの自治体や大学に打診したが実現せず、山中湖村が意欲的だった」ということである。そして、1999年山中湖文学の森に開館した。家から車で30分で行けるところに「三島由紀夫文学館」が開館したのだ。当時の村長さんに感謝したい。10代の頃に読んだいくつかの三島作品の詳細は覚えていないが、緻密で奥が深い文体と、そこから醸し出されるなんとも言えない妖しさは当時の私にとってはとても難解で衝撃的だった。三島由紀夫 悲劇への欲動 (岩波新書 新赤版 1852) [ 佐藤 秀明 ]「悲劇的なもの」への憧憬と渇仰。それは三島由紀夫にとって存在の深部から湧出する抑えがたい欲動であった。自己を衝き動かす「前意味論的欲動」は、彼の文学を研ぎ澄ませ昇華させると同時に、彼自身を血と死へ接近させてゆく。衝撃的な自決から半世紀。身を挺して生涯を完結させた作家の精神と作品の深奥に分け入る評伝。