カテゴリ:京の見どころ
. 曹洞宗永平寺派・詩仙堂 丈山寺(しせんどう じょうざんじ) 1641年徳川家の家臣であった石川丈山が武士を捨て隠居のため造営した山荘で、その後世俗を離れた生活を送る 石川家は父祖代々徳川譜代の家臣であり、丈山もまた16才で徳川家康に仕え33才の大阪夏の陣で目覚ましい功名を立てるが、軍紀を破り突入した咎めを受け家康より蟄居を命じられことから、出家中国の儒教や書道を学び清貧の毎日を送ることとなる 建物の名はでこぼこした山の斜面に建てられた住いとの意で、「凹凸?(おうとつか)」と付けられるが、狩野探幽によって描かれた中国の詩家36人の肖像を掲げた詩仙の間が中心とされているところから「詩仙堂」と呼ばれることとなる 写真は表門「小有洞(しょういどう)」屋根には苔が付く極めて質素な造りの門です 以下、丈山が史跡・詩仙堂の十境と見たてた主なところです (左)門から入り竹林・竹垣の石段をのぼり昼なを薄暗い小道です (右)石段に導かれた入り口門「老梅関(ろうばいかん)」をくぐる 右側趣向を凝らした雲形の窓がみえる建物正面です、玄関上は3階建ての「嘯月楼(しょうげつろう)」で、この建物の姿は詩仙堂の象徴となっています (左)玄関には「死生大事」の札が架っています、左下にUPしたのは当初の表札でしょう「凹凸?」と書かれた木札です(右読みです)、右書院の正面に於いてあります (右)「書院」床の間には、隷書の大家と謂われる丈山直筆の三幅の掛軸「福・禄・寿」が掛かっています 書院から眺める南庭です、丈山自ら作庭した唐様庭園で木々の配置ときれいな刈り込みの庭は、当時に於ける代表的な庭園とされています 「詩仙の間」壁には獅子が子を谷に落とす図の扇形の壁窓があり、上方には中国の詩人三十六人の肖像とその図上に詩が書かれて掲げられています 我が国の三十六歌仙にならったもので、詩人の坐像元々は狩野探幽の筆で、詩は丈山自筆の隷書体で書かれたものでしたが、現在のものは小早川秋声画伯(近世日本画家)の模写です (詩仙の間を始め、室内は撮影不可で資料より) (左)同三十六詩人の書と肖像です (右)詩仙の間より臨んだ南庭です 下の庭「百花塢(ひやっかのう)」百花を配している庭という意味で四季折々の花が咲き、小川と池が風情を盛り上げています ここには七竃(ナナカマド)の白い花咲ききっていました (左)茶室「残月軒」この建物は丈山作庭時にはなかったものですが、静かな下の庭に面して我が国における文人茶(煎茶)の開祖丈山をつたえる茶室です 手前白の大きな紫陽花です (右)自然の渓流を通して落ちた池の周りにも小さな花がたくさん植えられ、僧都(そうず)と呼ばれる獅子脅しの時折響く高い音は、静寂な庭に趣を添えています さつき過ぎた庭に、いま青・紫・白の紫陽花の花彩っていました 池のそば繊細で可憐な京鹿の子(京がのこ)とひかえめながら可愛い蛍袋(ホタルブクロ)が花をつけていました 庭側からみる詩仙の間と嘯月楼 堂の上に目立つこの楼閣は、丈山が月を見・庭を見て詩歌の世界に浸り、また京の街を一望し時の流れを感じたと謂われています 詩仙堂 馬郎婦観音(めろうふかんのん)を祀り、大本山永平寺・曹洞宗のお寺となったのはまだ近く昭和58年で丈山寺の寺名をうけ、いま詩仙堂・丈山寺と呼ばれています (TOPページに「花いろいろ」UPしています、今紫陽花2です ホームで見て下さい) ........................................................................ 京都市バス 「一乗寺下り松」下車 徒歩東へ7分 詩仙堂HP URL---http://www.kyoto-shisendo.com/ ------------------------------------------------------------------------ 被災地に届けよう!
【京都】老舗や名店がひしめく古都。お土産や名産品をお取り寄せ! ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[京の見どころ] カテゴリの最新記事
|
|